「起動」(9)
空気の汚れがいっさいないのか、異常なほど青空は澄み渡っていた。
穏やかに流れる綿雲。そよ風に気持ちよく歌う草原。
遠くにそびえるのは、雪をかむった峨々たる雪の連峰だ。あちらにいたっては、あたかも水晶でできたかのごとき巨大な宮殿が輝き立っているではないか。
異世界だった。
不凋花の舞う鮮やかな花畑には、一本の樹が生えている。
樹の根本にぐったりと座るのは、ミコだ。
立ち上がろうにも、機体を侵す電子ウィルスの影響で手足は動かない。ただ、かろうじて会話機能だけは使える。墓標のように横へたたずむ仮面の弓使いへ、ミコはたずねた。
「あなたは召喚士の仲間ですか?」
自然の景色を遠くながめたまま、仮面の声だけが答えた。
「ぼくこそが召喚士だ」
「いいえ。機能が落ちた私のセンサーでもわかります。あなた、人間ではありませんね?」
「人の形をし、血が流れ、自分で考えるきみは、人間のように見えるが?」
「会話の不成立を確認しました。さっきからずっと、なにを待っているんです?」
「きみが待っているのと、おなじものを」
めずらしくぎょっとした顔をして、ミコは動くかぎり首を振った。
「ヒデトなら来ませんよ。あなたの思惑どおりに〝セレファイス〟をつけて、この世界に入ってくるはずがありません。異世界との行き来を可能にする一種の門であり、かつ洗脳装置をかねるのがあの呪力のゲーム機です。そんな危険なものを使うことは、組織が決して許しません」
「組織の指示を無視して、彼が独断でこの世界へ飛び込んできたとすれば?」
目つきを鋭くし、ミコは問い返した。
「あなた、ヒデトをなにに利用するつもりです?」
「理解力まで鈍っているようだな、タイプS。彼の呪力〝黒の手〟は非常に特殊だ。〝物体を〟〝もとあった世界へ戻す〟……たとえば、きみたちの世界ではただの部品として存在していたものを、別の世界で組み立てる。組み立てたそれを、こんどは別の世界からもとの世界へ戻す。その一連の奇跡を、所定の詠唱や、地点と地点の魔法陣を描く手間もなく行える部分がとくに素晴らしい。言いたいことはわかるね?」
「はい。組み立てて、戻す……理論上は、敵地に一瞬で核兵器等を送り込むのも可能ということになります。とてもわかりやすい説明です。理解しました。あなたが、私を絶対に生かして帰さないということも。ですが、ふふ」
もともとミコは、こんな感情を表にだす性格設定ではなかったはずだ。やや切なげな笑みをこぼしながら、仮面へ告げる。
「ヒデトは来ません」
新たな人の気配を察知して、ミコと仮面は振り向いた。
花畑の中に、ヒデトが立っているではないか。
さも物珍しげに、ヒデトはじぶんの手足を見回している。はじめてこの仮想世界を体験した人間に、ありがちな仕草だった。
現実世界のどこかには、危険なゲーム機を着用したヒデトがいるはずだ。そしてそのヒデトももう、あの鎧の騎士たちと同じく理性を失った怪物と化しているに違いない。現にヒデトの顔つきには、人間らしい意思がどこか欠けているように見える。
ミコの声は悲愴だった。
「なぜ……!」
「よく来た、冒険者よ」
仮面の奥で、弓使いはたしかに笑ったようだった。
「どうだ、すばらしい世界だろう。褪奈英人、きみはまずこれから、この〝セレファイス〟で魔王とそれの率いる魔物を討伐するのだ。依頼をクリアすればレベルは上がるし、ときにはきみだけの珍しい報酬を得られることもある。もちろん戦い以外の要素も数多く用意されていて、同時に接続している世界中の仲間と……」
この懇切丁寧な案内こそ、暴走する若者たちをそろって最初にむかえた言葉だった。
まだチュートリアルを続ける仮面を前にしても、ヒデトはぼうっとしたままだ。危うい状態のミコのことなど眼中にもない。どう考えても洗脳されている。
ヒデトの頭頂からつま先まですみずみ確認し、仮面は満足げにうなずいた。
「拳銃に手榴弾、その他。想定されたそれらの装備いがい、おかしな持ち物はなし。精神操作も完璧だ。よし、では手始めに、きみの〝黒の手〟の呪力で、そこのアンドロイドを消し去ってもらおうか」
仮面がしめした先には、顔を強張らせたミコが動けず座っている。ミコをさした指を軽く振り、仮面は補足した。
「おっと、丸ごとではなく部品ごとに消すんだよ。無事なまま帰したら、またいつどこで厄介の種になるかわからない。あちらの世界には、ばらばらになった彼女の機体がひとつずつ順番に配達される。ああそうそう、自我を意味する〝絶対領域〟は最後に残しておけ。ぼくみずからがとどめを差す」
