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「これが……異世界……」
わたしは手にした本を胸に抱きかかえ、目の前の光景に息をのんだ。
巨大な建造物の足元から、人の群れが絶え間なく流れ出ていた。滑らかな舗装の上を誰もが迷いなく進み、ぶつかることなくすれ違い、一定の速さで交差していく。
「随分と大勢の民が行き交っているな……」
「ここがこの国の都なのだろうか……。殿下はこの喧騒の中に、ひとりで迷っておられるのでは……」
ヴィンセントとフォートグレン副団長は警戒するように周囲を見渡している。だが、誰もわたしたちに目を向けることはなく、人々は手に光る板を持ち、耳に小さな装置をつけ、無言のまま足早に通り過ぎていく。
わたしたちは見たことのない密度の人と光に包まれ、空から降る音の矢に耳を打たれながら、巨大な門の前に立っていた。
あの後、わたしたちが召喚の間へ駆け込むと、床に展開されていた魔法陣は、淡い残光が揺れながら消えた直後だった。
「嘘……わたし以外は聖女しか使えないはずなのに……まさか……」
わたしは魔法陣が消えた床を呆然と見つめながら、その場にいたフォートグレン副団長に問いかけた。
「マルグリット王女殿下は、聖属性魔法を使えるのですか!?」
「ええ。ノルヴェリクでも過去に聖女召喚が行われていて、王族と結ばれた聖女もいました。マルグリット殿下はその血を濃く受け継いだ“先祖返り”とされていて、聖属性魔法を扱える希少な存在です」
そう、聖女を返還するための次元接続式転移魔法陣は、聖属性魔法がなければ発動しない。
「あの、殿下はどこへ……」
フォートグレン副団長の問いに、わたしは深く息を吐き、冷静に告げた。
「マルグリット王女殿下は異世界へ行ってしまったようです」
「っ……!」
彼は動きを止め、言葉を詰まらせた。
「大丈夫です。わたしは聖属性魔法と同等の魔法が使えますから、王女殿下を追えます」
「……殿下は、戻ってこられるのですね?」
わたしが頷くと、彼は胸元に手を当て、安堵の表情を浮かべた。
「しかし、迷っている暇はありません。早急に準備を整えます。フォートグレン副団長、行きますよ!」
「待て、アーシャ! 俺も行く!! 二人きりになんかさせてたまるか!!」
「アーシャ、伏せろ! 魔物だ!!」
ヴィンセントの声に頭上を見上げると、目の前のガラス張りの建物の壁面から、巨大な猫が飛び出してきた。
ヴィンセントとフォートグレン副団長は、瞬時に剣を抜き身構える。だが、周囲の人々は、誰も驚かなければ、誰も逃げ出さない。
「この人たち……あの魔物が見えていない? それとも……」
わたしは猫の動きをじっと見つめた。猫は壁面から顔を覗かせ、大きな瞳でこちらを見下ろした。耳をぴくりと動かし前脚を伸ばすと、あくびをしながら、落ちることなく縁を歩いた。
「魔物ではない……のか……? 攻撃を仕掛けてくる様子もないし……」
「この世界の聖獣と言ったところでしょうか……」
「あの建物はこの国の神殿なのかしら」
ヴィンセントとフォートグレン副団長は、ほっと息を吐くと、剣を鞘へ戻した。
フォートグレン副団長が周囲を見渡し、視線を止めたまま言った。
「先ほどから気になっていたのですが……あれは何でしょう?」
彼の視線は、人々が持つ光る板に向けられていた。
「ええと……あったわ! あれは“すまほ”なる文明の命綱ですね」
「アーシャ、それ……」
ヴィンセントが、わたしの抱えていた本を指差す。
「神殿から最後の聖女様が綴った聖女記を借りてきたのよ。これがあれば、この世界の文明構造をある程度解析できるはずだわ」
わたしが聖女記のページを捲りながら記述にざっと目を通していると、フォートグレン副団長は、色とりどりの光を放つ大きな箱へと近づいて行った。高さは人の背丈ほど、前面は透明な板で覆われ、内部には似た形状の筒が整然と並んでいる。
