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歌穂は勤務医をしていた両親の元に生まれた。しかし彼女が母親のお腹にいた時、父親は交通事故で亡くなった。
父の愛情に飢えていた彼女は、北海道の有名私立女子高校に入学したが中退し、十六歳でフリーターになった。親戚の経営しているアパートのあった千葉県津田沼市に引越し、そのアパートで一人暮らしを始めた。
アルバイトを転々とし、二十三歳になった時、東京で豆腐の引き売りのアルバイトの職に就いた。その時、同じ時期にやはりそのアルバイトを始めた大学二年生の僕と知り合った。
その後僕と歌穂は仕事を通じて仲良くなり、やがてプライベートで会うようになっていった。
それから体の関係を持つようになったが、歌穂には当時長く付き合っている彼氏がいた。僕と歌穂の浮気の関係は長く続かず半年も経たないうちに破綻し、自然消滅した。
この時期僕はとても歌穂のことを好きだった。二十歳前半の彼女は若く、美人とは言えないまでもまずまず人好きのする見た目をしていたし、深い知性とユーモアと優しさを持って、そしてなにより父親のいない寂しさを内に秘めて苦しんでいた。僕は母がうつ病を患っていて子供のころ寂しい思いをしたから、同じように親の愛情を求め、それでも懸命に生きようとしている歌穂に共感し、ひどく惹かれたのだった。
だから歌穂と連絡がつかなくなった時、僕のダメージはかなり大きかった。大学卒業後の進路の悩みもあって僕は自暴自棄になって大麻にはまり、大学に通わなくなった。半年くらい自堕落な状態で暮していたが、大学在学中の目標の一つであった空手の大会の優勝をもう一度目指そうと思い直し、ルイさんのいたキックボクシングジムに入会して激しく練習を始め、大麻を断ってまともな学生生活に戻ることができた。
歌穂から再びメールが届いたのはそのころだった。また会えないかな、そう言うので会いに行ったら彼女は向島の芸者になっていた。酒太りで肉付きが良くなった彼女は、僕たちが出会った豆腐店の先輩アルバイトの男と、浅草で同棲していると言った。
「同棲って言っても○○くん(同棲相手の男)、働いてないからヒモだけどね。ははは」
再会したチェーン居酒屋の席で歌穂はそう打ち明けて笑った。何がおかしいのか僕には分からなかった。そうして出会ったころと比べ彼女がひどく擦れ、内面も外見も醜くなっていることに気付かざるを得なかった。
あの時もう会うのを止めておけば良かったのかも知れない。今思い出して、僕は考える。しかし僕は好きだったころの歌穂の幻影を、芸者になってヒモ男と暮す彼女に見続けていた。
それからたまに会うようになり、結局僕が大学を卒業して就職した時期に付き合うことになった。
僕が彼女に付き合って欲しいと告白すると、自分にはヒモがいるがいいかという答えが返ってきた。僕は仕方なく、将来的にヒモを追い出すつもりでいてくれるならいいと言った。
一年半付き合った。彼女がヒモ男を追い出してくれることは結局なかった。当然付き合いはぎすぎすしていった。そうして歌穂は新しく別の彼氏を見繕って、関係の悪くなった僕を振った。
別れる時、彼女は医者になることを目指すのを決めたと僕に打ち明けた。以前から僕が芸者は辞めて何か別の道を選んだ方がいいのではないかと言っていたのだが、それがどう彼女を刺激したのか、医者になるのだと決意させてしまったわけだった。両親が医師で、高校も偏差値の非常に高い学校に受かった彼女は、自分は医者になれるはずだというプライドを捨てられずにいたのだ。彼女の学歴は中卒だから、これから大検を取るところから始めるということだった。
「予備校行くお金はどうするの」
僕が聞くと、お祖父ちゃんの貯金から出してもらう、と言った。
「彼氏には大学出て医師免許取って、研修が終わったら子供作ろうね、って言ってあるんだ」
そう言って彼女はうれしそうに微笑んだ。
それが歌穂が二十八歳の時で、その後僕は少々しつこく彼女に連絡を取り、別れてから二、三度彼女に会った。彼女は中野で一人暮らしをして予備校に通いはじめていた。
――彼女のざっとした略歴のここまでを、僕は知っていた。しかしそこから先は知らなかった。
とにかく、ここまでこじれた付き合いがあった相手だと、人間感情的にならざるを得ないものだ。あんなに会いたい、できればもう一度付き合いたいと思っていた相手なのに、この夜僕はすっかり依怙地になって、歌穂を部屋へ泊めることを峻拒していた。
付き合っていたころより更に悪くなっているように見える歌穂に、もうこれ以上出会ったころの不思議な魅力のあった彼女のイメージを壊さないで欲しいと、ただそれだけを願った。そうして彼女の醜さ、あつかましさ、いかにも自己愛的な感じに、激しい嫌悪感を抱いた。このまま帰ってもらいたかった。
更に言えば彼女の虚言癖のある性格からして、言っていることをそのまま信じるわけにもいかなかった。十円玉の事件こそ、やけど跡があることから本当かも知れないが、ならなぜそんなDV男から今まで逃げなかったのか。ここに来る前に食事をしたという友人は、本当に女性だったのか。行く場所がないなんて言ってはいるが、確執のある母親のところには行けないにしても、新潟の祖父母のいる実家にはなぜ帰らないのか。
「……歌穂」
僕は自分に冷静になれと言い聞かせて、なるべく声を落ち着かせて彼女に声をかけた。
「そもそもなんだけど、なんで今男の人と同棲してるの? てっきり医学部に通っているんだと思ってた」
歌穂はぱっと涙を両目ににじませて、指で拭った。
「それ聞く?」
「大学には行けてないんだね?」
「うん――」
それから歌穂は話しだした。