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「少し、いいか」
厳かな低い声で、彼は言った。囁くように、耳元で──マリアンに聞こえないように。
拒む理由などない。シェーンが黙って頷くと、キャロスは彼女の背を押して別の場所へと促した。
来た道を戻る。回廊を抜け、大広間を横切り。中庭まで来て、キャロスは足を止めた。
用心深く辺りを見渡す。誰もいない。それでもなお注意を払い、彼は聞こえる程度に声を落として話し出した。
「誰にも聞かれたくはないのだ、許してくれ」
シェーンはただ黙って頷く。同時に、安心もした。この城に来て、ようやく騎士らしい礼儀を知る人に会えたのだから。なるほど、この国一番の騎士、という肩書きは伊達ではない。
キャロスは続ける。
「あなたが言わない限り、誰もあなたのことを王子に教えたりはしない。皆、王を恐れているのだ――それを踏まえて、聞いてほしい」
再び見回す。風が吹くだけで、人の気配はない。
それにしても妙な感じだ。もうすぐ昼になるというのに、この静けさ。家を一軒建てられるほどのここに、以前は木々が美しく枝を伸ばし花々が咲き乱れていた。なのに今はどうだろう、常緑樹すら寒々しく葉を散らし、芝も枯れ果てている。手入れの跡もない。
その謎は、次の彼の言葉で解けた。
「ここは、メリアン様のご遺体が見つかった場所なのだ」
ゾクッ‥‥と、した。
彼の瞳はまっすぐでなく、迷いか悲しみか、遠くを見ているようだった。
自害したとされる、メリアン。もしそれが本当だとしたら、なぜここを選んだろう? やはり、美しい場所で眠りたかったのだろうか。‥‥いや、そんなはずはない。浮き上がっては無理やりに、思考を打ち消す。
彼女は、自害などではない。
「メリアン様は、どのような状態だったのですか?」
思わずシェーンは問うた。キャロスは少しだけ目を見開いてから、すぐに細めて首を振る。
「よくは知らない。なにしろそのころは、私とて戦場に行っていたのだ」
すべてはあとから聞いた話だ、と。確かにキャロスは当時、マリアンとともにハオン島に行っていた。そうだ、そうだった。
彼女の最期を知りたい。真実を知りたかったのに。一度見えた希望が掻き消されるのは、やはり虚しい。昨夜からまともに気の休まることのなかった彼女に、その落差は大きかった。
キャロスは彼女の落胆を見取ると、一つ溜息をついた。
「自害ではなかったと、私も思う」
思わず顔を上げる。まるで心を読まれたかのようで。それから彼女の死を疑う仲間に出会えて。驚きとともに嬉しさを覚える。
「メリアン様がそのようなこと、なさるはずがない。誰より命の尊さと、‥‥残される者の悲しみを心得ていらした方だ」
声はやはり抑えていたが、口調は今にも叫び出しそうな震えを帯びている。左下に逸らした視線は、彼女の記憶を辿る道筋。
――ああ。
思い出すのはメリアンがいつも左腕に付けていた、見知らぬ紋章の刺繍が施された喪章。やはり、そういう意味があったのだろうか。
気にはなっていたが、メリアン本人には訊けず終いだった。彼は知っているのだろうか、訊いてもいいのだろうか――いや、やめよう。もういいではないか。
今となっては、すべて過去のこと。
「ところで、お話とは?」
暫しの沈黙のあと、切り出したのはシェーンだった。
「この話をするためにお呼びになったのではないでしょう」
わざと眉間にしわを寄せ、口調は強く次を促す。この話はもう、やめたかった。
一度は蓋をし鍵をかけたメリアンのことを、こうやって再び話し合うのは辛い。答えのあるわけでない、真実を知りえもしない彼女のことを、シェーンは今一度封じ込めたかった。
「ああ‥‥」
キャロスは一つ、咳払いした。彼とて、切り替えるのに整理が欲しい。二度ばかり深呼吸をしてから、いよいよ本題に入る。
「マリアン様のことだ」
むろん、そうであろう。でなければサー・キャロスとこんなふうに話をするだなんて、一般庶民の彼女には一生に一度もあるものか。
シェーンは彼をまっすぐに見つめる。
「正直に言おう。私は王を恐れてなどいない。いざとなれば城中の騎士を倒して、逃げ切る自信もある」
顔つきは至って真面目に。彼ならやりかねない、とシェーンは頷いた。
「けれど、この件については王に従うつもりだ。王子を欺くのは実に心苦しいことだが、王子のためにも、致し方あるまい」
先ほどとは変わって、淡々と話すキャロス。眉間に寄せたしわだけが、王子への忠誠心を示していた。
ここでまた一つ息をつく。辺りを見渡し、誰もいないことを何度も確認する。
「逃げないでほしい」
一言だった。
まっすぐに彼女を見つめ、はっきりとした口調で。
「逃げないでほしい。‥‥王女派の騎士たちにはいろいろ言われるだろう、彼らもあなたの身を案じていた。けれど今あなたがいなくなったら、それこそ王がどんな行動をとるかわからない」
――違う。
淡々と、ではない。必死に感情を抑えている。
王子の前では平静を装い、シェーンにも嘘をつき続けろと言う。本来彼にも不本意なことなのだろう、でも従うわけは。
王子のため。
「もしものときは必ず守る。騎士の名にかけて誓う」
胸に手を当て。そこまでされずとも、シェーンには彼の心情を理解できた。
同時に、王が憎憎しかった。
この国の王には。ゲスディン王には、自分の子さえ駒の一つなのだ。歯向かえばどうなるか。マリアンはメリアンの死を知るべきではない。
今朝、メリアンのフリをして彼に話しかけた、あのときの嬉しそうな顔。派閥が分かれていようがなんだろうが、二人の兄妹は仲が良かったのだろう。
シェーンがいなくなれば嘘がばれる。王子がそのときどんな行動をとるか。キャロスは心得ている。
「わかりました」
もとより一つしかない答え。でも、今新たに理解したことがある。
この嘘は真実、王ではなく王子のためのものなのだ、と。