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男――もちろんそれは歌穂の彼氏・同棲相手だった――は、僕と歌穂が昔アルバイトをしていた豆腐店を経営していた会社の、元社員だった。つまり僕の元上司に当たる人で、僕は豆腐の引き売りの研修を、一、二度この人にしてもらったことがあった。それで僕が微妙に顔を覚えていたわけなのだった。
彼氏が膝蹴りのダメージからある程度回復したところで、ルイさんを中心に皆で彼氏を尋問した。主に聞いたことはどうやって歌穂の居場所を突き止めたかだった。ソファに座らされ皆に囲まれた彼氏は完全に戦意喪失していて、鼻血をティッシュで押さえながら、意外にも素直に尋問に答えた。
この夜彼氏が職場からアパートに帰ると、歌穂がアパートにおらず、彼女の私物の一部が無くなっていることが分かった。歌穂に電話を掛けても着信拒否にされているようで、LINEも既読がつかない。それで彼氏は歌穂が家を去ったことを察知した。おそらく浮気相手のところへでも向かったのだろうと邪推した。
彼氏は歌穂がいつも持ち歩いているグレゴリーのウエストバッグに仕込んでいたGPS発信機の位置をスマートフォンで調べ(そう打ち明けられた歌穂が急いでバッグを調べると、バッグのポケットの底から小型の発信機が出てきた)、それでおおよその歌穂の居所をつかんだ。発信機の位置情報ははじめ池袋で留まっていたが(歌穂が女友達と食事をとったという飲食店のある場所だ)、彼氏が成増から池袋まで電車で向かうと、発信機は移動を始め北区方面へ向かって行ってしまった。
彼氏はいよいよ歌穂が浮気相手の住居へ移動し始めたのだろうと推測した。そこで電車に乗っている間、以前歌穂と喧嘩した際彼女のスマートフォンからコピーした、男性とのメールやLINEメッセージを片っ端から読み返した。歌穂がどの男のところに向かったのか調べようとしたのだ。すると北区S地区の現住所の書いてあった僕のメールのコピーに行き着いた。彼氏はそれを読み、GPS発信機の移動先と思い合わせ、僕の部屋に歌穂が向かったのだろうと当たりをつけた。事実発信機の位置情報は僕のマンションに留まった。彼氏は池袋駅までいったん出ると、駅前の雑踏の中、もう発信機が再移動しないか念のため二十分ほど待った。発信機がそこから動かないことを確認すると、僕のマンションまでタクシーを走らせた。
マンションはエントランスがオートロックになっていたが、しばらく近くで待って他の入居者が出入りするのに乗じ、自動ドアを突破した。
それが彼氏が僕の部屋にたどり着いた方法だった。
「……気持ち悪い」
話を聞いていたUちゃんがそうひと言呟いた。
歌穂と別れること、もう彼女に接触したり連絡したりしないことをルイさんが命令し、彼氏が従う意志をみせたので警察は呼ばないことになった。GPS受信機は彼氏に返したし、これから歌穂はオーナーの家へ直行するわけで、その住所を彼氏は全く知らないのだからまず大丈夫だろうと思われた。
飲み会はお開きにして、皆それぞれ帰ることになった。オーナーはタクシーを呼んで、歌穂と共に新宿のマンションへ向かう。Uちゃんもそのタクシーに同乗し、途中田端に寄って家の前で降ろしてもらう。ルイさんは当初の予定通り僕の部屋に泊まる。
歌穂の彼氏――いやもう元カレか――をどうするかという問題が残ったが、電車で成増に帰ると元カレが言うので、変なことを起さないように念のため僕とルイさんがS駅まで送っていくことになった。
オーナーたちを乗せるタクシーがマンション前に着いて、僕とルイさん、元カレはオーナーたちを見送ってからS駅へ向かった。
深夜のS駅の地下鉄の構内は明るかった。鉄臭いというかかび臭いというか、地下鉄の駅独特のこもった臭いがした。一つしかない改札前で、僕とルイさんは元カレを見送った。
「もうこんなことすんなよ。歌穂ちゃん以外の、他の女の子にも」
元カレが改札を通る前、ルイさんが半分怒りをこらえつつ、半分心配そうに元カレに言った。
「はい。すみませんでした。今日はありがとうございました」
元カレはPASMOの入ったカードケースを片手に持ちながら、なぜか感謝の念を述べた。
「うん」
ルイさんは鷹揚にうなずいた。改札を出入りする他の乗客が、ちらほら僕たちの周囲を行き交っていた。
電車の来る時間が近づいたので、元カレはぺこぺこ最後までルイさんに頭を下げながら、PASMOをタッチして改札を通っていった。改札内を歩き、ホームへの階段を降りていき、やがてその姿を僕たちの前から消した。
僕はその後姿を見ながら、どっと疲れが噴き出てくるのを感じた。夕方にキムチチゲを食べ終えてから、こうして深夜S駅で元カレを見送るまでに起きた様々なことが思い出され、眩暈をもよおすほどの疲労を覚えたのだ。そうして明日の朝からはいつも通りのハードな五連勤が僕を待ち受けている。僕はどこまでもどこまでもうんざりした。一刻も早くマンションに帰って寝てしまいたかったが、そうするには気分が昂りすぎていた。
僕は隣にいるルイさんを見た。すると――この時ルイさんは、やはり格闘家というものはどこか頭のネジの抜けた、感覚のぶっ飛んだ人種なのだと僕に再確認させる言葉を言い放ったのだった。
ルイさんは両手を上げ、ぐーっとひとつ伸びをして、いかにも満足げに言ったのだ。
「いやー、ひと段落ついたなあ。ああ、色々あっておもしろかった!」