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1-5

 とはいえS地区はそのほとんどが住宅街で、飲食店の数が限られていた。他の良い選択肢が思いつかないまま、駅前のファミリーレストラン「ジョナサン」に入った。


 ジョナサンS駅前店は地下鉄S駅の出口のすぐそば、北本通りという車通りの激しい通りに面している。二階建ての建物で、一階は駐車場、階段を上った二階が店になっている。


 この当時から約四年半前、僕が仕事に行き詰って半狂乱になり、駆けつけた父と兄に説得されて休職を決めたのがこの店の喫煙席でのことだった。それから三ヶ月間の休職期間を経て復職した日の帰り、一人でオムライスを食べたのもこの店だった。僕にとっては悲喜こもごもの思い出のある店だった。


 店内は家族連れの客でにぎわっていた。入ってすぐに子供向けの菓子やおもちゃが陳列されている棚があった。その前までパート従業員らしい中年のウエイトレスがやってきて、僕たちを窓際の四人掛けのテーブル席へ案内した。


 Uちゃんを窓側の上座のソファ席に座らせた。僕とルイさんはテーブルを挟んで手前側の椅子席に並んで座った。


 三人でドリンクバーを頼み、Uちゃんはそれに加えてずわい蟹のアメリカンソースパスタを頼んだ。


 めいめいドリンクを注いで席に戻ると(ドリンクバーに行く途中、僕は店内をよちよち歩いていた幼児を危うく踏みつけそうになった)、ルイさんが野菜ジュースをストローでちゅっとすすってのどを湿し、斜め向かいに座ったUちゃんに言った。


「Uちゃんはさあ、なんでそんな高いコーヒー売ってるの? はっきり言って詐欺じゃんって思うけど」


 Uちゃんは瞳から光をすっと失わせて、ロボットのような無表情になって答えた。


「確かに値は張りますが、さっきも言ったとおりこれは天然のコピ・ルアクで、すごく貴重なものなんです。これで適正価格なんですよ」


 きっと何度も何度も繰り返してきた答えなのだろう。ルイさんはそんなUちゃんの表情を見つめて、


「じゃあなんで枕まですんのかな? 適正な価格だっていうならそんなことする必要ないんじゃねーの?」


 それからルイさんとUちゃんの押し問答がはじまった。ルイさんはUちゃんに詐欺商法と枕営業を辞めさせようとする、Uちゃんはそれを拒否する。そのやり取りが十分ほども続いた。


 Uちゃんが言うには、自分はあくまで適正価格での商売をしているから悪いことをしていると思わないし、枕にしたってやるやらないはルイさんには関係の無いことだから文句を言われる筋合いはない。自分は未成年だから枕営業は確かに法に触れるが、それで誰に迷惑をかけているわけでもないのだからかまわないだろう、ということだった。


 ルイさんはそのUちゃんの主張を真剣に聴いた。そのうちに彼女が頼んだパスタが運ばれてきた。


「そう、よく分かった。まあ食べちゃいなよ」


 パスタに手をつけかねているUちゃんに、ルイさんがそう優しく言った。


 僕たちの席の右隣にはよく痩せた中年女性の一人客が居た。彼女は食事を終えると食器をテーブルの端に寄せ、テーブルを紙おしぼりで丹念に拭き、鞄からノートパソコンを取り出して仕事を始めた。ふと僕が逆側の隣席を見ると、そちらでも男性客がパソコンを使って作業していた。二人とも電源を壁付きのコンセントから取っていた。僕の背後では家族連れの客たちのにぎやかな声がしていた。


 Uちゃんは黙ってパスタを食べはじめた。彼女が食べている間、僕とルイさんは他愛のない話をした。僕の酔いは醒めつつあった。


「Uちゃんさあ」


 Uちゃんが食べ終え、口をナプキンで拭いたところでルイさんが声をかけた。


「なんで援助交際とか、風俗やるのが良くないんだと思う?」


 Uちゃんはめんどうくさそうに、


「法律で決まってるからですか」


と答えた。


「いや、俺はそうとは思わねーんだ。別に捕まることだから悪いとは思ってない。このぐっちょんはさ」


と言ってルイさんは僕を見た。


「昔、悪い薬をやっていたことがあるんだ。はまっちゃって、それから脱け出したくて俺がインストラクターやってるキックのジムに入ってきたんだな。それで薬から脱け出したんだけど、俺は薬をやること自体は誰に迷惑をかけるわけでもないからダメだとは思ってない。本人が体を壊したり、他人を傷つけたりしない限りはな。法律がどうとかはわりとどうでもいいんじゃねえかな、と思う。まあ、ぐっちょんの場合はきっぱり薬を辞めたいって気持ちがあって、結果そうしたから、今こうして元気なわけだけど。


 とにかくそれと一緒で、援交とか風俗も法に触れるから悪いわけじゃないと思う。ただ――俺は風俗には行かないし援交もしたことないけど、風俗嬢の子と前に少しだけ付き合ったことがあって。そうしたらさ」


