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2-4

「ワシ、自分で言うのはアホらしいけど、こう見えて元はけっこうなエリートでな。父親はそこそこ大きい会社の副社長で、ワシ、中学高校は麻布、大学は慶應で」


 へえー、と聞き手三人揃って素朴な声をあげてしまった。


「卒業して○○商事っていう総合商社に入った。見合いで結婚して、順調に営業成績残して、日本が好景気だったから会社の業績も順風満帆。昇進して、良い給料もらって奥さんとの間に子供もできた。親父からは『商社で経験を積んで四十代になったら、自分の会社に役員待遇で来て欲しい』と言われておったから、将来的にはその会社の経営陣に加わることが内定していたようなもんやった」


 ここで僕のズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動した。僕は隣でしゃべるオーナーの話を邪魔しないよう最小限の動作でスマートフォンを取り出し、画面を点けた。メールが一件入っていた。


「私を受け止めてくれる気、まだある?」


 歌穂からの、それだけの文章が打たれたメールだった。


(……?)


 ちょっと意味が分からなかった。僕は既に相当酔っていて、このメールに込められた意味と、返信メールの文章を考えるのが面倒だった。


「もちろん!」


 ささっとそれだけ文を打ち込んで、後先考えずに返信してしまった。そうして何事も無かったようにポケットにスマートフォンをしまった。ここまでわずか数秒だった。僕は再びオーナーの話を聴く姿勢を取った。ちょうどオーナーは話を少し中断して、じっと目を細めて昔の回想に浸っているようだった。やがて話が再開された。


「いい人生だと思うやろ? でもなあ、それが全然楽しく無かってん。


 もちろんワシは自分がゲイであることを自認していた。けど家族や同僚には全くそのことを打ち明けられないでいた。学生のころから好きな男は何人もいたし、会社の部下を好きになってしまったこともあった。奥さんとの夜の営みは正直苦痛やった。


 ワシはなんだか、自分が何を求めていたか分からなくなっていった。会社では地位が上がって部下が増えていく。可愛い奥さんは何の疑いもなくワシを愛している。子供はすくすく大きくなる。親父はワシが自分の会社に入って来るのを待ち続けている。でも、本当の自分は全然、そこで生きていない感じがした。息苦しかった。奥さんにお前とのセックスがしんどいと打ち明けてしまいたかった。会社に自分がゲイであることをカミングアウトして、それでも今のポジションでいさせてもらえますか、って言ってみたいと妄想するのが止められなかった。親父と酒を飲んでいる時、あんたの長男ホモやでってふっと漏らしたくなった。


 そんなことを、二丁目で知り合った彼氏に話したんよ。そうしたら言われてん、『すべて捨ててうちにくれば』って。うれしかった。ワシはすぐに会社を辞めて、住んでいた松涛の家からその彼氏の新宿三丁目の1Kのアパートに移り住んだ。奥さんにも子供にも何も言わず、黙って出て行ったんや。


 それから? それから、その彼氏が働いてたゲイバーでアルバイトさせてもらうようになって、一緒に働いたよ。結局ワシが客と寝るようになっていって、すぐ仲は冷めてもうたけどな。でもそうなる前の、その彼氏――りっくんていうねんけど――りっくんと狭いアパートで仲良く暮らした時期が……なんだかんだ一番幸せやったなあ」


 そこまで話すとオーナーはカラン、とまたグラスの氷を鳴らしてウイスキーを飲んだ。しん、と場は静まって、その氷の音がやけに大きく響いた。


「ご家族とはそれからどうなったんですか? 全然連絡取ってないんですか」


 少々の間を置いた後で、ルイさんが聞いた。ルイさんもずいぶん酔ってきたらしく、日焼けサロンで焼いた小麦色の顔がもはや赤黒くなっていた。オーナーは向かいのそのルイさんの顔をちらと見て、


「いや、奥さんは興信所でワシの居場所つきとめて、何度も店とアパートに来たよ。戻ってきて欲しい、って言うてな。でも――ひどい仕打ちやったかも知れんが――ある時奥さんをこっちから呼んで、わざとごてごての女装をしてワシが出迎えたら、それから会いに来なくなった。しばらくして離婚届がアパートの郵便受けに届いた。それっきりや。ああ、ずいぶん前に母と父の葬式があってそれぞれん時に呼ばれたけど、それにも出んかった。今さらどんな面して出て行けばいいんか、分からんかったから」


「お子さんとは?」


「ワシが松涛の家を出た夜、奥さんと一緒に寝室で寝ているのを見たのが最後やな。三歳やった。もうすぐ四歳の誕生日って時でな、それを祝ってやれないのが辛かった。(ゆき)(とし)いう名前の男の子でな、今何しとるか……今年三十三になるはずやけれど。ワシの家の嫡孫やから、多分親父の会社に入っとると思うけどな」


 そこでオーナーはまた話を切った。それからしみじみと、


「今でもよう覚えてんねん。あの時最後に見た幸俊の寝顔は。ちっちゃい目をつむって、雪見だいふくみたいなほっぺたして、ワシがいかにもお坊ちゃまぽいからよせ言うのに奥さんが決めた坊っちゃん刈りの髪をして。もう少しで寝室に入っていってそのほっぺたに触るところだったのを、ワシは必死にこらえて、荷物持って家を出てりっくんの、ところにっ……」


僕が右隣を見ると、オーナーは眼鏡を左手で額まで持ち上げて、両目からこぼれだした涙を右手で拭っていたのである。僕はびっくりした。向かいを見ると、Uちゃんも驚きを隠せない表情をして黙っていた。そんな中ルイさんは深くうんうんとうなずいて、


「今すぐ電話しちゃいましょう、幸俊さんに」


と言い放ったのである。

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