草原亭の小さな朝ごはん
朝日が草原を金色に染める頃、ティナはすでに「草原亭」の厨房に立っていた。
まだ湯気が立つほどに冷えた朝。窓の外では、草原の霧がゆっくりとほどけていく。
「さて、今日の朝ごはんは…霜草バターとパンにしようかしら」
ティナが選んだのは、この季節だけ採れる特別な食材――**霜草**だ。
夜のうちに凍りつくような冷気を蓄え、早朝にだけ独特の清涼な香りを放つこの野草は、丁寧に煮詰めるとほんのり甘くて爽やかなバターになる。
「よし、バターを練る前に、パンを焼かないとね」
彼女は昨日のうちに仕込んでおいた生地を手に取り、石窯にくべた薪の火加減を確かめる。
パン生地はまだ少し冷たくて、ふんわりと発酵した甘い香りを漂わせていた。
「…いい匂い」
パンを手早く成形しながら、ティナは思い出す。
祖母と一緒にパンを焼いた日々。ほんの少しのバターと草の香りで、幸せな気持ちになれた、あの台所の温もり。
「こんがり、まあるく、焼き色はうっすら小麦色」
石窯に入れたパンの焼ける音が、パチパチと静かに響く。
その間にティナは霜草を刻み、小さな鍋でバターと一緒に煮詰め始めた。
草の青さと、バターの甘い香りが混じり合って、思わず鼻をくすぐる。
「おーい、ティナー!」
いつもの声が、朝の静けさを切り裂いた。
ドアを開けて入ってきたのは、隣の牧場の娘、ハナリだった。
両手には牛乳の瓶を抱え、頬は朝露で赤く染まっている。
「おはよう、ハナリ。今日もありがと」
「いいってば! うちの搾りたてだよ。ティナのパンとなら最高に合うはず!」
瓶をカウンターに置いて、ハナリはくんくんと鼻を鳴らした。
「…うわぁ、今日のバター、すっごくいい匂い!」
「ふふっ、霜草がいい具合に煮詰まったからね。もうすぐパンも焼き上がるよ」
ティナがパンを石窯から取り出すと、部屋中にこんがりした香ばしい匂いが広がった。
パンの表面にはほんのりと焼き色がつき、割れば中から湯気と甘い香りが立ち上る。
「よし、じゃあ仕上げね」
ティナは霜草バターをたっぷりと塗り、パンの表面でじゅわっと溶ける様子をうっとりと眺めた。
「…たまんない~!」
思わずハナリが唾を飲み込む。
「うん、今日の朝ごはんは、これに決まり」
ティナが用意したのは、霜草バターを塗った焼きたてパン、搾りたて牛乳、そして温かいハーブスープ。
シンプルだけれど、体が目覚める優しい朝の献立だ。
「…いただきます!」
二人は木のテーブルにつき、さっそく朝ごはんを口に運んだ。
ハナリは最初の一口を噛んだ瞬間、目を見開いた。
「んんっ! パンがサクッとしてて、でも中がふわっふわ! それにこのバター、冷たい香りが広がって、まるで朝露を食べてるみたい!」
ティナはふふっと笑ってうなずいた。
「霜草は早朝のうちに摘まないと、風味が飛んじゃうの。今朝はちょうどいい時間だったみたい」
ハナリはもぐもぐと口を動かしながら、目を輝かせた。
「こんなの、他の村じゃ絶対食べられないよ~! 草原亭、さいこうっ!」
「大げさよ。でも、そう言ってくれると嬉しいわ」
その時、ドアが再び開いた。
旅装束の人物が立っていた。長いマントに大きな荷物、そして小さな木箱をいくつも下げている。
「…ふむ、良い匂いがするね。まだ朝食、間に合うかな?」
それがミオルとの出会いだった。
この日から、草原亭は少しずつ、賑やかになっていく――。
草原亭の朝は、静かなざわめきと共に始まる。
それは薪をくべる音、鍋の中で湯が沸く音、そして風が木の葉をなでる音。
その中に、ティナの軽やかな足音が加わる。
昨日現れた旅の客、ミオルは朝日が昇る少し前に目を覚まし、店の縁側でのんびりと空を眺めていた。
