9 こんなに切ないなんて
自室に戻ったグレイシスは、ソファでぐすぐすと泣いていた。
デイジーが差し出したハンカチで涙を拭うけれど、いくら拭いてもいくつもの筋となって頬を伝う。
「グレイシス様。そんなに泣かれると目が腫れてしまいますわよ」
グレイシスは目と鼻の頭を赤くしながら答える。
「だって……だってデイジー。こんなに切ないなんて思わなかったのですもの……」
すんっと小さく鼻を鳴らして、再びハンカチに顔を埋める。
「そこが恋愛小説の醍醐味ではありませんか。ちゃんと最後まで読んでみてくださいませ。山あり谷ありの方が、お話が盛り上がるのですよ」
「……そんなこと言ったって……」
恋愛小説を読むのは、はじめてではないが、今まで読んできたこの国の物語は、最初から最後まで心弾む内容で終わるものばかりだった。隣国のアークボルト帝国なら沢山の本が手に入るのだろうが、ここアメイジング王国では、恋愛小説といえば、始まりからラストまで幸福なシーンしか描かれていないものが定番となっていた。
もちろん、そういう恋愛も世の中にはあるのかもしれない。だが、そのほとんどは楽しいことだけではないのだ。
現実的な恋愛に寄り添って書かれているからこそ、愛の妖精シリーズは人気を博しているといえるのだろう。
この手の本は、自国のものしか読んだことのなかったグレイシスは、恋愛とは楽しいことばかりなのだと思っていた。物語の中の恋愛は、とても楽しそうだった。両親や姉夫婦をみていると、いつも幸せそうだった。兄たちは政略結婚ではあるが、それぞれの婚約者たちとの仲は良い。
グレイシスの周りは、いつも幸せに満ち溢れていた。
だから知らなかったのだ。
恋愛が、こんなに切ないものだったなんて。
「嬉しいことも悲しいこともあるのですよ。恋愛には。グレイシス様も、いつかおわかりになるときがきますわ」
デイジーは伯爵夫人だ。
親が決めた結婚ではあったが、お互いをちゃんと好きになった。子供も二人いる。もうだいぶ大きくなっているので、再びグレイシスの専属侍女として復帰したのだ。
いわば、恋愛の大先輩なのである。
ドアのそばに控えている侍女のドロシーを見ると、彼女は目をキラキラとさせていた。グレイシスと同年代の彼女にも、恋愛とは憧れなのかもしれない。
デイジーは水で濡らしたタオルを持ってきた。
「少し目を冷やしましょうね。このままでは、本当に腫れてしまいますわ」
タオルで目を押さえてもらうと、気持ちがいくぶん落ち着いてきたので、グレイシスは小さく溜息のような吐息をついた。
「ありがとう、デイジー。気持ちがいいですわ……」
「それはようございました。しばらくこのままでいてくださいませ」
デイジーはドロシーに目配せすると、ドロシーはすっかり冷めきった紅茶を下げ、新たに淹れかえると、グレイシスの前のローテーブルにそっと置いた。
「良い香りがしますわ。これはお母さまの好きな紅茶ですわね」
「そうでございます。ハーブティーほどではありませんが、リラックス効果がありますので」
「ありがとう。もう、涙は止まりましたわ」
少し頬を染めて恥ずかしそうにするのを見て、デイジーは微笑む。
「その小説がお気に召したようでしたら、続きを持ってまいりますが。いかがいたしましょうか?」
グレイシスはデイジーの手ごと両手でタオルを包み込み、少し前かがみになって言った。
「ぜひお願いできるかしら。続きが気になってしかたがありませんの!」
「まあまあ。随分と気に入っていただけたようですね。それでは部屋から持ってまいりますわ」
デイジーが侍女たちが使っている休憩スペースに向かうべく部屋を出ていくと、ドロシーがお茶菓子を出してくれた。
「ありがとう。ねえ、ドロシーは恋愛の経験はありますの?」
突然、話を振られたドロシーは、少しびっくりしたようだが、楽しそうにはにかむと口を開いた。
「いえ。恥ずかしながらまだでございます。騎士をしている方で素敵だなと思う方はいるのですが、この気持ちは恋愛感情ではなくて、憧れ止まりですので」
「そうでしたのね。憧れならわたくしにもわかりますわ。お兄さま方がわたくしの憧れの殿方ですもの」
「それですと、随分とハードルが上がりそうですね。殿下方はそれは素敵ですもの」
グレイシスとドロシーは顔を見合わせ、ふふ、と笑いあった。