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シンクの排水口は浅口のもので、歌穂が吐いた汚物はそこから溢れシンク内に広がった。完全に汚物が排水口に詰まってしまったので、僕は歌穂を洗面所に案内してそちらで口を濯がせ、自分はシンクに戻って溜まった汚物の液体部分を少しずつ水で流していった。そして流れていかない固形部分を、ゴム手袋をはめた手で直接すくってゴミ袋へ捨てていった。途中、汚物の放つ酸っぱい臭いで何度かえずいた。
どうにか汚物の処理が済んで、リビングに戻ると、歌穂はソファに座って(いつの間に距離を詰めたのか)Uちゃんの右肩に頭を預けて目をつむっていた。僕に気付くと、その目を開けて頭をまっすぐに戻し、
「ごめんね。ふふ。今日はサービスするから許して」
と言った。
「は? 何もしないよ? 今夜はルイさんが泊まっていく予定だし」
思ったより歌穂が元気そうなので僕は容赦なく言った。歌穂は「ははは。冷たーい!」と笑った。そうして身を起してローテーブルに載っていたグラスの水を一気に飲んだ。
「……分かった。宗眞、お願い聞いてくれない?」
目一杯のしなを作ってそう言ったのだろうが、隣で目をぱしぱし瞬いて状況をうかがっているUちゃんの美しさと比べると、憐れなほどその顔は不細工だった。
「……何?」
「しばらくここに泊めてくれないかな」
僕はじっと歌穂を見た。まつ毛から剥離したマスカラが、相変わらず目の周りの肌に散っていた。
「なんで今さら俺が」
そう答えた声は自分でも驚くほど冷たかった。
「ふふ。……だよね」
歌穂は口角を上げて呟いた。
「ちょっと待てぐっちょん」
そこでルイさんが入ってきた。酔った顔に深刻な表情を浮かべていた。
「どうした? ちょっと冷たいんじゃねーか? なんで泊めて欲しいのか、せめて事情聞いてからでも返事すんのは遅くないんじゃねえの?」
「せや。なんやお姉ちゃん困っとるようやし」
オーナーもそうしゃしゃりでてきた。Uちゃんを見ると、彼女も二人の意見に同意らしく、こくこくと首を縦に振っている。僕は仕方なく、
「何があったの?」
と歌穂に聞いた。
「――うん」
すると歌穂は、演技らしい間をたっぷり作った後で、太ももに置いていた左手を宙に上げた。そうして手の甲を僕たち四人に見せた。
手の甲の中央に、茶色いやけど跡があった。やけど跡は直径二、三センチといったところで、楕円形をしていた。真ん中が盛り上がっている。
「これ、なんだと思います?」
歌穂はそう言って外側に向けていた手の甲を上に向け、自分で確認するようにした。誰も答えなかった。
「今一緒に住んでる男につけられたの。どうしようもない束縛男で。私がバイト先の男の同僚と電話してたら、喧嘩になって、散々殴ってきた後私のこと軟禁して、私のスマホの暗証番号教えさせて、スマホの中全部チェックして、男とのメールやLINEは全部自分のスマホにコピーかスクショとって。その場で私にアルバイト辞めさせた。それから『もう浮気しないようにしないとね』って、十円玉をピンセットでつまんでライターで炙って、熱くなった十円玉を手の甲に十秒間乗せていられたら許してあげるって言ってきたの。それで私の左手に十円玉を乗せてピンセットの先で押しつけてきて、ゆっくり『いーち、にーい……』ってうれしそうに数えたんです。私はもう左手を見ることもできないでただひたすらうつむいて痛みに耐えて――、それでこんなになっちゃった」
ふふ、と湿った笑い声を最後に添えた。
「それでその男のところから逃げ出してきたちゅうわけですか」
オーナーが慎重に話の穂を継いだ。ルイさんは深く相づちを打ちながら、心の底から同情している感じで歌穂の話を聞いていた。歌穂は、
「そうです。昨日またひどい喧嘩して、彼氏が今日の昼前仕事に向かう前に、私の頭を優しくぽんぽんしながら『また十円玉やっておいたほうがいいかな? 今度は右手に。考えといてね』って言って出て行ったから、私たまらなくなっちゃって。それで彼氏が帰ってくる前に荷物をまとめてアパートを出ました」
と言った。
「それでここへ?」
オーナーが続けて尋ねた。
「いえ、女友達と店に落ち合って夕食を一緒に食べて、その子にしばらく居候させてもらえないかお願いしたんです。でもその子も男の人と同棲していて。断られたんです。それでここに……突然で宗眞には悪いと思ったけど、他に頼れるところも……なくて」
最後はぼそぼそと聞き取れないようなかぼそい声だった。ルイさんは話を聞き終えると、
「だって。ぐっちょん。今日俺邪魔しないよう終電までに帰るから、とりあえず今夜だけでも泊めてあげれば? 皆もそろそろ帰るよな?」
ルイさんはそうUちゃんとオーナーに水を向けた。「もちろん」「私も帰ります」二人はすぐそう返事をした。
「……嫌です。泊めません。ホテルでも漫喫でもどこでも泊まればいいじゃないですか」
僕はきっぱり言った。
お願いだからもうこれ以上幻滅させないで欲しい。そう彼女に言い放ってやりたかった。




