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僕と別れてヒモ男と住んでいたアパートを出て、中野で一人暮らしをしつつ医学部受験の勉強をはじめた歌穂だったが、それはうまくいかなかった。二年間勉強したが結局どの大学にも受からず、それ以上祖父からの援助も受けられなくなった。その間、僕と別れる前に付き合い始めた彼氏とは別れた。そこで昔付き合っていた、成増住まいのパチンコ店の店長をしている男(これまでの話に出てきた男達とはまた別の男である)の元にとりあえず転がり込んだ。とりあえず居酒屋でアルバイトを始めた。
そのうちに同棲相手の激しいモラハラとDVがはじまった。しかし一人暮らしをする経済力のない彼女はそこを出て行くわけにも行かず、とりあえず耐え続けた。
「とりあえずとりあえずって、また芸者に戻れば良かったんじゃないの? 芸者なら一人暮らししていくだけの給料もらえるだろう」
話の腰を折って僕が聞くと、
「一回面接をお願いしたんだけど、年齢を理由に断られちゃったの」
と歌穂は寂しそうに言った。
「……そうか」
なんだか僕まで気分が落ち込んできた。
その後も歌穂は我慢して成増で同棲生活を続けていたが、例の十円玉事件があってアルバイトも辞めさせられ、完全に経済的に男に依存しなければならない状態になった。男は狡猾に彼女を支配した。喧嘩をする以外の時は気味が悪いほど優しく、君は俺がいないともう生きていけないんだよ、と四六時中言って洗脳しようとした。
「それで十円玉の時から三ヶ月くらい経って――今日ようやく決心して家出してきたところ」
歌穂はそういきさつを話し終えた。
話を聞き終えた僕たちのうち、僕以外の三人は歌穂にひどく同情した。僕に歌穂を居候させる、それでなくとも二、三日でもマンションに泊めてやるべきだと、僕に説得してかかった。しかし僕はそれをあくまで拒んだ。
「どうしてだよぐっちょん? らしくねえぞ。じゃあせめて今夜だけでも泊めてやればいいじゃねえか。行くところないって言ってんだから」
ルイさんがたたみかけてきた。僕が部屋を見回すと、Uちゃんもオーナーもルイさんと同意見だと言わんばかりの目線をこちらへ向けてきた。
「……嫌です」
「なんでだよ?」
「歌穂のことを、これでもまだ大切に思っているからです」
「はあ? だったらなおさら――」
「居候させたりして僕とその、また関係を持ったりすると、今よりもっと歌穂が悪くなると思うんです」
「どういうことだよ」
僕はちらりと歌穂を見た。能面のような顔をしてうつむいていた。
「歌穂は、ずっとそうなんです。男を切らしたことがない。依存しているんです。それでどんどん悪くなっていって、今、そんな暴力男と同棲するはめになってる。ここですっぱり男を断ち切って、一人ででも生きていける精神力と、生活力をつけないときっとまた同じことになる。だからここで僕が家に泊めさせるのは違うんです」
「……別に泊めてもヤらなきゃいいじゃねーか」
「僕はルイさんじゃありません。歌穂と一緒に居て、間違いを起さない自信がありません」
これが歌穂からいきさつを聞いた上での僕の答えだった。彼女への感情のこじれ、ひがみ、嫌悪感、そういったことはいったん脇に置いた上で、真からそう思った。憎しみを通り越して、結局僕には歌穂への愛情が残った。この答えがきっと彼女に本当のためになるはずだと、シンプルにそう考え、言ったことだった。
「あのルイさん」
そこで歌穂が会話に入ってきた。
「あつかましいのは分かってるけど、ルイさんのお家に泊めてもらうわけにはいきませんか? ふふ。あつかましいけど、本当に困っていて」
ルイさんは頭をぼりぼり掻いて、
「それができるならしてやりてえんだけどさ。今俺お兄ちゃんと暮してて、部屋も余ってないし。だったらやっぱりぐっちょんのこの家の方が。部屋は他に寝室だけだけどここのリビングでいくらでも眠れるだろうし」
と申し訳なさそうに答えた。
「そう、そうですか」
「歌穂」
今度は僕が話に割って入った。
「何?」
歌穂は冷ややかな返事をした。僕は言った。
「金貸すから、それでとりあえず今夜はホテルにでも泊まって、それから明日新潟のお祖母ちゃん家に行きなよ。それしかないと思う。いくら貸せばいい?」
歌穂は少し黙って、
「お祖父ちゃんにすごく迷惑かけたから、今さらそれはできないんだ」
「ほら、そうやって意地張るから――」
「だって! だって」
そこで、しばらく黙っていたオーナーが「分かった!」と叫んだ。
