第三話 汚部屋探偵とサワーな事件
人生で最初に見た遺体は母親のものだった。
すでに腐敗が始まっていて目も当てられない姿で母は死んでいた。
その思い出がいつだって苦しめる。
俺はいつも過去の思い出に囚われたままだ。
アジサイの花から朝露が一滴落ちる。
まるで花が泣いているようだ。
「お兄ちゃん、心が痛いの? ユキもだよ」
ランドセルを背負った少女が俺に視線を向けてくる。
顔立ちは幼いが、すでに成長して大人の声をしている。
「なんでもないよ」
淡い色の瞳ときれいな黒髪が印象的な少女だった。優しくて大人びた彼女がどうして俺に声をかけたか分からない。
ただその時、どこからか男の視線を感じた。
気のせいだろうか。
「お兄ちゃん、バイバイ」
少女は困ったように微笑むと手を振り、去っていった。
俺は彼女に何を見ていたのだろうか。
亡き母の面影だったら笑えない。
この雨の季節に思い出す、悪夢。
それが忘れられないのだから、情けない。
だから夏は嫌いだ。
***
「暑いねえ、寒川パイセン」
かき氷をシャリシャリとスプーンですくいながら、有村ありすは額の汗を拭う。
レモン色に染まった氷は涼やかで羨ましい。俺はというと。
「なんで、またしても部屋が散らかるんだ」
たった一週間で部屋がここまで汚れるとは思えない。だがそれを現実にしてしまうのが有村ありすという人間だった。
「まったく、お天道様って人は残酷だよねえ」
のほほんとした表情でくつろぐ姿に少々苛立ちを覚えるが仕方ない。
俺は時給何円で働く労働者だ。対して彼女は雇い主。強く出ることはできても、命令に反することはできない。
「そうだ、事件はないのか」
「寒川パイセンのワーカホリック。今日くらいのんびりしても罰は当たらないよお」
俺は泳がないと死ぬマグロではない。ただ、動いていないのは性に合わない。
掃除機をガシガシ動かし、洗濯機をガンガン回し、洗い物をごしごしスポンジで擦る。
何とは言わないが、家事労働のありがたみをそろそろ感じてほしい年ごろだ。
「そうだあ、依頼は複数から来てるよお」
「それを先に教えてくれ」
ブルーハワイのシロップに手をかけて、次なる氷を求める彼女にため息が出る。
「まずはこの青々とした氷を堪能してからだよお」
「俺は何時間待てばいい? 」
じっと暗い視線を向けると、ひえっと有村ありすが怯える。
「しょうがないなあ。依頼人の女子たちの恨みつらみのこもった文書を取ってくるよお」
「分かるならよろしい」
俺はソファに寝そべる彼女のスマホを拝借し、文面を読み上げた。
『彼氏が知らない女と高飛びしたので、有り金全部を返してほしいです』
『あんなに貢いだのに信じられない。女を恨んでます』
『許せない。私が本命だって言ってたのに』
なんだか読んでいて気が滅入る。要約すると男に騙された女性の金銭トラブルの相談だった。
「そして、その容疑者がねえ」
高林直樹なんだと告げられる。以前カフェでバイトしていたところに遭遇した男だった。信じられない。金には困ってなさそうだったし、どうして。
「あの、法学部主席の高林か」
実家から仕送りがあり、バイトも小遣い稼ぎだったはずだ。
生活に困っているわけでもないのに、理解に苦しむ。
「ちなみに被害者はざっと二十人かな」
真面目な大学生が騙す人数ではない。何が背景にあるのだろうか。
「これは名探偵の出番かなあ」
相変わらずやる気皆無の有村ありすの隣で俺は拳を握るのだった。
「まったく寒川パイセンは真面目だねえ」
「悪いか」
「いえいえ、むしろそのやる気が空回りしないかだけが心配ですう」
すごくなめられている。そんな気がした。
「パイセンはお金に苦労しているから、お金を粗末に扱う人が許せないんでしょうねえ」
まさしく図星で驚いた。
「やっぱりですか。今回の件は寒川パイセンの想像を超える事件だと思いますよお」
人間は経験したことでしか想像できない。
貧乏な俺が金持ちの高林の気持ちが分からないように、高林にも金をだまし取られた側の気持ちは分からないのだろう。
「あくまで、私の想像の話ですけどねえ」
有村ありすは大きく伸びをして、ソファから起き上がる。まるで猫みたいだ。
自由気ままで好きな時にしか動かない。
それが彼女の魅力でもあるのだから困る。
「行きますか、パイセン」
うだるような暑さの中、歩き始める。それがすべての始まりだとは知らずに。
参考人 桜井梓の場合
「それで元カレの話をわざわざ聞いてくる神経が分からないわ」
ガールズバーで働く桜井梓は嫌そうな顔でこちらを見つめていた。まるで薄汚れた雑巾を見たときのように目つきは険しい。