「こんにちは。今日は穏やかな陽気ですね。お飲み物はいかがですか? 今週の人気商品はカフェラテです。お試しください」
フォートグレン副団長が側面にある小さな突起に触れると、箱が突然言葉のような音を発した。彼はすぐさま一歩下がり、箱に向かって頭を下げた。
「失礼した。中に人がいるとは思わず……だが、何を言っているのか……」
わたしはローブの懐からブレスレット型の魔導具を取り出し、自分の手首に嵌めたあと、ヴィンセントとフォートグレン副団長に同じ物を渡した。
「このブレスレットは言語変換装置です。これを着ければ、この世界の言語を理解できます」
ブレスレットを嵌めたわたしたちが箱に向き直ると、箱の中の人物が再びしゃべり出した。
「今日は過ごしやすい気温ですが、夕方からは冷え込みが強まりそうです。温かいお飲み物で体を内側から守りましょう。乾燥にもご注意を」
「何故このような箱の中に民が……?」
「この世界にはこういった務めを果たす者がいるのか……。いやしかし、殿下の無事を願う者として、そなたの助言に深く感謝する」
わたしたちが揃って頭を下げその場を離れると、ちらりとこちらを見ていた女性が、少し距離を取って歩き出した。
「ところでアーシャ、どうやって王女を探すんだ?」
「マルグリット王女殿下の魔力を探知すればいいと思うわ」
わたしたちは雑踏を抜け、喧騒から外れた路地裏へと足を踏み入れた。一息ついたわたしたちは、マルグリット王女の捜索について話し合っていた。
「いくわよ」
ローブのフードを上げ、杖を出現させて頭上に掲げる。だが、探知魔法を展開させようとしたとき、後方から女性の掠れた声がかかった。
振り向くと、建物群の隙間に周囲とは異なる空気を纏った細長い建物が埋もれていた。その一階の奥の薄暗い窓の向こうで、高齢の女性が水晶に手をかざしていた。
「お嬢さん……いずれあんたは栄光を掴むよ。けどねぇ……覗いてみるかい? その先の未来を。今なら恋愛運と金運セットでたったの五千円!」
彼女の言葉に、わたしは息をのみ目を丸くした。
「……聖女記によればこの世界に魔法は存在しないはずなのに、貴女は時空魔法の使い手なの!? わたしたちの世界でも時空魔法理論は未完成……詳しく教えていただけるかしら!?」
「この世界の魔術師……!?」
「しかも時を操る魔術師とは……! 殿下は危険な術に巻き込まれたりしていないだろうか……」
わたしが彼女に詰め寄ると、彼女は無言で水晶を布で包み、「営業中」と書かれた板を裏返し、「本日終了」の札をぶら下げた。
「え? ちょっと……」
「……閉店です」
そう言い残すと、この世界の魔術師はガラガラと鉄の扉を下ろした。
「アナスタシア嬢、彼らはこの国の剣士でしょうか?」
フォートグレン副団長が指差した先、紺の装束に身を包み、肩に細長い袋を掛けた少年たちが歩いていた。袋の端からは木製の柄がわずかに覗いている。
「……あの歩き方、訓練された者の動きだ」
「只者ではないでしょう……殿下に仇なす者でなければいいが……」
ヴィンセントとフォートグレン副団長が、少年たちに近づき声をかけた。
「それは鍛錬用の木剣なのか? 随分と細長い形状をしているようだが……」
「君たちは年若いのに良い眼をしている。その装束はこの国の騎士服だろうか?」
少年たちは一瞬固まり、互いに顔を見合わせた。
「え、なに? 不審者?」
「ガチでヤバイやつ? 通報?」
「“いかのおすし”って何だっけ?」
少年たちは小声で何かを確認し合うと、じりじりと後退した。一人が胸元から小さな装置を取り出し、その突起を引くと……
ピィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!