マントの裾を風になびかせながら、持参した小さな木箱を一つずつ開けては、中を確かめている。
「…本当に、変わったものを持ってるのね」
ティナが声をかけると、ミオルはふふっと笑った。
「変わってる、というのは褒め言葉かな? これは“フユアメの結晶”といってね、北の極寒地で採れる塩の一種なんだよ。甘みと塩味がほんの少しずつあって、素材の味を引き立てる」
ミオルが小瓶の蓋を開けると、空気に混じってほんのりと冷たい香りが漂った。
雪を思わせるような白さで、まるで菓子の粉のようにさらさらしている。
「へえ…これ、何に使うの?」
「スープやシチューに入れるといい。とくに、クセの強い野菜なんかと相性がいいんだ」
その言葉に、ティナは目を輝かせた。
「じゃあ、今日の昼は草の実シチューにしよう。ちょうど野菜もたっぷりあるし、うちの保存肉もね!」
厨房に戻ったティナは、さっそく野菜の下ごしらえを始めた。
今日使うのは、この草原でよく採れる**草の実**という不思議な食材。
小さな豆粒のような見た目で、加熱するとほのかにとろみが出て、スープやシチューにとても合う。
玉ねぎに似た味のネプラ根、噛むとナッツのような香ばしさが広がるウァリ茸、そして燻製にした家畜肉のかけらを合わせて、大鍋に放り込む。
「水を張って…少し煮立ったら、“フユアメの結晶”をひとつまみ…」
ミオルは隣でその様子を見守りながら、たまに手元の香辛料を差し出す。
「これも少しだけ入れてみて。“ルビカの実粉”っていうんだ。ほんのり甘くて、あとからぴりっとくるよ」
「へえ、面白い味になりそうね」
しばらくして、草原亭の厨房からは、濃厚でいて爽やかな香りが漂い始めた。
それは今までにない匂いで、近所の家の窓もちらほらと開きはじめる。
「…ティナのとこ、なんか新しいの作ってる?」
「昨日の旅人さんが持ち込んだ不思議な塩のせいだって!」
噂はすぐに広まり、昼前には草原亭の扉が何度も開いた。
「おまたせ、草の実シチューよ」
ティナは湯気の立つ大鍋から、たっぷりと器によそい、焼きたての薄焼きパンを添えて出した。
一口食べたハナリが、またもや目を丸くする。
「なにこれ! 草の実がとろっとしてるのに、味はさっぱりしてる…けど、奥の方でピリっとする~!」
「“ルビカの実粉”の香りね。面白い風味だけど、くせになるでしょ?」
ミオルがほほえむと、ハナリはスプーンを止めずにうなずいた。
「これ、家じゃ絶対作れない味だよ…!」
客たちも「初めて食べた」「でも懐かしいような気もする」「あっという間におかわり!」と口々に感想を漏らした。
食後、客が引いた後の草原亭で、ティナは鍋を磨きながらぽつりと言った。
「…こういうの、初めてかも。自分の味に、誰かのものが混ざるって」
「それが料理の旅だよ」と、ミオルは答える。
「調味料は、世界の言葉みたいなものさ。同じ素材でも、どんな風に話しかけるかで、味も変わる。…君の料理は、優しい声をしてるよ」
ティナは少し照れながら、でも誇らしげに笑った。
「そっか…じゃあ、これからも誰かの“言葉”を借りながら、草原亭らしい料理を作っていこうかな」
「それはきっと、とても美味しい旅になる」
ティナは手を止めて、ミオルの方を見た。
「…あなた、どこまで旅するの?」
「風の吹く方へ、かな。でも、もう少しだけ、ここに滞在しようかな。草原亭の味に、まだ話し足りない気がしてね」
こうして、草原亭には「世界の味」が少しずつ集まり始めた。
草原亭の裏手には、小さな菜園と物置小屋がある。
その奥、開けた広場のような場所で、今日も元気な声が響いていた。
「ティナお姉ちゃーん! 今日は卵料理ってホントー!?」 「ボク、また殻割ってもいい!? 前より上手にできるよ!」
