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暗くなった住宅街の路地を、最寄りの東京メトロ南北線S駅方面へ歩く。目的地の公園までは五分もかからない。住宅街はひっそりとして、家路に向かう人と時々すれ違うだけだった。
「なんでこんなところでコーヒー売ってんの、その子」
道すがらルイさんが聞いてきた。
「よく分からないですけど、S地区だけじゃなく、この近辺の他の街でも売ってるらしいんです。学校が休みの土日にいろんな街を転々として売っているみたいで。それで第三日曜日はS地区のその公園で、って決めてるらしいです」
「ふーん。こんな人気の無いところで?」
「例えば新宿とか渋谷とか、ああいう繁華街で売ると、すぐ警察とかヤクザの目についちゃって商売できない。だからこういう郊外じみた街で、ってなるんでしょう。だけど、それもひとつの場所に決めて売ってると需要も限られてくるし、そのうち目立って地元の住民に怪しまれる可能性が出てくる。それでいろんな街を転々と。街ごとに何人か高単価の――体のサービス目当ての――リピーターがついてその客が回っていけば、けっこういい儲けになるんじゃないですかね?」
「リピーターで商売が成り立つんだったら、公園なんかにいるんじゃなくてそのリピーターと直でホテルか家に行った方がいいんじゃねえか? ヤる前提でコーヒー売るんなら」
「客に連絡先教えないんですよ、その子。警察にばれた時のリスクを減らすためと、前に連絡先を教えた客とトラブルになったことがあるかららしくて。それで公園とかで、まあいわゆる立ちんぼですね」
「ふーん。……ぐっちょん、やけに詳しいな。もしかして前にその子を買ったことあんの」
「はい、二度ほど」
「……」
僕は歩きながらしまったと思った。
「ぐっちょんなあ! お前がリピーターじゃねえか!」
その後はお決まりの説教が展開された。
やがて一本道だった路地が開けて十字路に出る。その十字路を左に曲がるとすぐ公園が見えてくる。
公園と言っても芝生の敷かれた広場にいくつかベンチが並んでいて、端にすべり台とうんてい、鉄棒がぽつりぽつりとさびしく設置されているだけの簡素なものだ。公園全体を黒い柵で囲ってある。僕は当時毎日のようにこの公園のそばを通っていたが、子供が遊んでいるのを見かけたことがなかった。
公園を囲う柵の一部が門になっていて、街灯に照らされていた。石造りの小さな門柱に背を預けて、例のコーヒー売りの少女がいた。
少女は紺のシャツワンピースを着ていた。首元から膝の辺りまで、前に一列にボタンがついていて、その第一ボタンを開けていた。ウエストの辺りをワンピース付属のヒモのベルトで絞っている。ラインの浮き出た腰はやや太かった。足元はベージュのオールスター。左手に白い紙袋を持って、右肘裏にハンドバッグを掛け、空いている右手指でスマートフォンをいじっていた。
「あの子です」
一通り説教を受け終わった僕がルイさんに言った。
「ああ」
ルイさんが答えた。そのまま二人、公園の門へ向かった。
僕がルイさんを先導するように少女のところへ歩く。少女がこちらを向き、門柱に背を預けるのをやめた。スマートフォンをハンドバッグへしまった。
「久しぶり」
僕は笑顔を浮かべて言ってみた。少女はペコリと頭を下げて会釈した。その仕草がまるで体を売っている女性には見えなかった。背後でルイさんが少女をまじまじ見る素振りが感じ取れた。
少女は黒髪をベリーショート・ボブにしていた。その髪のつやが街灯の灯りだけで見てとれた。顔はゆで卵のようにつるんとして、目がぱっちり大きく、そのとび色の瞳が見る者を吸い込みそうな光をたたえていた。どこまでも肌が白かった。凛とした、しかしどこか寂しげな――冷たい表情をしていた。少女はあくまでクールな表情を装って、近づいてきた僕とルイさんを見て、
「3人プレイってことですか? 私そういうのは初めてで――」
と言い出したので、僕は慌てた。
