不老不死の大賢者
彼は大賢者と呼ばれていた。
大いなる光が混沌を打ち破り、空と大地を引き裂いてから千有余年、人類史上初めて自然を意のままに操る魔法使いが現れた。
彼は誰よりも魔法を愛し、魔法に愛されていた。
魔法技術が他国よりも半世紀は進んでいるとされる帝国の大魔法使いたちでさえ、彼の力の底を理解できるものはいなかった。
それほどまでに彼は孤高であった。だが、孤独ではなかった。彼は若くして魔法の指南役となり帝国に招かれた。ただ純粋に魔法の真理を追い求める彼の姿は、帝国の大魔法使いたちを虜にした。
そして、いつしか帝国議会の中でも彼を推す派閥が現れた。
「大賢者様はこの世にもたらされた大いなる光の奇跡である! その技術はこの世すべての雲を操り、その魔力量は海よりも深く膨大であるのだ」
大賢者派と呼ばれた彼らは、ありもしない大賢者の噂を流し始めた。だが、当の本人はそのような噂に興味はなかった。魔法の研鑽さえできれば、他のことなどさして重要ではなかった。
齢四十を超えたころ、彼の名は帝国中に広まっていた。大賢者は人の心を読み、世界を作り替えることができる、帝国の民ならば子供でも知っている逸話であった。
実際、彼にそのような力はなかったが、人々は彼を恐れ、崇め、そして信仰が生まれた。
「これは、大賢者様のご意志である」
帝国では、その言葉がほかの何よりも恐ろしい力を持っていた。そして大賢者派は政治の実権を握るようになっていった。
彼は魔法の才こそ非凡なものであったが、人を見る才はなかった。政治家たちに囲まれた彼は大賢者派を正式な家臣であると公表した。
「旧皇帝派の連中を黙らせる必要がありましょう。あなた様のお許しさえいただければ――」
「まかせよう」
彼は大帝の地位を得た。齢五十であった。
しかし彼が政治を行うことはなかった。元大賢者派の大臣が政治のすべてを取り仕切り、彼は魔法の研鑽以外にやることがなかった。仕事といえば、家臣に言われるがまま敵国を海に沈めるのみであった。
魔法の研鑽には金が必要であった。珍しい素材や高価な実験器具など、必要なものが山のようにあったが、大帝となったことでそれらの問題がすべて解決した。
彼はこの世のすべてを手に入れた気になった。幸せの絶頂であった。
珍しい素材と高価な器具のおかげで彼の魔法研究は大きな進捗を得る、そのはずであった。
しかし、研究を始めて数か月もしないうちに彼は理解してしまった。これ以上は進むことができないと。これこそが魔法の極致、真理を得たのだと感じた。
彼は人生をささげ、真理へと到達した。すべてを理解したかのような全能感に取りつかれた。この世界に恐れるものなど何もなく、すべては自分を喜ばせるために存在していたのだと感じた。
しかし、自身の能力に溺れ続けられないほどには彼は賢かった。すぐさま自らの誤りに気が付いた。彼が到達したのは、人類の限界ではなく、彼自身の限界であった。
「私は極致に至った」
彼はそう言って研究をやめた。
そして、彼は本当に何もしなくなった。
何もしなくなった彼は、役職を追われたが、誰もが大賢者の力を恐れていたために、十分な金と町はずれの豪邸が与えられた。
彼はある問題に直面していた。それは、この世のすべてを手に入れた彼にとっても、ただ一つ、どうしても克服できないものであった。
老いである。
生まれた時から別格であった彼の魔力量が、長年にわたり磨いてきたその技術が、老いとともに少しずつ衰えていくのを感じた。
何よりも大切に育ててきた自身の能力であり、ただ一つのアイデンティティが、いつかは凡人のそれにも劣ることになるのだと彼だけが理解できた。それは、今までにないほどの恐怖となり、彼を支配した。
彼は老いを止める方法を考え続けたが、ついに答えを得ることはできなかった。雨を降らし、嵐を起こし、山を吹き飛ばすことができても、老いだけはどうすることもできない。
彼はとうとう魔法によるアプローチを断念し、絶望し、そして神にすがった。
彼は祈り続けた。
大帝を追われてから四十年間、彼は祈り続けた。今まで魔法研究に捧げていた時間をすべて祈りに使った。
彼は自らの死が目前に迫っているのを感じたとき、このまま死ねば今までの魔法への探求がすべてなかったことになってしまうのではないかと絶望した。
せめて弟子たちに自分の技術のすべてを託すべきではなかったか。過ぎた後悔ばかりが浮かんでくる。
そんなある日、大賢者は大いなる光を体験した。
「あなたは誰よりも多く、祈りをささげてくれました。また、人類魔法史に多大な貢献を果たしました。ささやかながら願いを一つ叶えて差し上げましょう」
彼は死を恐れた、老いを恐れた。
「ああ、私は大いなる光よ。不老不死を、どうか不老不死の体をお与えください」
「本当にそんなもので良いのですか? 今以上の才能を持った来世を与えることもできるのですよ」
「才能など、老いの前では無意味でございます。私は今生でそのことを痛いほど実感しました。本当の真理に到達するには時間が必要なのです」
「そうですか、では不老不死の来世を与えましょう」
彼は長い夢から目が覚めた気がした。起き上がろうとするが、体がうまく動かせず、しゃべることすらできないことに気が付く。
彼は転生し、赤子となっていた。
赤子は理解した。自身の願いが大いなる光に聞き入れられたのだと。
ようやく自分は老いから解放されたのだと気づき、赤子は泣いた。それ以外に自身の気持ちを表現するすべがなかったから。赤子の心は希望に満ちていた。
しかし、数か月足らずで赤子の希望は打ち砕かれた。一向に魔法も使えず、言葉も喋ることができず、歩くことすらできない。ただただ泣くことができるのみであった。数年たとうとも、この状況は変わらなかった。
赤子はようやく不老の意味を理解した。どんなに訓練しても言葉を発することができず、生前はあんなに自在に操れた魔法も一切使えない。不老とは何もかもが成長しないことであった。
いつまでたっても成長しないその赤子は呪われた子と呼ばれた。
しばらくして、多くの大人が赤子のもとに訪れるようになった。赤子は幸い裕福な家庭に生まれ変わったようで、両親は数多の高名な魔法使いを頼ったのだ。その中には生前の彼の弟子も含まれていたが、ついに赤子が大賢者であると気づくものはいなかった。
赤子は両親には愛されたが、不老不死の赤子に未来などなかった。両親の死後は兄弟たちの家をたらいまわしにされた。そしてそんな状況が三代ほど続いたあと、赤子は山へ捨てられた。
とてつもない空腹を感じたが、それで赤子が死ぬことはなかった。極寒の日の夜も、猛暑の中も、犬に食われた後でさえも赤子は生き続けた。
長い年月とともに赤子は土の中に埋まることが一番ましであることに気が付いた。土の中は、ただ冷たさのみが伝わってくるが、状況が悪化することはなかった。
赤子は祈り続けた。いや、呪い続けた。
自分を捨てた家のものを、自分の願いを叶えた矮小なる光を、そして愚かな祈りにすがっていた自分自身を呪い続けた。
赤子が世界を呪い続けて数百年が過ぎたころ、それは赤子に語り掛けた。
「私は大いなる闇。あなたは、人類史で最も世界を呪い続けたものだ。ささやかながらあなたの望みをかなえてやろう。誰でもよい、何人でもよい、好きなものを呪い殺してやろう」
数百年ぶりだろうか、赤子は嬉しそうに笑った。