83 ジャイルズの身に一体なにが?
アークボルト帝国の皇都ルクシアの大神殿にて、婚約誓約書にサインをしたのが一週間前。
グレイシスとジャイルズは、神をも認める正式な婚約者となった。
―――夜会前夜。
基本的に一人で入浴するグレイシスは、薔薇のアロマオイルを垂らした湯に身を沈めて、バスタブのふちに腕と頬を乗せた。
浴室内に広がる薔薇の優しい香りに包まれながら、その気持ちよさにうっとりとする。
随分と長風呂をしてしまったようで、心配したドロシーが途中で様子を見に来てくれたので、上がることにする。
ガウンを羽織ったグレイシスの髪は丹念に梳かされ、香油を滲みこませていく。丁寧に乾かされ一層艶も出た。
明日のドレスに合わせて、肌の露出する部分を特に念入りにクリームを刷り込んでもらう。
ひと通りマッサージもしてもらい、グレイシスはその日、深い眠りにつくことができた。
―――当日。
二人の侍女たちに手伝ってもらいながら夜会用にと誂えたドレスを着せてもらったグレイシスは、鏡の中を覗き込んだ。
肩は出ていて、小さくてふわりとした短い袖口は絞られている。胸のすぐ下は細めのリボンがぐるりと一周巻かれており、前で可愛く結ばれている。リボンから下は透けそうなほど薄い生地が中央から左右に分かれていて、裾まで幾重にも広がっている。
全体的にふんわりと優しいシフォン系でシンプルにまとめられているが、最高級の絹を使用しているので光沢もあり、淡い生成りの色も品がある。
すらりとしたグレイシスのスタイルの良さを引き立てた、素晴らしいドレスだった。
グレイシスは自分の胸を見下ろしてみる。あまり自信があるとも言い難いそこが、やけに主張されているように思えた。
「皇妃様やマダムが仰っていたように、やはりお胸が目立ちますわね。上から見ると、少しだけ谷間が見えてしまいますわ……」
まだまだ成長過程だと思っているそこは、見事に強調されていた。
「とても可愛らしいですよ。グレイシス様によくお似合いです。お胸も、前から見る分には全く問題ありませんよ」
「さすがは帝国一を誇るフルールのマダムのドレスですね。グレイシス様の良さがよく引き出せていると思います」
それなら問題はないか、と、褒めてくれた二人にお礼を言いスツールに腰を掛ける。
ピンク色を主体にしたお化粧をうっすらと施してもらい、髪はハーフアップにしてもらう。髪飾りは宝石は一切使用せずに、白くて可憐なカスミソウでふんだんに飾り付けた。
シンプルではあるが、帝国の高位貴族であろうとなかなか手に入れることができないほど最高級品である、真珠とダイヤをあしらったネックレスとイヤリングを身に着ける。耳元でスイングするイヤリングを指で弾くと、キラキラと輝いた。
「素敵なドレスとアクセサリーですわ……。ジャイルズ様から贈られた物で身を包むことができる日がくるなんて。……こんなに幸せでいいのかしら……」
頬をふにゃりと緩ませているグレイシスを見ていると、二人の侍女たちも幸せな気分になってくる。
「まだまだこれからですよ。これからもっともっとお幸せになっていただかなければ。近い将来ジャイルズ様とご結婚されて、可愛らしいお子様たちにも囲まれてお過ごしくださいませ」
途端に真っ赤になる初心なご主人に母親のような気持ちを抱いていると、扉からノックが聞こえてきた。
時計を見ると、まだ少し時間には早いようだ。
ドロシーが扉を開けるた、そこにはやはり、予想どおりのジャイルズとジェラールが立っていた。ドロシーがお迎えが来たことを告げ、彼らを部屋に通した。
「グレイス。支度はできたかい?」
グレイシスはスツールからすっと立ち上がると、彼の方に歩み寄っていく。
彼は、濃紺に金糸の刺繍が豪勢に施された正装を身に纏っている。白を基調とした騎士服姿に馴染んでいたので、今日の装いは新鮮だ。さらりとした金の髪と青い瞳がとても映えている。
彫刻のように整った美貌と鍛え上げられた肉体美に、グレイシスは思わず頬を染め上げ、ほお、と溜め息を吐いた。