村の子どもたちがわらわらと集まり、草原亭の厨房前はまるで遠足の集合場所みたいになっていた。
ティナは困ったように笑いながら、人数分の小さなエプロンを配っていく。
「今日は“魔獣の卵”を使ったオムレツ作り。ちゃんと順番を守ってね」
「魔獣の卵って、怖いやつ?」
「ううん、“リョクトリ”っていう大きな鳥の卵よ。怖くはないけど、ひとつでパン二斤分くらいあるの。だから慎重にね」
ティナが大鍋の蓋を開けると、中にはすでに下準備された具材たち――炒めた草根茸、刻んだ野菜、塩漬けの赤い果実ピーマ、そして昨日のミオルが残していった調味草“トリュバの葉”。
「今日はこの具材を、卵と一緒にふわっと包んで、焼くの。香りがよくて、栄養たっぷり!」
「…でも、その卵、どこで手に入れたの?」
子どもたちの中で、一人だけ後ろにいたリッカがぽつりと尋ねた。
背が小さく、ちょっと人見知り。でも、ティナは彼女のそんなところが好きだった。
「昨日、村の外れに来てた狩人さんから分けてもらったの。あの鳥、今の季節にしか巣を作らないから、卵も貴重なのよ」
「じゃあ…今日は、特別な日?」
「そう。草原亭の“ごちそう日”よ」
ティナが微笑むと、リッカも小さく笑って、前に出てきた。
オムレツ作りは、まるで魔法のような工程だった。
魔獣の卵は大きな鉢でかき混ぜるだけでも一仕事で、リッカと数人の子どもが交代で泡立て器を回す。
そこにティナが具材を加え、味を整えたら、鉄板の上へ。
「焦がさないように…火を弱めて…よし、今だ!」
ひっくり返すタイミングは一発勝負。
ティナが大きなヘラでふわりと持ち上げ、空中で半回転。
きれいな黄色いオムレツが、ふんわりと着地した瞬間――
「「「おお~~~っ!!」」」
子どもたちから拍手が起きた。
昼すぎ、草原亭の裏庭に簡易テーブルを並べ、特別な食事会が始まった。
ひとりひとりに、できたてのオムレツが配られる。
添えられたのは、地元のハーブで煮込んだスープと、草の実入りの小さなパン。
「いただきまーす!!」
ティナが見守る中、子どもたちは元気いっぱいにスプーンを動かしはじめた。
「わっ、甘くないのに甘い!」「とろとろだ!」「これ、お父さんにも食べさせたいなあ!」
リッカも一口食べて、ゆっくり噛みしめたあと、そっと言った。
「…おいしい。あったかい」
ティナはそれを聞いて、なぜか胸がいっぱいになった。
一方、店の縁側ではミオルが静かにそれを眺めていた。
彼は昨日から滞在しているが、食事の時間になるといつも子どもたちを優先して、少し離れたところで過ごしていた。
「…今日のも、いい匂いがするね」
「食べていってもいいのに。どうしていつも遠慮するの?」
「賑やかな場所は苦手でね。…それに、草原亭は“日常の場所”だ。僕は、まだそこに混ざるほど、ここに馴染んじゃいない気がして」
ティナは少し考えて、それから言った。
「じゃあ、次の“ごちそう日”には、一緒に卵を割ってもらうわ。…その時は、もうきっと、あなたも草原亭の一部よ」
ミオルは驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。
「…それは、光栄だね」
夕方。食後に草原を駆け回った子どもたちは、順に家へ帰っていく。
リッカは最後まで残って、ティナに小さな手紙を差し出した。
「きょうのたべもの、おいしかったです。わたしも、いつかティナおねえちゃんみたいに、りょうりがしたいです」
ティナはそれを読みながら、ぽつりと呟いた。
「…私も、子どもの頃は、こんなふうに誰かに憧れてたなぁ」
草原亭は、小さな場所だけれど、確かに“未来”が育っている。