「高林直樹とはどのような関係で」
「金にルーズだから別れたわ」
それでいいでしょうと突っぱねられる。探られたくないことがあるのか。
「大体、疑われてもこれ以上失うものもないのよ」
だったら疑っても無駄でしょうと笑う。
そうだ。彼女の悪事を暴いて、今のところまで堕ちていったのは事実だ。少しだけ罪悪感があるが、顔に出てしまっただろうか。
「私も寒川くんみたいな人と付き合えばよかったのかな」
少しは気があるのか。俺が驚いていると。
「まあタイプじゃないけどね」
ふふっと笑われる。こういうところが騙されやすいんだよな。
「寒川くん、貧乏だし、口うるさいし、説教好きそうだし。全然タイプじゃない」
ひどい言われようだ。
「分かりますう。本当小姑かと思うくらいだよねえ」
将来はお嫁さんかなと有村ありすも笑っている。
こいつら悪意がないのが余計に腹が立つ。
「ヒントならあるけど、教えてあげない」
桜井梓はふうとため息をつき、酒をあおる。飲みすぎかと心配したが、まるで動じていない。
「そうね、女の嫉妬は怖いってことかしら」
「前も聞いたような」
酸いも甘いも嚙み分けた彼女の台詞には説得力がある。だからこそ何か引っかかるものがあった。
「男は女が思うより子供だし、ロマンチストなのかもね」
そのまま彼女は口を閉ざした。
何も言うことはないとでも言いたげだった。
参考人 栗原姫乃の場合
「高林くんには女がいたの」
所謂地雷系ファッションに身を包み、可愛らしい少女のような出で立ちの栗林姫乃は泣いていた。付き合っていたのかと聞かれれば素直にうなずく。フラれてしまったことに傷心気味のようだ。
「大体、寒川くん、高林くんと、私って見る目ないね」
自虐的に笑う姿に胸が痛む。傷つけてしまった事実に変わりはない。だが、高林の一件は腑に落ちない。
「彼と旅行に行こうって話してた。行先はタイ。旅行の資金もチケットも彼に預けてたから、全部パーってこと」
高林はほかの女性にも同じことを繰り返していたようだ。多額の資金を集めて何をするつもりだったのだろうか。
考えても余計に分からなくなる。
ただ一つ理解できるのは。
高林直樹が多額の資金を使って、高飛びしようとしていたことだけだ。
でもなぜ。
一番の理由が想像つかない。
金には困っていない。女を騙して旅行に行くとせっつく。
「だけど本命がいる気がしたの」
私はキープだったのかなと笑っていた。それが悲しそうで胸が痛む。
「女の勘だけどね」
外れてばかりだからあてにはならないかもと続ける。
「高林直樹は法学部主席で生活にも女にも困っていない。だけどどこか空虚な感じがしたの」
真面目に見えた青年が人を騙してまでしたかったこと。
それが分かれば解決の糸口が見えるかもしれない。
参考人 五十嵐徹の場合
「捜査に協力してほしい? 俺は暇だが生憎付き合ってやれないな」
休職中の刑事といえば五十嵐徹だった。有村ありすの隣人。一番力になってくれそうな相手だと期待していた。
「まず、大学の首席殿が失踪したからって親からの捜索依頼もないんだろう」
消えた高林を心配する声はなかった。
女と高飛びした。
何か疚しいことがあって消えた。
そんな憶測だけが飛び交っていた。
「親との確執があるんだろうねえ」
有村ありすも珍しく真面目な顔でうなずく。別に珍しい話ではない。だがどうして。
「そんなの考えればわかるだろう。金持ちなんて大概、金でどうにかなると思って、子育てをおろそかにしたとか、その辺だ」
五十嵐徹の言うことは信ぴょう性がある。だけど信じていいものか。
「最後に決めるのはお前たちだ。俺はあくまで想像の話をしている」
想像、と言われハッとする。
人は経験したことしか想像できない。
それは俺も高林も同じではないか。
だったら、可能性はある。
「行くぞ、有村」
「ふふん、それでこそパイセンだよ」
蒸し暑い雨の中、思わず駆け出していた。
レイニーデイ~酸いも甘いもかみ分けて~
「高林直樹の居場所が分かった」
仮定の話だ。もし高林が潜んでいるならば、そこは共犯者がいる場所だ。
そして共犯の可能性が高いのは。
「桜井梓の勤めているガールズバーだ」
高林直樹はどこにでもいる青年だ。顔立ちは華があるが、目立つものでもない。眼鏡と化粧でごまかせる。
「戻るか」
「その気遣いは不要だ」
男の声がする。低くて、よく通る、穏やかな声だ。
「高林どうしたんだ」
「ばれてしまう前に、お前たちの口封じだ」
彼は懐から封筒を取り出す。
その中には札束があった。
「これでお互いフェアだろう」
「金にものを言わせるやり方は好きじゃない」
俺たちの会話は平行線だ。
