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オーナーはスマートフォンをポケットから取り出して、直接電話番号を打ち込みはじめた。番号を入れ終わると、はあーっ、と息を一つ吐いて発信ボタンを押し、スマートフォンを耳元に持っていった。
部屋の中に緊張が走った。
少し間があった後で、電話が繋がった。
「もしもし? 佐藤さんのお宅ですか?」
はい、と答えた電話の相手の声は女性のものだった。息子さんではないようだったので、僕は少し残念に思った。
「夜分遅くにすみません。あの――私、武です。その、幸俊さんの父親の。……そう、父です。幸俊さんにお話があって電話しました。代わっていただけますか?」
僕が聞き耳を立てていると、電話口の女性の少々お待ちください、という声が聞こえた。小さく「エリーゼのために」の保留音がスマートフォンの受話口から鳴りはじめた。
数十秒経った後で保留音が切れ、
「もしもし」
と男の声が受話口から小さくした。
僕はオーナーの顔を見た。いつも鷹揚で余裕のある彼からは想像できないくらい顔が強ばって、眼鏡の奥の眼を大きく見開いていた。その眼は血走っていた。
「もしもし? 幸俊……さんですか?」
はい、とややぶっきらぼうな返事が聞こえた。
「ああ、ワシ――武です。分かります?」
はい。再び素っ気ない返事。
「あの、唐突に電話して……ごめんな」
……はい。それから続けて幸俊さんが何かぼそぼそ言ったのが僕のところまで聞こえた。オーナーは幸俊さんのその言葉に慌てて、
「用? いや、用ってほどのこともないんやけど、ただ、ただそうやな、元気にしとるかどうか知りたくて……そう、突然すまんな。……そうやな、今さらやな。いや、本当に用ってほどのことも――」
端で聞いていても、オーナーが苦闘しているのが伝わってきた。これは不調に終わるかも知れない。僕はそう思い、がんばれ、と心内でオーナーを応援した。
「……ああ、すみません。え? もう切る? 用が無いなら? そう、忙しい? そうよな、もう遅いもんな」
そこまでオーナーの会話が進んだところで、ルイさんがおもむろにソファから立ち上がり、ローテーブルの向かいから回りこんでオーナーのそばへやってきた。そうしてオーナーが右耳に付けていたスマートフォンを、むしり取った。
「ちょっ! なにすんねん」
オーナーが驚いて立ち上がり、ルイさんからスマートフォンを取り返そうとした。するとルイさんはスマートフォンを持っていない左手の手のひらを胸の前に出して、オーナーを抑えた。
「だいじょうぶ、少しだけ」
そうひそひそ声で言うと、スマートフォンを耳に付けた。そうして立ったまま話しはじめた。
「ああもしもし? すみません幸俊さん、お電話代わりました。俺、お父さんの友達のルイ・ペガススと言います。……はい、日本人です。……本名? 大沢です。……そう、友達です。あの、一分だけいいですか? ……はい。ありがとうございます。あのですね、俺、ずっとお父さんとは仲良くさせていただいているんですけど、ずーっと、お父さん、幸俊さんの心配をしていて。幸俊さんを置いて家を出てしまったこと、どうしようもないことだったとはいえ、すげえ後悔しているんです。……はい。だから今日も二時間近く、俺たち友達でお父さんに幸俊さんに電話するよう説得して、ようやくこの時間になってお父さん決心して、電話したっていう流れだったんですよ。とにかく、お父さん死ぬ前に一度でいいから幸俊さんと会いたい、それが無理なら声だけでも聞きたいって、ずっと言っていて」
そのままルイさんはあること無いことない交ぜにしながら、オーナーが幸俊さんをいかに気にかけているかを主張した。よくこんなに都合の良い盛った話がペラペラ出てくるなと、僕は端で聞いていて感心した。
五分ほどもルイさんはまくしたてるように電話した。その時にはオーナーは誰よりも幸俊さんのことを愛しながらも自分の性的指向には逆らえず、泣く泣く家族と縁を切った憐れな男ということになっていた(あながちそれは嘘とも言えなかったが)。あらかたルイさんがその主張を終えると、幸俊さんは納得したのかもう一度父に代わって欲しいと言ったようだった。ルイさんがオーナーにスマートフォンを返した。
「もしもし? ああ、ワシやけど……。うん、うん、悪いと思っとった。本当に。でもお前のことは忘れんかった。忘れておらんかったよ」
オーナーの声は震えていた。
「ん? ……一度? ……もちろん! ……え、結婚しとるんか? ……え、赤ん坊も!?」
そこまでオーナーは相手の話を聞くと、慌てて電話を耳元から離し胸にくっつけて、僕に、
「宗眞くん、悪いけどどこか一人で話せる部屋貸してくれへん? トイレでもええから」
と言い出した。
僕はやっぱり慌てて寝室にオーナーを案内した。なんだか、電話を一刻も早く再開しなければ幸俊さんが機嫌を損ねて電話を切ってしまいそうな、そんな気がした。オーナーは寝室に一人入り、それから十五分余りも息子と電話をしていた。僕たち他三人はオーナーが戻って来るのをリビングで待った。
オーナーが戻ってきた。
「や、どうも……」
気が抜けたような、そんな様子だった。
「どうなりました?」
僕がおずおず聞くと、
「……なんや今度、二人で飯行くことになりました」
オーナーはようやくそう呟いた。
「良かったじゃないですか!」
「おめでとうございます!」
僕たち他三人は口々にそう祝福した。皆、心の底から喜んでいるのがお互いに伝わってきた。妙な連帯感がこのカオスな集まりに生じていた。オーナーはありがとう、ありがとうと繰り返していた。
ピンポン
そこに水を差すように、インターホンが鳴ったのだった――不吉な予感を携えて。




