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第1話 千代おばあちゃんの覚醒

 誰の心にも、一つや二つ、「もしも」という名の引き出しがあるのではないでしょうか。

「もしも、あの時ああしていたら」

「もしも、違う人生を歩んでいたら」

 それは、叶わなかった夢の残り香であり、選ばなかった未来の幻です。


 本作の主人公、鈴木千代もまた、九十二年の人生の中で、八十年近くも、一つの「もしも」を燻らせてきました。

「もしも、男の子に生まれていたら、野球選手になってみたかった」


 戦争で青春を奪われ、夢の入り口にも立てなかった。

 そんな彼女のささやかな願いが、人生の最終回、九回裏ツーアウトの場面で、とんでもない奇跡を呼び起こします。


 これは、九十二歳のおばあちゃんが、神様の気まぐれで手に入れた162km/hの剛速球を武器に、日米のプロ野球界を席巻する、痛快無比の物語です。


 常識も、物理法則も、年齢の壁も、全部まとめて豪速球でぶっ飛ばします。


 それでは、鈴木千代(92)、人生最後のワンシーズンの物語。


 「ババア・イン・メジャーリーグ~100マイルおばあちゃん~」を、ぜひお楽しみください。

 縁側の陽だまりは、九十二年の人生を歩んできた鈴木千代すずき・ちよにとって、何よりの特等席だった。

 居間のこたつから手の届く場所にある座椅子に深く身を沈め、湯呑みのお茶をすする。

 テレビの画面では、今日も国民的スターである大谷選手の特集が組まれている。

 しなやかな腕の振りから放たれた白球が、ミットに吸い込まれる音。

 その乾いた音を聞くたびに、千代の胸にはチクリとした痛みが走る。持病の心臓病とは違う、未練の痛み。


「もしも、男の子として生まれていたらねぇ……」


 誰に言うでもなく、ひとりごちる。

 もしも、違う時代に、違う性別で生まれていたら。

 あのマウンドの上で、まっすぐに夢を追いかける人生もあったのだろうか。

 そんな叶わぬ夢想が、年老いた心の隙間を埋める、日課のようなものだった。


 千代が生まれたのは、まだ日本が戦争していた時代だ。


 女が汗を流して白球を追うなど、はしたないと笑われる。

 そんな時代だった。


 物心ついた頃には世の中はすっかり戦の色に染まり、ささやかな憧れも青春も、すべてが焼け跡の記憶へと変わってしまった。


 千代の夢想は、戦争に潰された青春への、鎮魂歌でもあった。


「ただいまー」


 玄関から聞こえたのは、孫である健太の声だった。

 大学受験の補習帰りだろうか、学生服の肩にかけた鞄が重そうだ。


「おかえり、健太。今日も精が出るねえ」

「ただいま、ばあちゃん。また大谷見てんの?好きだねえ」


 廊下から顔を覗かせた孫に、千代は「お菓子はいるかい?」と声をかける。

 座椅子脇の菓子鉢には、仏壇のお下がりであるフルーツゼリーと、大袋から出したべっこう飴が常備されている。


「あ、ゼリーひとつもらおうかな」

「ああ、あと、冷蔵庫にオロナミンが入ってるよ」

「うん、ありがと、ばあちゃん」


 健太は礼を言いながら居間を抜け、台所へと向かう。


 彼もまた、ついこの間まで白球を追っていた元・高校球児だ。


 千代が夏の大会に応援に行った時、彼の背番号はベンチを温める控え選手のものだった。

 チームが試合に敗けて、泣き崩れる健太の姿。


 その晩、息子夫婦と一緒に、近所の焼肉屋でお疲れ様会をしたのは、まだ記憶に新しい。


 大学で野球を続けるかは、まだ迷っているらしい。


 千代の叶わなかった夢に挑戦し、そして挫折した孫の姿。


 その背中に、誇らしさと、言葉にはできない愛しさ、そしてかすかな羨ましさがこみ上げてくるのだった。



 夕暮れ刻、千代はいつものように散歩に出かけた。

 行き先は決まって、自宅近くにある古い神社だ。


 特別な用事があるわけではない。

 ただ、この長年の日課をこなさないと、一日が終わらない気がするのだ。


 古びた鳥居をくぐり、苔むした石段を一段、また一段と踏みしめる。

 神社の境内には、千代の他に誰もいない。


 千代はお賽銭を入れると、賽銭箱の前で手を合わせ、目を閉じた。


 家族の健康、健太の大学合格、そして、テレビの向こうのヒーローの活躍。


 祈ることは、いつも同じだ。



 しかしその日、千代の祈りは途中で不意に断ち切られた。


「うっ……!」


 胸の中心を、灼けつくような痛みが貫いた。


 息ができない。

 視界が急速に白んでいく。

 世界が色を失い、ばらばらになっていく。


 心臓発作——。

 ああ、これが寿命というものか。


 千代は崩れ落ちるように、その場に倒れ込んだ。



 ふと、意識が浮上する。

 そこは、どこまでも白い、不思議な空間だった。


 目の前に、見たこともない、不思議な雰囲気をまとった少年が立っている。

 年の頃は十代半ばほどに見える。

 純白の髪に、白い瞳。

 どこか、いたずらっぽい笑みを浮かべている。


 これが「お迎え」か――。


 そんな思考回路で、千代は問いかけた。