「―――素敵ですわ、ジャイルズ様。そのお色もとても良くお似合いです」
だが、彼はそこから一歩も動かずにただ固まっている。もちろん返事も返ってこない。
「……あの……、ジャイルズ様……?」
グレイシスは首をちょこんと傾げる。
瞬きも忘れたかのようにその場に立ち尽くしている彼の背中を、ジェラールが小突いた。すると、よろりと一歩前に押し出されたことではっと我に返り、ジャイルズは真っ赤になった顔を隠すように口元を手で覆い、視線を逸らした。
「……いや、……その、……とても似合っている……」
金色の髪の隙間から見える耳が赤くなっているのに気が付き、グレイシスは嬉しくなって破顔した。
「ありがとうございます。ジャイルズ様から贈っていただいたこのドレスもアクセサリーも、とても素敵ですわ。重ね重ね、ありがとうございます」
グレイシスの笑みに、ジャイルズの心臓は見事に撃ち抜かれた。ドクンと大きく鼓動し、思わず左胸を押さえる。
ジェラールは小さく苦笑し、ジャイルズの耳元で囁いた。
「グレイシス様をエスコートして差し上げてください」
「あ、……ああ。……そうだな……」
ジャイルズが肘を差し出すと、グレイシスは幸せな気分で手を添えた。
見上げると彼の青い瞳と視線が絡み、柔らかく微笑み合う。
ちら、と、ほんの僅かに彼の視線が逸れたかと思うと、彼はこれでもかというほど目を見開き、ぱっと勢いよく手で顔を押さえ、ぐりんと首を回して顔を背けた。
「え? ジャイルズ様? ご気分でもお悪いのですか?」
「い、いや、大丈夫。大丈夫だ……。すまない、……ちょっと待っててくれ……」
グレイシスを手で制しながら、ジェラール、と小さく側近の名を呼ぶと、彼は心得たようにポケットからハンカチを取り出して主君に手渡した。
「失礼いたします。グレイシス様、少しソファをお借りしますね」
ハンカチを顔に当てたジャイルズは、ジェラールに付き添われて腰を下ろすと背もたれに体を預けて首を上に向けた。
グレイシスと二人の侍女たちは、慌てて彼らの元へとついていく。ドレスにしわが寄るのも気にせず、そばで跪いて彼の膝に両の手を置くグレイシスの顔は真っ青だ。
「ジャイルズ様! やはりお身体の具合が……!」
その二人の姿を見たジェラールは、納得したように悪い顔をした。
「ジャイルズ様は初心ですね。さすがは恋愛初心者」
うるさい、と言いながら手探りでジェラールを押す。今度はその様子を見たデイジーが状況を正確に察した。
急いで濡れタオルを数枚用意し、ジャイルズに届ける。すまない、と言いつつタオルを受け取り、逆上せあがった顔の上に乗せた。
「お召し物は……大丈夫みたいですね。汚れていませんわ」
デイジーがそう言うと、タオルの下からありがとう、とくぐもった声が聞こえた。
「どういうことですの? お怪我をされたり、具合が悪い、というわけではありませんの?」
グレイシスは心配で彼の顔を覗き込む。さすがのジェラールも苦笑いをして、グレイシスのそばにしゃがんだ。
「グレイシス様、大丈夫ですよ。ジャイルズ様は、その……グレイシス様に悩殺されてしまっただけですから」
おい、とまた、くぐもった声がする。
「いえね、グレイシス様のあまりの美しさと、それと、ほら……、その……真上から見下ろしたので、見えてしまったのですよ」
ジェラールの言葉に、デイジーがグレイシスの胸元を指差して困ったように眉を下げた。
ふと自分の胸元を見て思い出した。そうだ、このドレスは、上から見ると胸元がばっちりと見えてしまうのだった。瞬間、これ以上ないくらいにグレイシスの顔に熱が集まるのがわかった。
「……え? あ……、やだ……っ、ジャイルズ様、お見苦しいものをお見せしてしまって、申し訳ありません。まあ、どうしましょう……」
グレイシスは一人おろおろとしていたが、当のジャイルズ本人はすっかり蕩けた表情になっていた。
(こんなことで鼻血を出すだなんて情けないところを見せてしまったけれど……。でも、幸せ……)
ジャイルズが復活するまで、あと少し。