「まったく寒川パイセンはねえ」
真面目だよねと失笑される。
「確かに金は女から集めた。だけどあいつらだって同罪だ」
親からもらった金で遊んでいるだけだろうと笑う。
「いつだって親から甘やかされて、頭の悪い女たちに夢を見せているんだ。悪いことじゃない」
その考えは危うい。正しいと信じてしまうには論理が破綻している。
「その現実から目をそらしても何にもならないぞ」
「そうだな」
それは高林が自分に向けていた言葉なのかもしれない。
「それで文句は終わりか。女に謝るつもりはないし、目的を果たすまでは大学に戻らない」
親が探していないようだから、誰も文句はないだろうと続ける。
「海外で数年遊んで、みんなが忘れたころに戻ってくるさ」
適当な発言は真面目な高林には似合わない。
なぜそんなことを言うのだろう。
「そういえば寒川は一人っ子か」
唐突に質問され俺は戸惑う。兄弟はいない。親とは死別した。そんな俺は天涯孤独とでもいうべきか、家族という存在に愛着はない。
「寒川先輩も、高林さんも大人げないですよ」
急に有村ありすが間に割って入る。
「高林さん、あなたが海外に行こうとしているのも妹のユキさんのためですよね」
「なんのことだ」
険しい目つきでこちらを睨む男にも彼女は動じなかった。
「正しくは腹違いの妹のユキさん」
彼女は高林の父の愛人の娘なのだと続ける。
「高林家に引き取られて、肩身の狭い思いをしていると伺っています」
彼女を自由にするために、高林は海外に逃げるつもりだったのか。
「でも、そんなやり方でうまくいくはずがありませんよ」
人は経験したことしか想像できない。
秀才の高林の計画は稚拙だった。それが彼のできる精いっぱいだったということか。
「お兄ちゃん、ユキは嬉しかったよ」
背後から少女の声がする。以前どこかで見かけた姿だ。
「でも、人を泣かせたらダメだよ」
いつか見た少女は悲しそうな瞳で高林を見上げていた。
「本当はね、どこか遠くへ行きたかった。誰も悲しい思いをしない場所に」
だけどそれは無理だからと笑う。
「ユキがいなくなれば全部解決するの」
だから苦しまないでと高林を諭すような口調で宥める。
「駄目だ、お前が苦しむところを見たくなくて」
だからこんな馬鹿げた真似をしたんだと高林は嗚咽を漏らす。
「クソ、本当は勉強だって、バイトだってどうだっていい。勉強ができたからって本当の自分を見てもらえるわけでもない。金があるから女が群がってくるだけだ。そんな生き方にいい加減嫌気が差してきたんだ」
真面目な青年がどこかで道を踏み外した。そんな話にも思えた。
「ユキだけだったんだ。俺が信じられるのは」
唯一の妹を救いたいと悩んで、悪事に出ただけなのだろうか。
俺には家族はいない。
だけどそれが動機ならば、悲しすぎる。
「ごめんな、ユキ。俺お前を助けられない」
苦しそうに吐き捨てる姿は目も当てられない。悩んでもがいて、得た結果がこんなにも惨めだなんて思わなかったのだろう。
「それは違いますよ」
有村ありすは静かに前を見据えていた。
「正直に話すのも手です。それが嫌なら、独立して働くことだってできます。今のあなたは親に甘えているだけの子供です」
子供だから苦しむんだと告げる。
「確かに甘えていたのかもな」
有村ありすの言葉にハッとしたのか、高林はポツリと呟く。
「全部親のせいだと思っていたし、どうにもならないと思っていた」
だけど考え方を変えれば、どうにだってなるはずだ。
彼は笑う。
「俺も真面目に将来のことを考えるかな」
家を出て、独立して、妹と暮らす。そんな生活も悪くないだろう。
「二人ともありがとう」
前を見る高林の表情はどこかすっきりとしていた。
上を見ればさわやかな夜明けだ。
夜はきっと終わる、そんな気がした。
***
「パイセン、やっぱりレモンは甘酸っぱい味がしますねえ」
シャリシャリとかき氷を頬張る有村ありすの姿はいつも通りだった。
「うう。頭がキーンとするう」
額に手を当て、なぜかアピールしてくる。
「しかし、夏の雨だけは勘弁してほしいですねえ」
「それは同感だ」
悲しい雨が降らないように何ができるだろう。
高林の一件で俺も考えるようになった。
不幸な出来事はなくならない。
それでも探偵と助手にならできることもあるだろうか。
少しでもその涙がこぼれるのを止められるのならば。
俺はなんだってしよう。
辛い出来事に、悲しい事件は世間には溢れている。
悪意があってもなくても、そんなこと他人には関係ない。
ただ犯罪に手を染めることがあってもいいとは言えない。
だから探偵が必要なのかもしれない。
そんなことをふと思った。