「……あんたが、『お迎え』かい?」


「ううん、違うよ」


 少年はくすりと笑って、かぶりを振る。


「あなたは、80年ずっと願ってたね。『もしも』って」

「……」

「頑張ったね、おばあちゃん。だから、ちょっとだけ、ご褒美をあげる」

「ご褒美……?」

「そう。一年だけの、魔法だよ」


 少年は千代の額に、そっと指を触れた。


「僕の名前は、ソラリス」


「あなたに、人生最後の楽しみを授けます」


 それが、千代がその不思議な空間で聞いた、最後の言葉だった。



 次に気が付いた時、千代は神社の境内のベンチに横たわっていた。

 夕暮れの空が目に優しい。


「……ありゃ、一体なんだったんだろうねえ」


 千代は呟いた。


 不思議なことに、胸の痛みは跡形もなく消え去っていた。


 それどころか、何かがおかしい。

 立ち上がってみると、長年腰や膝を苛んでいた鈍い痛みが、きれいに消えている。


 体が、軽い。

 若返ったというほどではないが、体の芯の重りが一つ、取れたような感覚だった。


「……なんだか、みなぎってきたよ」


 倒れたのは気のせいで、夢でも見ていたのだろうか。


 夕暮れの住宅街を、いつもより少し軽い足取りで家路につく。


 家に着くと、庭先で健太が練習用のネットに向かって、黙々とボールを投げ込んでいた。

 大学で野球を続けるか迷っていると聞いていたが、ここ最近、健太は学校から帰るとずっとこうしている。

 なんだかんだ、野球からは離れられないのだろう。


「おかえり、ばあちゃん」

「ただいま」

「今日の夕飯、カレーだってさ」

「おや、そうかい。健太の大好物だねえ」

「そ、大好物。せっかくだから、夕飯の前にちょっと運動して、お腹空かせようと思ってさ」

「そうかい。健太はいつも、頑張り屋さんだねえ」


 千代は健太の隣に立ち、その投球フォームを眺める。

 小さい頃からずっと見てきた動きだ。


 ずば抜けたセンスはないが、ひたむきな反復練習で自分のものにする、努力家の孫だった。


「健太、腰の回転が少し早いんじゃないかい」

「……え? ばあちゃんいきなりどうしたの?」

「なに、さっき、大谷くんが投げてるのを見てたからねえ」

「そういうこと? ……うん、分かってはいるんだけどね、なかなか腰が開く癖が抜けなくて」


 苦笑する孫の顔を見て、千代はふふ、と笑った。


「そうかい。じゃあ、ばあちゃんにも一つ、投げさせてくれないかい」

「え?」


 冗談だと思ったのだろう。

 健太は人の好い笑みを浮かべながら、硬球を一つ、千代のシワの刻まれた手に乗せた。


 その瞬間、千代の全身に、今まで感じたことのない衝動が走った。


 ボールの縫い目の感触、その重さ。


 全てが、まるで自分の体の一部であったかのように、しっくりと馴染む。

 テレビのヒーローの姿を思い出す。

 足を上げ、腰をひねり、腕をしならせる。


 八十年分の「もしも」が、今、ここに凝縮されていく。


「よっこらしょ……それっ」


 その瞬間、掛け声と共に、千代の老体が信じられないほどしなやかに連動し、腕が「ビュッ!」と音を立てて鞭のように振られた。凄まじい風圧だった。健太が反射的に、身をすくませた。

 ——ゴオオッ!

 次の瞬間には、ボールはすでにネットに突き刺さり、「バツン!」と太い弦が断ち切れるような音を立てていた。


 それでもなお、ボールの勢いはまるで衰えず、そのまま背後のブロック塀に激突した。

 ——ズガァン!


 腹の底に響くような破壊音がとどろき、乾いた土煙が晴れると、そこには野球ボールがぴったり収まる大きさの、完璧な丸い穴が穿たれていた。


「………………え?」


 健太は、何が起きたのか理解できなかった。

 口をあんぐりと開けたまま、穴の空いたブロック塀と、平然と腕をさすっている祖母の姿を、何度も見比べる。


「ば、ばあちゃん……?」


 声が震える。


「……今……投げたの、ばあちゃんが……?」


 千代もまた、自分でも信じられないといった様子で、小さく、そして熱くなった自身の手のひらを見つめていた。


「あらまあ……あたし、今……ええ……?」


 そこには、八十年分の憧れと、神様からのささやかな「ご褒美」が、確かに宿っていた。


 第一話をお読みいただき、誠にありがとうございます!

 千代おばあちゃんの、人生最後の挑戦が幕を開けました。


 常識も、ネットも、ブロック塀もまとめて粉砕する92歳の豪腕。


 このあり得ない光景を目の当たりにしてしまった孫の健太は、一体どうなってしまうのでしょうか。


 そして、このとんでもない「ご褒美」を、チヨおばあちゃんはどうするのか。


 物語はここから、さらに加速していきます。


 もし少しでも「面白い!」「このおばあちゃんの行く末が気になる!」と思っていただけましたら、ぜひブックマークや、ページ下部の【★★★★★】で評価をいただけますと、跳び上がるほどうれしいです。


 それでは、また次回。

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