「…………」
仮面に言われるがまま、ミコへのびるヒデトの手。
ピンとレバーの外れた手榴弾は、弓使いの眼前に浮いていた。
「なに!?」
「ふせろ! ミコ!」
まばゆい爆発は、花畑を荒れ狂った。
その寸前、ヒデトはミコに飛びかかっている。炎と爆風からかばい、そのままいっしょに不凋花の絨毯を二転三転。ミコを下にして身を起こすや、ヒデトの片手が引き抜いたのは拳銃の輝きだ。
猛煙の向こうを油断なくにらむヒデトへ、ミコは押し倒されたままたずねた。
「ヒデト……洗脳されていたのでは?」
「いい夢見たぜ。仮面野郎が、おまえを配達うんぬんとか抜かすぐらいまでは、な。タイミングを見計らって、組織は全力で俺の洗脳を解いた。これが、課長とパーテがあらかじめ準備してた〝有事の際の妨害手段〟ってやつさ。うまくいくかどうかは、ひとつの賭けだって聞かされてたが」
「危ない!」
刹那でもミコの警告が遅ければ、ヒデトの頭はリンゴのように中央から射抜かれていたはずだ。とっさにかわした顔をかすめ、鋭い矢の光は青空へ消えている。
地獄のようなつぶやきは、ミコのものでもヒデトのものでもなかった。
「ぼくの故郷を汚したな……絶対に許さないぞ、おまえたち」
矢の軌跡が断ち割った煙幕の先、複合弓〝魔女の家〟をかまえるのは仮面の怪人だった。
いや、その様子はすこし変だ。本来は仮面を通して擬装されるはずの声も、地声なのかやけにトーンが高い。
謎はすぐに解けた。手榴弾の破片をまともに浴び、不吉な仮面は片側半分がほとんど崩れ落ちてしまっている。
なくなった仮面の下から、憎悪に煮えたぎった眼差しをふたりに刺すのは……女?
「……こいつはやべえ。あの爆発をもろにくらって平気だと?」
ミコに馬乗りになったまま、ヒデトは早口に確認した。
「やつにバレないように、口の中に組織の秘密兵器を隠してきた。嫌って言うならいまのうちだぜ、ミコ?」
「いいえ、早く」
キレのいい怨み節をつむごうと開いた弓使いの口は、空いたまま塞がらなかった。
色とりどりの花畑の中、ヒデトがミコに口づけしたではないか。とても深々と。
弓使いの怒りは頂点に達した。
「貴様らァッ! いい加減にしろッ!」
猛然と飛来した矢の雨を、ヒデトは横っ飛びに転がって避けた。無造作に走りながら銃を撃ち返す。だが、弓使いの手を離れて不規則な軌道を描いた矢の一本は、ついにヒデトの片足をつらぬいた。こんどは思いきり地面にキスしたヒデトのまわりで、苦鳴を飾るように色とりどりの花びらが舞い散る。
気づいたときには、仮面の女は覆いかぶさるようにヒデトの上に着地していた。きしみをあげて引き絞った弓矢の先端をヒデトの眉間にあて、ねじくれた声をこぼす。
「ひとの故郷で平然とバカなことをするその頭の構造、いま掘削工事をして確かめる」
「いいや、バカはおまえだ」
半分だけのぞいた女の瞳を、ヒデトは強い視線で見返した。
「おまえがこの世界に持ち込むべきじゃなかったものは、合計みっつ。ひとつはミコ。もうひとつは俺。最後のひとつは……」
ヒデトは言い放った。
「いま俺が、したくもない口移しでミコに飲ませた、電子抗ウィルス剤だ!」
仮面の女が吹き飛んだのは、次の瞬間だった。
何者かの凄まじい飛び蹴りが、彼女を横合いから全速力で襲ったのだ。
弓使いが地面に叩きつけられたときには、ミコの蹴り足は勢いよく花畑をえぐってブレーキをかけている。特製の抗ウィルス剤を機体内の接続口から物理的に取り込み、ミコは電子と呪力両方の汚染を除去されて再起動した。
矢傷の激痛をせいいっぱい我慢しながら、うめいたのはヒデトだ。
「時間稼ぎ、成功」
「はい。スリまっさおの手際です」
「どこで習った、そんな嫌味を?」
首をかしげて問い返しつつ、ヒデトは手のひらを開いてみせた。
思わず跳ね起きたのは、仮面の女だ。ヒデトの手には、さっき七転八倒する間に探知して集めた球形の物体……新型の異世界投影機が握られているではないか。ついいましがたまで五芒星を描いて配置されていたため、その数はちょうど五個ある。
目配せしたミコへ、ヒデトは告げた。
「やるぜ?」
「はい」
仮面の女が止めるより、ヒデトの手に呪力が集中するほうが早い。
「〝黒の手〟!」
ヒデトの叫びを引き金に、投影機は光の粒と化して消滅した。