不思議と言えそうな出会い
信夜は図書室に借りた本を返し終え、昇降口へと向かうべく歩いていた。
図書室は校舎の最上階の隅にあり、近くには部活で使われている部屋もないため辺りは静寂に包まれている。
信夜の前に続く道も通り過ぎた道にも人影はまるでない。廊下の空気は信夜一人によって動かされていた。
信夜は磯立を待っている間にちょうど本を読み終えたので図書室に返しに行ったが、その磯立はというと教室に戻ってきてすぐ「先に帰る」と言って帰ってしまった。
あの様子だとおそらく告白は駄目だったのだろう。
それは非常に残念だが仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
相手はこの学校の高嶺の花と形容される人だ。これまで学校のみならず数々の人に告白されてきたがそのどれもを断ってきたらしい。中にはとてつもないイケメンもいたんだとか。
しかし、そんな相手だとしても親友の恋が叶わなかったということは信夜には簡単に流すことができなかった。
教室に帰ってきた磯立の顔は暗く、落ち込んでいるのがよくわかった。そんな様子を見ると信夜はどんな反応をすればいいのか少し困ってしまった。明るく励ましてあげるのがいいのか、寄り添って元気づけるのがいいのかよくわからなかった。
信夜は昇降口に一番近い階段へと向かうためため廊下を曲がる。
(あれ?)
先程まで誰の気配もなかった空間から突然どこからともなく人の声らしいものが聞こえてきた。
なんと言っているかはわからない。そもそもこれは言葉ですらないのかもしれない。とにかく確かに音が聞こえてきた。
音のする方へ向かって歩く。声の発生場所は向かっていた階段、その上側からしているらしい。
ここは最上階なので上には屋上がある。屋上は生徒立ち入り禁止だが屋上手前までは禁止されていない。とはいえ屋上に入らないならとそこに立ち入る人は少ない。
しかし、声のする方は紛れもなく上の方面からだった。
信夜は気になってゆっくりと階段を上がっていく。すると踊り場を抜けてさらに上へ続く階段に一人の女子生徒の姿が見えた。
女子生徒は階段に対して横向きになり、膝を抱えて顔を膝と膝の間に埋めている。その肩は僅かに揺れていた。
近づくことでより鮮明になった途切れ途切れの声、時々啜る鼻の音、そして小刻みに揺れる肩このことから彼女がどんな状態なのか推測することができる。
「どうしたの?」
信夜が尋ねると女子生徒は動きを止めた。
どうやら今誰かが来たことに気づいたらしい。
「何かあったの?」
信夜が再び問いかけても反応は特にない。変わらず膝を抱え蹲っている。
「泣いてたの?」
信夜のこの言葉を聞いて彼女は顔をゆっくりと上げた。そしておもむろに信夜の方を向く。
彼女の顔は長い髪に隠されてよく見ることができない。しかし、その長い髪は一目で綺麗だとわかった。
目元見えず、はっきりとはどんな表情をしているのかもわからないがどこか寂しげな雰囲気を彼女は漂わせていた。
「大丈夫?」
言葉はおろか、僅かな動作さえ返ってこない。
少し時間が経つと彼女は元の姿勢に戻ってしまった。
背中は僅かに壁に触れているのに力はかけず、ただ縮こまっている。
「急に話しかけてごめん。今日のことは誰にも話さないから安心して」
こんなところで泣いていたなんてあまり人には知られたくないだろう。
知られたくなかったからこそこんなところで泣いていたのだと思う。
「特に何かができるわけでもないけど力になるから、よかったら話して。別に今すぐじゃなくても気が向いたらでいいから」
何も知らない人に話すよりかは知っている人の方が話しやすいかもしれない。知ってしまった以上できる限りは力になりたい。
信夜は少し待ってみたが彼女には特に動きがなかった。
「それじゃ、いつでも頼って。ほんとに、なんでもいいから」
そっとしていて欲しいのかもしれないしこれ以上は良くないと思い、信夜は後ろを振り返った。
力になれる保証は何もない。しかし、放っておきたくないという気持ちが信夜の頭の中を駆け回っていた。
「・・・・・・あの」
歩き出そうと一歩目を出したところで後ろから声が聞こえた。
信夜を呼び止める声は細く、小さいがとても綺麗な音を奏でていた。
信夜は再び後ろを振り返って彼女のいた方を見る。彼女の顔は上がっていた。
「どうして、私なんかに優しくするんですか?」
不思議なことを聞くなと信夜は思った。
おそらく一般常識を持っている人なら泣いている人を見て放っておく人の方が少ない。これもそれと同じことだろう。
特別な理由なんて特にはない。ただ力になりたいと思ったからやっている、それだけだった。
「どうして『私なんか』なんて言うの?」
彼女が誰だからじゃなく、彼女がこういう状況だからそうしているだけだから彼女がどんな人物であるかは関係ない。そもそもそんなことは知らない。
彼女が自分を卑下する理由はわからない。でもできればそんなことは言ってほしくはない。
彼女は黙ってしまった。きっとそれはあまり口に出したくはないのだろう。
「優しくするのに理由なんてないよ。きっとみんな泣いてる人がいたら気遣うものだと思う」
「そう、でしょうか」
彼女は少しくぐもった声で言う。
彼女はそんなことはない環境で育ってきたのだろうか。
間違っているのは自分の方なのか彼女の方なのか、信夜には判断し切ることはできなかった。
そう考えてしまうと彼女は辛い環境で自分は恵まれた環境で育ったことがわかる。
何にせよ、彼女は理由が欲しいのだろう。自分を気にかける理由が。
きっと彼女は自分に話しかけるのは何か裏があると疑心暗鬼になっている。