 Uちゃんのとび色の瞳に光が戻った。話に興味を惹かれたようだった。


「その子と一緒にシャワー浴びるとするじゃん? そうしたらその子、膝をちょっと曲げてがに股になって股の大事なところを洗うんだよな。股にボディーソープの泡をつけてがに股になって洗って、それからシャワーの先っぽを近づけてお湯を当てて、やっぱりがに股になって泡を洗い流すんだ。それを見た時、ああこの子、やっぱり普通の女の子とは違うんだなって俺は引いちゃったよ。体を売ってない女の子は、絶対そんな恥かしい格好になって体を洗ったりしない。少なくとも男の前では。


 そういうところだと思うんだよ。女の子が元々持ってる、恥じらい? みたいなものが体売ってると無くなっちゃうんだ。多分他にも女性が本来持ってる大切なものが、擦り切れて、失われていっちゃうんだよな。でも今日会った感じで君はまだだいじょうぶだと思うからさ。だから今のうちに枕営業なんて辞めた方がいい。コーヒーの詐欺みたいのも。もったいないよ、こんな可愛くて、いい子が。そんなことしてるなら最低賃金でもラーメン屋でアルバイトしてた方がいいぞ。じゃないと本当に大切なものを失くしちゃうよ。なあ、ぐっちょん?」


 唐突に話を振られたので、僕は若干戸惑いながら、


「そうっすね」


と同意してみせた。それからルイさんは、


「Uちゃんはどう思う?」


と、優しく少女に問いかけた。Uちゃんは長いまつ毛をしばたたかせて、


「……本当は私も、辞められるなら辞めたいんです、こんなこと」


と呟いた。そうして続けた。


「でも私はどうしてもオーストラリアに……だから叔母が」


「叔母さんが?」


 ルイさんが子供に対するように優しく問う。Uちゃんは黙り込んだ。


「叔母さんがどうかしたの? 言ってみなよ、できることは少ねーかも知れないけど、俺聴くから」


 ルイさんにここまで言われて、Uちゃんは梅雨時のダムが放流を開始したようにとめどなく話しはじめた。


「叔母っていうか、私の父、元々ちっちゃな会社を経営してて――」


 彼女の話はおおよそ次のような内容だった。


 Uちゃんの父親は都内の小さなWEBサイト制作会社を経営していた。元々広告代理店勤務だったのが脱サラしてその会社を立ち上げ、WEBの普及に伴い事業を拡大し、会社を軌道に乗せたのだ。妻(Uちゃんの母親)はその会社で経理・人事業務を担当していた。


 そのためUちゃんは元々経済的に恵まれた家庭で育った。小学生からカトリック系の私立一貫女子校に通い、スイミングとバイオリンを習った。彼女が小学部高学年の時に両親は田端に一軒家を購入した。共働きの両親は忙しかったが仲が良く、一人娘のUちゃんを何よりも大切にしてくれていた。


 しかしUちゃんが中学部に進学したころから、WEB業界の競争の激化に伴って、父親の会社の業績は思わしくなくなっていった。利益の大きい大企業のホームページ制作などは競合の大手WEB制作会社に奪われてしまい、ほとんど利益の出ないような小口の案件しか受注できなくなった。そんな愚痴を父親は酒を飲みながらUちゃんに漏らすことが多くなり、やがてささいなことでUちゃんを叱るようになっていった。Uちゃんはそれを嫌って家で父親と顔を合わせないようにした。


 父親が自死したのはUちゃんが高等部二年生の夏、つまりこの当時から一年余り前のことだった。書斎で睡眠薬を飲み、窓やドアを全てビニールテープで目張りした上での練炭自殺だった。


 父親の会社は別の役員が代表になることで存続し、Uちゃんの母親はそこを退職し別の会社で働くことになった。父親の会社には少なくない額の債務があり、父個人名義でも借金が残されていたようだったが、それをどうしたのかは子供であるUちゃんには母親は詳しく教えなかった。


「お父さんの保険金と私の給料でなんとか大学までは出してあげる、でもそれ以上はとてもできない。留学は諦めて」


 母親はUちゃんにそう言った。Uちゃんは大学に入ったらシドニーへ語学留学に行くのが夢だった。


 Uちゃんが絶望に打ちひしがれていたころ、父親の妹、つまりUちゃんの叔母が田端の家にやってきて姪の状況を聞き、Uちゃんにこう持ちかけてきたのだった。


「私の売ってるコーヒーをあなたも売って、オーストラリアに行く資金を自分で貯めてみたら?」


 叔母は以前から健康食品や浄水器などを売って生計を立てている人だった。それが最近では、インドネシア産のコピ・ルアクの販売に注力しているとのことだった。その販売額と見込める月収例にUちゃんは心惹かれた。叔母が販売手法を伝授し、マージンを取ってコピ・ルアクをUちゃんに卸すようになった。

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