そんな思いが、夕陽の中で静かに胸に染みた。
草原亭に秋の風が吹き込むころ、朝の空気にはかすかに麦の匂いが混じり始めていた。
「…明日には収穫祭かあ」
ティナは窓の外を見ながら、麦畑の黄金色を目で追った。
村では年に一度の収穫祭が近づいており、皆そわそわとした空気の中にいた。
「この日のための特別な朝ごはん、何にしようかな」
そんな時、棚の奥で見慣れない小瓶を見つけた。
半透明の琥珀色の液体が入った瓶には、手書きのラベルが貼られている。
「リース蜜:最後の贈り物」
「…ミオル?」
彼は数日前、ふいに旅立っていった。
何も言わずに、朝の支度をしていたティナの背中に「ありがとう」の声だけを残して。
残された小瓶は、どうやら彼が草原亭のために用意した最後の調味料だったようだ。
ティナはその香りを嗅いでみる。
甘いのに、ほんの少しスパイスのような刺激があって、どこか懐かしさを呼ぶ匂いだった。
「…うん、これはあれに合うかも」
彼女の目が光った。
翌朝。収穫祭の日の朝。
村の人々がまだ寝静まるころ、ティナは早くから厨房で準備を始めていた。
今日作るのは、麦と草果のホットケーキ。
材料は至って素朴だ。
地元で採れた麦粉、草の実からとれた自然な甘み、卵とミルク、そして――
ミオルが残した「リース蜜」。
「ふんわり焼いて、蜜をかけて…うん、いい焼き色!」
じゅわ、と蜜がホットケーキに染み込むたび、芳ばしい香りが厨房中に広がっていく。
ティナは薄焼きと厚焼き、二種類を交互に焼き分け、どんどん皿に積んでいく。
テーブルの上に、湯気の立つパンケーキの山ができあがる頃、草原亭の扉がコンコンとノックされた。
「ティナお姉ちゃーん! 起きてるー?」
「おはよう、もう来たの? はい、まずは焼きたてをどうぞ」
「わー! いい匂いー!」「この蜜、なにこれ!? ふしぎな味!」
子どもたちの声がはじける。大人たちも次々と集まり、笑顔が広がっていった。
この匂いを嗅ぎつけて、村の通りもすぐに草原亭へと人が集まる。
「ティナ、こりゃ…最高だわ。このホットケーキ、なんだか涙が出る」
「うちのじいちゃん、いつも言ってたの。リースの花の蜜は、心を和ませるって…あの人、昔それを探しに旅したことがあるって」
人々がホットケーキを味わうたび、ティナの知らない思い出話がぽろぽろとこぼれていく。
それはまるで、ミオルが残していったレシピが、村の心の奥にまで届いたみたいだった。
夕方、祭りが終わり、ひと段落した草原亭に残っていたのは、焼きたてのホットケーキが数枚と、空になったリース蜜の瓶だけだった。
ティナは小さなレシピ帳を開き、そこに今日の記録を書き込む。
リース蜜のホットケーキ
・麦粉 3杯
・草の実 ひとにぎり
・卵 2個
・ミルク 1杯
・リース蜜 少々
(甘くて、ちょっぴり寂しい味。でも、あたたかい)
そして、ページの端に小さくこう添えた。
「また来る時は、この味で迎えよう」
彼女の手が止まったとき、誰かが草原亭の扉をノックした。
「…あれ、忘れ物でもしたのかな?」
扉を開けると、そこには旅装束の女が立っていた。
背に荷を背負い、腰には小さな鉄の鍋を下げている。
「すみません、ここ…“草原亭”ってお宿ですか?」
ティナは思わず笑ってしまった。
「ええ、そうよ。旅人さん? よかったら、まずは朝ごはんにしませんか?」
女は目を丸くしたあと、ほっとしたように微笑んだ。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
そしてまた、草原亭の朝が始まる。
世界のどこかで旅の匂いが混じり、誰かの味が加わって、
明日もきっと、小さなごちそうが生まれていく。
おしまい