自分でも納得できる理由が欲しい。そうしないと気持ちがやりきれない。そんな人間不信に陥ってしまっているのかもしれない。
「そうだな、俺が君を助けたいと思うのはただの自己満だよ」
「自己満?」
「そう。見過ごしたら夢見が悪い気がして、後悔するような気がして。だからそんなことになりたくないっていうただの自己満」
信夜はただ今までの自分に背を向けるようなことはしたくないだけだった。
納得してくれるかどうかわからないが、これ以上助かる理由になるようなことは今は思いつかない。
そもそもこんなのはきっと当たり前だろう。人々がやる善行と言われる行動の裏側には同じようなものがある人が多いと思う。
彼女はじっと俺のことを見つめた。見つめたと言っても顔が向いているだけで目線がどこにあるのかはわからない。
「やっぱりこんなことじゃ納得できない?」
彼女は変わらず信夜に顔を向け続けた。
やはりこんなものでは詭弁だとか上っ面だけだとかそんな風に思われているのだろう。
とは言っても他には何も思いつかない。彼女を助けて自分の利益となるもの、それは一体何があるのだろうか。
そんなものを考えて行動などしていないから今更考えたところで意味なんてないような気がする。
「とりあえず、俺は何も君に求めないよ。強いて言えば相談することかな」
今はそんな気休めみたいな言葉しかかけることはできない。
信夜が求めることは本当に困っていたら助けてあげたいということだけ。それさえできれば他には特に何も要らなかった。
「まぁ、やっぱり納得できないだろうし、そもそも俺なんかで良ければだし、今すぐじゃなくてもいい。気が向いたら相談して。なんでも聞くから。それじゃ」
「ま、待って」
階段の一歩目に差し掛かろうとしたところで横から先ほどよりも大きな声が聞こえてきた。
足を止めて元の位置に戻ると彼女は階段に対して横向きだった体を縦にして信夜のことを見つめた。
ほとんど見えない顔だが信夜の瞳にはついさっきよりもより自分のことを見ているような気がした。
「あの、・・・・・・もう少しだけお話ししませんか?」
彼女は口を開くと見ていた信夜から目を逸らした。
邪魔にならないようにここを去ろうとしたが、どうやら彼女は一人でいるよりは誰かにいて欲しいらしい。
力になりたかった信夜にこの申し出を断る理由などなかった。
信夜は彼女とは二人分ほどの隙間を空けて彼女と同じ段に座った。彼女はその様子を見ると少し縮こまってしまった。
お話ししようと誘われたが時間が経過しても話が始まる兆しがない。
頼まれたのだから話を切り出したかったが信夜は話題が思いつかない。
彼女がどの学年なのかもわからないため、授業の話をすることも難しい上、近くに行われる行事的なことも何もない。
信夜はさまざまなことを考えてみた。
これまであったこと。これからあること。最近のニュース。
色々と考えるがこの状況となるとそれを話していいものかわからなくなる。
何も思いつかず時間だけが経つのに少し耐えられなくなってきた信夜はここにきて思ったことの一つを口に出した。
「そういえば、前にも同じようなことあったな」
「・・・・・・同じようなこと?」
思い切って声に出してみると彼女は話に食いついてきた。
信夜が話し出したのは自分の経験。自分の中ではそれなりに大きなことだった。おそらく思い出せる中で一番古い自分の意思で誰かの助けになった思い出。
「そう。昔、こんなふうなことがあった」
あれは小学生の頃だった。学校の隅っこで泣いていた女の子を見かけたという話。
そんなことがあったということはよく覚えているのだが、その相手がどんな子だったかということを信夜はあまり覚えていない。それなりに時間も経っているからそれは仕方のないことだろう。
あの女の子に今の彼女の状況はよく似ている。正直、学校で一人泣いてる子に出会うことなんてもうないだろうと信夜は思っていた。
それが偶然また出会うなんてどれほどの確率なのだろうか。
運がいいと言えばいいのか、運が悪いと言えばいいと言えばいいのかそれはよくわからない。
「だから、気にかけてくれたんですか?」
「そうかもしれない。でも、そんな経験なんて関係ないと思うけどな」
誰かが泣いていたら気になってしまうのは言ってしまえば一つの習性みたいなものだろう。そしてそれはきっと気にかけるということに発展しやすい。
彼女は信夜の言葉を聞くと俯いた。
信夜はまた話すことを失ってしまった。
話し出せたはいいがすぐに途切れてしまい、自分は話すのが下手だと信夜は実感した。
なんの変わり映えもしない正面の壁を見つめる。
彼女は一体どれほどここにいたのだろうか。図書室に向かう時には泣き声は聞こえなかったから、泣き出したのはその後だと思う。
「その、ごめんなさい。私のせいで時間取っちゃって」
彼女はものすごく申し訳なさそうな声で告げる。
「なんで、謝るの?それだけの何かがあったんでしょ?じゃあ、泣けばいいんだよ。俺が勝手に首突っ込んでるだけだし、逆に俺が申し訳ないぐらいで」
言葉を否定する信夜に彼女は大きくかぶりを振った。さらさらな髪が大きく左右に揺れる。
彼女は前を向くと立ち上がって深夜の方に体を向ける。
「そ、その、ありがとうございました」
「うん、全然いいよ」
「・・・・・・その、私、二組の星上美麗です」
「俺は三組の空松信夜」
「その・・・・・・ま、また」
「うん、また」
信夜が返事をすると星上は走って去っていってしまった。
信夜は一人残され一度空を見上げる。
これは少しは力になれたと言っていいのだろうか。悩みについてはまるで聞くことはできなかった自分は何か力になれたのかと信夜は不安になる。
信夜は一、二分その場に留まってから帰り道を辿った。