7 わたくし、どうしてしまったのかしら?
その日の夜。
夕食を終え、サロンで家族とお茶を楽しんだあと、自室に戻ったグレイシスは湯浴みをした。
白い猫足のバスタブに浸かり、淵に両腕を掛け、頬を乗せる。お気に入りの薔薇のオイルを垂らしたお湯は、とても良い香りがしている。
その気持ち良さに、思わず目を閉じたくなった。
夜着に着替えたグレイシスが自室のソファに座ると、ドロシーがタオルで髪に残った水分を吸い取ってくれる。
そうしている間にも、グレイシスは落ち着きなく抱え込んだクッションに顔を埋めては顔を上げ、を繰り返していた。
それを見ていたデイジーは、小さく溜息を落とすと、苦笑いしながらグレイシスの前にハーブティーを置いた。
「グレイシス様。はしたないですわよ」
グレイシスはほんの少し顔を上げて、目だけ覗かせた。
「……デイジー……、見逃してちょうだい」
その頬は、ほんのりの色づいている。
デイジーは、おや?と思ったが、具合が悪いわけでもなさそうだ。
「何かございましたか?」
グレイシスは何かを言おうとして顔を上げたが、恥ずかしそうにすぐまたクッションに顔を埋めてしまう。
「大丈夫ですわ。心配するようなことではないの」
耳まで少し赤いグレイシスをみて、デイジーは首を傾ける。
「本当ですか?何かあったら、すぐに仰ってくださいね」
「ええ。ありがとう。本当になんでもないの。心配をかけてごめんなさい」
デイジーはまだ少し気にはなっていた様子だったが、あの、と話を続けたグレイシスを心配そうに見つめた。
「……こんなことを聞いて、変だとは思うのだけれど。……デイジーは、旦那様とは恋愛結婚でしたの? それとも政略結婚だったのかしら……?」
ドロシーは、こてんた首を傾げた。
「親の決めた結婚ではありましたが、すぐに主人のことが好きになりましたよ」
「そうなのね。だとしたら、恋愛も体験したということかしら?」
「そうですね。そういうことになると思います」
ソファの後ろでは、ドロシーがニヤニヤと楽しそうにしながら髪を乾かしている。
「グレイシス様。どなたか気になる殿方でもできましたか?」
デイジーは、迷うことなく直球で聞いてくる。グレイシスは、うっと言葉に詰まったが、大きく息を吐き出して語り出した。
「妖精の森で、素敵な男性にお会いしました」
あらあら、と嬉しそうな顔をしたデイジーは、主人の初恋を予感する。グレイシス本人はまだそこまで意識していないかもしれないが、とても気になる話題ではある。
まだ恋を知らないグレイシスのために、デイジーは若い頃にコレクションした恋愛小説を持ってくると提案した。
だかが小説、されど小説。当時、実際に勉強のために読んだ本たちだ。少しでも恋心がわかるかもしれない。
デイジーは、早速明日、持ってくると約束をした。
◇◇◇
天蓋付きの大きなベッドに横になっても、これっぽちも眠れる気がしない。
デイジーはその薄い幕に手を掛け、グレイシスに就寝の挨拶をした。
「それでは、おやすみなさいませ」
「おやすみなさい。デイジー」
部屋の灯りが消え、薄暗くなった視界の中、グレイシスは今日一日の出来事を思い浮かべる。
今日は仕事も社交もお勉強もない日で、朝からお天気が良かったこともあり、街歩きよりも妖精の森へ行きたいと思った。お城のシェフに頼んでスコーンを焼いてもらい、紅茶をポットに入れ、バスケットに詰め込んだ。森に入るととても気持ちが落ち着き、キャロルに小川の水を飲ませてあげようと思った。
そこまではいつもどおりだったのだ。
違ったのは、シャアルという青年に出会ったこと。
彼はとても逞しく、美しい容姿をしていた。
兄たちも整った容姿をしているが、もちろん身内として接してきたため、異性への耐性があまりできていない。いや、社交などでは多くの貴族令息と接してきた。
しかし彼らは“王女グレイシス”として接してくるのであって、あくまでも距離をおいた存在だった。
今日のように一人の女性として家族以外の異性と接することは、今までなかったことだった。
王族としていつも誰かの目に晒されているため、幼い頃からどこか気の抜けない生活を送ってきた。
もちろん、異性であっても幼馴染や従兄弟たちとは親しくしてきた。だが、ほとんど生まれたころから一緒にいたので、まるで家族のように慣れ親しんできた。これはどう考えてもノーカウントだろう。
それが今日は、はじめて会ったばかりのシャアルという青年の前で、気がついたら素の姿で接することができていたのだ。こんなに長い間、人の目を気にして過ごしてきたのに、である。
彼の声が、まだ耳の奥に残っている。
彼の笑顔を鮮明に思い出せる。
彼にまた会いたいと思う。
グレイシスには、この胸の高鳴りがなんなのか分からなかった。
グレイシスは、無意識に微笑んでいることに気がついていない。