「いや! 今日はそういうんじゃないんだ。この人、僕のキックボクシングの先生で、元プロキックボクサーのルイ・ペガススさん」
ルイさんが一歩前に出て、
「はじめまして! ルイです。お名前は?」
キャバクラ嬢をさんざ落としてきた人懐っこい笑顔をにっこり浮かべた。
「……Uです」
Uちゃんは戸惑いながら答えた。(これを書く時少々悩んだのだが、彼女の本名を出してしまうのはやはりまずいと思うので、ここでは彼女の名前はイニシャル表記にとどめておく)
「ああ、少量の、お試しの販売をご希望ですか? そうしたら……」
Uちゃんはそう言って、左手に持っていた紙袋に右手を突っ込み、かさかさ言わせた。紙袋はしっかりしていて、四角に角ばった形を保っている。Uちゃんは中から、白い小袋を取り出した。
「一個三千円です。天然物のコピ・ルアクです。十二個セットで三万円に割引きになります。お試しにおひとついかがですか?」
と言って、その小袋をルイさんに勧めた。
小袋は四角い平袋のパックで、手のひらにすっぽり納まるくらいのサイズだった。表に
「Kopi-Loewak
Indonesia」
と二段に渡って文字が印刷されており、更にその下にブランド名らしきものが英語表記で記されていた。
ルイさんはそのパックを受取って、表の英字を眺めながら、
「三千円? これいくつで三千円?」
と遠慮なく聞いた。
「だから、一個三千円ですよ」
僕が間から注釈を入れた。
「ひとつで!? 高っ!」
ルイさんが叫んだ。Uちゃんは動じない微笑みを浮かべて、
「インドネシアの野生のジャコウネコから採れた、天然物のコピ・ルアクですから」
「コピ……?」
「ご存じないですか? 世界一希少なコーヒーと呼ばれている豆です。飲んでみれば普通のコーヒーとは全くの別物なのがすぐ分かります。チョコレートのような甘い香りがして、後味が爽やか」
「爽やか」
「はい」
しばらく二人は黙り込んだ。僕もそれを黙って見ていた。
「コーヒー、お嫌いですか?」
Uちゃんがルイさんに聞いた。
「いや好きだよ。練習前にいつも飲んでる」
「そうなんですね! なんの練習ですか?」
「なんのって、キックボクシングの。発汗作用があるから」
「どこの、どんなコーヒー飲んでるんです?」
「え? ジムの自動販売機の、缶コーヒー」
「缶コーヒー、ですか」
「うん。ジョージアのちっちゃいやつ。甘くてうまいよ」
「……」
「……」
間の抜けた沈黙が再び流れた。僕たちのいる裏の公園の芝生で、秋の虫が鳴き始めた。
「あの!」
Uちゃんが沈黙を破った。
「良かったら、十二個セットを買っていただけませんか? そうしたらお兄さんの(と言って彼女は僕の方をちらりと見た)マンションに行ってもいいです。二人をお相手するなら本当は二ダースくらい買ってもらわないととは思うんですけど、今日は他にお客さんも来ないし、特別に三万円で」
ルイさんはうんうんうんとUちゃんの話を聞いて、一瞬言葉を溜めて、
「うん。ごめんなあUちゃん。俺はそういうののために来たわけじゃないんだよ。悪いけどそういうことはしないって決めてんだ。――ところで夜メシ食った?」
「夜ご飯? まだですけど」
「おごるから、メシ食いながら三人でお話できないかな」
Uちゃんは不審げな表情を浮かべた。しかしどこかルイさんに興味を抱いたような、惹かれたような表情がそこに混じっていた。
「別に怪しいことをしたいわけじゃないんだ。他の客もいる、明るい、怪しいことができないところで、三人でメシするだけでいい。酒も飲ませない。メシが済んだらすぐ帰す。なあぐっちょん?」
「そうですね。今日はそういうことはいいから。その代わりコーヒーは買ってあげられないけど。ご飯くらいならごちそうしてあげる」
Uちゃんは少々逡巡したあとで、
「……いいですよ」
と言ってコーヒー豆の入ったパックを紙袋にしまった。ふっと僕が振り向くと、公園の反対側に並ぶ住宅の屋根に切り取られた空に、わずかに残照があるのが見えた。