耳を裂くような凄まじい高音が鳴り響き、周囲の視線が一斉に集まった。
「な、何だこれは!? 魔獣の咆哮か!?」
「騒ぎになるとまずい! アーシャ行くぞ!」
「そ、そうね。ここは離れた方が良さそうだわ」
少年が光る板をこちらに向ける中、わたしたちはその場から走って逃げ出した。
「はぁはぁ……」
息を整え顔を上げると、目の前には左右対称に伸びる巨大な双塔がそびえ立っていた。無数の窓が光を反射し、堂々とした構造が空気を震わせるような圧を放っている。
「……これは、この国の王城か?」
「違うわ。これはこの地の政務を担う中央機関よ。王城じゃなくて、領主や文官たちが集う執務の塔ね」
わたしは聖女記を開きながらヴィンセントに答える。フォートグレン副団長は双塔の天辺を見上げながら、あまりの巨大さに言葉を失っていた。
そのとき、双塔の足元の広場に檀が設けられていることに気づいた。壇の中央にはグリーンの上衣を着た中年の女性が立ち、民に向かって言葉を発している。彼女の周りでは黒い服の護衛が数名鋭い視線を巡らせており、その周囲には奇妙な筒や箱型の道具を構えた者が集まっている。
「彼女がこの地の領主なのかしら」
「迫力もありますし間違いないでしょう。護衛も精鋭揃いのようです」
「ならば、王太子として礼を尽くさねばなるまい」
ヴィンセントが胸に手を当て、フォートグレン副団長も背筋を伸ばして歩み出す。
「待って、勝手に近づいては駄目よ!」
わたしの制止も虚しく、二人は人垣をかき分け、彼女に向かって堂々と歩み寄り声を張り上げた。
「ルトニアス王国王太子、ヴィンセント・ルトニアスがご挨拶申し上げる!」
「ノルヴェリク王国騎士団副団長、デイビット・フォートグレン。この地の統治者に謁見の栄を賜りたく——」
バッ!
次の瞬間、黒い服の護衛たちが一斉に動いた。二人はあっという間に取り囲まれ、地面に押さえ付けられた。
「な、何だ!? 我々は礼を尽くしただけだぞ!?」
「この国の護衛はずいぶんと荒っぽいな……! 殿下がこのような扱いを受けていなければ良いが……」
わたしは急いで駆け寄り、叫んだ。
「ごめんなさい! この人たち、ちょっとおかしいけど害はないんです!」
杖を掲げ転移魔法を展開する。空気がひしゃげたその刹那、わたしたちは木の板が敷き詰められた広場に立っていた。周囲には異形の像が並び、中央には丸い腹、短い手足、つぶらな瞳を持つ獣の銅像が鎮座していた。
「……これは、聖獣か?」
「博物誌で見た飛べない海鳥に似ているが……」
そのとき、透明の壁の向こうから空気を裂くような轟音が響いた。
「アーシャ、あれは何だ?」
「あれは……“しゃちく”の牢獄なる“でんしゃ”という鉄の拘束具ね。朝になると民が自ら乗り込み、“かいしゃ”という組織へ向かうの。この像はそれを見守る守護獣よ」
聖女記を捲りながらヴィンセントに答えると、像に向かって一礼したフォートグレン副団長が、わずかに眉をひそめ尋ねた。
「しゃちく……?」
「この世界では“かいしゃ”で働く民をそう呼ぶらしいです。聖女記にはこうあります——『会社は民の魂を削る場(だが金は出る)』と」
「……魂を削られてなお、己の役目を果たすとは……この世界の民は、誇り高き戦士たちにほかならない」
フォートグレン副団長はしばし黙し、感嘆を含んだ声で言った。
ぐぅぅー……。
感嘆の余韻は、ヴィンセントの腹の虫に遠慮なくかき消された。
「“こんびに”なる全てを与える神殿へ行ってみましょうか」
神殿を目指して歩きながら、わたしは探知魔法を展開し、マルグリット王女の魔力を追った。脳裏に微かな痕跡が浮かび上がり、空気の流れに乗ってその気配が濃くなっていく。
「意外と近い場所よ……ここを真っすぐ行った先……見つけたわ!」
わたしが告げると、フォートグレン副団長は緊張を緩め、「よかった……」と小さくつぶやいた。
「アーシャ、“こんびに”なる神殿はあれか?」
そのとき、ヴィンセントが指さす先に緑と白の光を放つガラス張りの建物が見えた。扉が開閉を繰り返し、人々が吸い込まれては出てくる。
「そうね、あれが民に食と加護を与える神殿……って、居たーーー!!」
わたしの叫び声の向こう、白い袋を片手に、満足げに肉片を頬張るマルグリット王女の姿が見えた。