「こうしましょ。お姉さんはワシの家にしばらく泊まればええ」
歌穂はぎょっとしてオーナーの顔を見た。
「金が無いなら、まとまった金が出来るまで働いてもらう。それまでに必要な生活費は、都度ワシが貸す。心配いらん、ワシのマンションも1Lやけどリビングは広い。布団も余っとる」
話を聞いて、歌穂がおどおどして言った。
「あの」
「ん?」
「もしかしてそちらの方、ですよね?」
「そちら? ああ、まあ、せやな」
歌穂はそれを聞くと、ぐっと黙って、間を置いてから、
「……分かりました。あの、働くお店なんですけど」
「うん?」
「ピンクサロン? みたいな不潔なところは嫌なんです。だったらソープとかでも、しっかりお客さんに体を洗ってもらってからする方が」
「なに言ってんねん! ワシをなんだと思ってんねん」
「え? てっきりそっちの筋の人かと……私、とうとうそういうところで働かされるんだなあって……違うんですか」
「なわけあるかい! 働いてもらうのはバーや! お触り無し、性交渉なしのまともなバーや! なんでそんな勘違いしてんねん」
「だってそちらの人だって」
「そらゲイって意味や! ゲイやゲイ! ワシは生粋のゲイや!」
「ああ、そうなんですか!」
「せや! だからお姉ちゃんも宗眞くんも安心せえ。ワシはこのお姉ちゃんを性的対象に見たり、一切せんから。その代わりしっかり働いてもらう。金は貸すがあげはせん。それだったら宗眞くんの言う、男に依存するのがあかんっていうこともクリアできるやろ。そうやろ、宗眞くん?」
「はい、そうですね。すみません、ありがとうございます」
僕は右隣に座るオーナーに頭を下げた。自分の器の小ささが、少し嫌になった。
「ええってことよ、なんつってもワシも宗眞くんの元コレやからな」
オーナーはそう言って親指を立て、はっはと哄笑してみせた。
やや呆然としながら歌穂はありがとうございます、よろしくお願いしますとオーナーに言った。
「良かった! 良かったなあ、歌穂ちゃん」
ルイさんが心からそう思ったのだろう、快活に、屈託なく言い、ローテーブルに置いてあった歌穂の空のグラスに、焼酎の入った自分のグラスをかちん、とくっつけて鳴らした。
すると歌穂が、
「ルイさんっ!」
と小さく叫び、サッとソファを降りてお誕生日席に座っているルイさんに左側から抱きついた。
「私、私、本当辛くてっ……誰からも愛されなくって!」
そんなことを言いながら泣き出した。ルイさんは慌ててグラスをテーブルに置くと、歌穂を右腕で抱き、その手先で歌穂の頭をぽんぽんなでて、
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。歌穂ちゃんは良い子だから」
と慰めはじめた。
すると盛り上がりを見せる場の雰囲気がどう作用したのか、今度はUちゃんが耐え切れなくなって、ソファを降り、ルイさんの右側に回って抱きついた。
「私も、私も……本当は分かってたんです! 私が売ってたのコピ・ルアクなんかじゃ全然ないって! 一回自分で本物を買って飲んだら、全然味が違った! 分かってたんです! でも偽物、いっぱいお客さんに売っちゃったっ」
空いていたルイさんの左胸に顔を埋めて、やはりわんわん泣きだした。
「ははは、そうなの? だいじょうぶだよ、誰でも子供のころは多少悪いことをしてるもんだよ。Uちゃんはやり直せるよ。だいじょうぶ」
ルイさんはそう慰めはじめた。
次の瞬間、自分の右側でオーナーがぐわっと立ち上がったのを感じたので、僕はまさかと思った。
オーナーはどすどす、三、四歩歩いてルイさんの前まで行った。ルイさんの右胸には歌穂が抱きついている、反対側にはUちゃんが抱きついている。その間、やや隙間のあった正面のへその辺りに、オーナーは両手を広げて飛び込んでいった。
「りっくううううん!」
そうひと言叫んで、ルイさんに抱きつき、後は号泣した。
泣き続ける三人を、ルイさんは困った顔一つせず、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と慈愛の満ちた声で繰り返し慰めていた。
僕はその光景を眺めながらウイスキーが入った(氷が溶けてそれはだいぶ薄くなっていた)ロックグラスを手に持ち、少し口をつけた。
(教祖になれる)
もはや呆れながら僕は思った。
(この人はなんらかの宗教の教祖になれる)
そうルイさんについて僕はくり返し思った。三人を抱きしめる彼の背に、後光が見える気がした。
その時、
ピンポン
再びインターホンが鳴ったのだった。




