20
「申し訳ございません」
マリアンの姿を見るや否や、わき腹の傷の手当てを振り払ってサー・キャロスは言った。その声は室内によく響く。
「王をお守りすることもできずに」
声に足を止めたマリアンのすぐかたわらに膝をつき、深く頭を垂れる。続けようとしてかすれる声は、言葉に悩んで途切れた。
「いいや、皆よく頑張ってくれた」
優しく首を横に振る。努めて明るく話そうとする彼を部屋の入り口から眺めながら、シェーンはそっと視線を外に投げた。
マリアンは気付いていまい。
どんなに気丈に振舞っても、その顔には涙のあとが残り、青ざめた肌色はどれほど思いつめたかを物語っている。今だって一人で立って歩いてはいるけれど、シェーンは気が気ではない。
戦死の報せが届いてから王の遺体が戻るまでの一週間、マリアンはずっと部屋に閉じこもっていた。
キャロスの手当てをしていた娘が、彼をベッドに引き戻す。マリアンは一言、ゆっくり休め、と言い残して部屋を出た。
シェーンもそれに続く。けれど、交わす言葉はない。
城内はいつだって静かだけれど、今日は特別ひっそりとしていた。足音が無闇に響く。それがなおさら悲しげを煽って、二人は無意識にうつむいていた。
ふいに通り抜ける風に、視線を窓の外へやる。なにを見るわけでもない、ただマリアンを見ていると辛いから、ついそうしてしまう。
数人の騎士か侍従とすれ違ったけれど、彼らもまた、無言で一つお辞儀をして通り過ぎていった。
と、突然マリアンが足を止めた。
中庭。かつて美しく花が咲き乱れ、木々が枝を伸ばしていた場所。けれどメリアンが亡くなってからはすっかり枯れ果てた――メリアンの、遺体が見つかった場所。
マリアンはそこまで詳しく、メリアンの死についてを知ってはいないはずだ。これは偶然。けれど、兄妹を繋げる見えないなにかを感じずにはいられなかった。
「きみは、これからどうする?」
マリアンが問うた。突然の質問に、シェーンは少し戸惑った。
「父上は亡くなった。きみがここに留まる理由は、もうなにもない」
「‥‥ええ」
もう、誰に正体を秘める必要もない。そもそもマリアンのための嘘であって当の本人は知っていたのだから、始めからいらなかったのかもしれないとすら思う。
家に帰る。答えはそれでいい。けれど。
答えかねた。
「残るもよし、帰るもよし‥‥好きにするといい」
答えを待たずに呟くように言うと、彼はまた歩き始めた。先ほどより速い歩みは、彼女を無言に突き放した。
追いたいけれど追えない。なんとなくだけれど、本当になんとなくなのだけど、彼女はその場に立ち尽くした。
土だけの中庭で、空を見上げる。足は震えながら彼女を地面に突き落とし、知らず知らずのうちに涙を頬に伝わせる。
声は、出ない。
耳を澄ませる。どこか遠くで、大声で泣く者がいる。すすり泣く声も聞こえる。だけどそれは音にはならなくて、彼女には背景のように思えた。
誰もいない中庭に座り込むシェーンを数人の者が見ていたけれど、誰も声を掛けたりもしなかった。
あっけない。あっけなさすぎた。
この一年、彼女はずっと、城内に横たわる大きな謎を目の前にして悩んできた。目の見えない王子を助けながら、本当の自分でいられないことに苛立ったりもした。
その呪縛からついこの間放たれた。それが、ほんの十日で終わった。
いいや。
これで終わりだとは思わない。まだ謎は残っている。ただ、関わることはもうできないというだけで。
――わたしはもう、この城にはいらない。
なんて、無力なのだろう。胸に溢れる寂寥感、孤独感、喪失感。
思考は停止している。風が渦を巻く中庭で動けないまま、彼女は長い間そうしていた。
いよいよ覚悟を決めたのは、日も沈むころだった。
思い立ち身を奮い立たせ、シェーンは自身の部屋を片付けた。ここを出るために。
明日にも。いや、今日にも、家に帰ろう。そう決めた。
ここにいてもきっと惨めになるだけだから。
支度を済ませてから、マリアンの部屋へ行く。やはり彼も疲れていたらしく、簡単に挨拶を済ませてその場をあとにした。
ついこの間までは兄妹のフリをして話をしていたとは思えない、正体がばれてからも親しくしていたとは思えないくらい、あっさりとした別れ。虚しさが残った。
今一度部屋に戻り荷物を取ると、シェーンは窓辺に立った。すっかり日も落ちて月の浮かぶ夜空に、メリアンを思い出す。
誰も聞くものなどない、ただ呟くようにさよならと言って、暫くの間佇んだ。
もう終わり。終わったのだ。
本当の終わりはまだ先だけれど、そんな気がするけれど――わたしはここで終わり。
――もう泣くのも終わりにしよう。
そう言い聞かせる。重い足取りで部屋に別れを告げ、彼女は塔の階段を下りていった。
思いも寄らないことが起こるものだ。
城を出るか出ないかのところだったと思う。かつてここに来たときに使った裏の通用口から出ようとしたシェーンの耳に、怪しい物音が聞こえた。
普段なら気にも留めないような足音だったが、今日は静かすぎた。草を分け忍ぶそれの正体に不安を感じ、見極めようと目を凝らす。だが、わからなかった。
それでも彼女は、暫くそこに身を潜めた。嫌な予感がしたからだ。
かたわらの背の低い木々に荷物を隠し、自らも腰を屈める。吹く風に怯えながら、実際、疑うとおりなのかと自問自答しながら待った。
果たして、それは現実となる。
誰が通用門から出て行った。顔は見えなかったけれどドアが開いたのが見えたから、それに間違いはない。
なにをしていた? ――いいや、一つしかあるまい。〝魔女の刃〟‥‥マリアンの言っていた武器。
なぜ今、こんなときに?
違う。こんなときだからこそ、動きやすい。考えたくはないけれど、裏切り者がいる。王家三派に属さない、いや、表向きは属しているのだろうけれど、王家を裏切る者がいる。
もし忠誠心があるならば、今日という日にこんなことはしまい。
シェーンは今暫く待った。けれど不審者がいたその場所から誰も出てこない。
――もしかしたら荷物だけを置いていったのかもしれない。
確かめようと立ち上がる。そのときだった。
「誰だ?」
まさにその瞬間、声がした。低くガラガラとした声には聞き覚えがある。
騎士だ。その腕には小さな箱を抱えている。
威厳のある口調や態度は、恐らく城内でも地位のある――しかと姿を認めたとき、シェーンはたじろいだ。
騎士の目が闇夜に光る。あまりに醜い光だ。
「トルディアスタ卿‥‥?」
王の、一番の騎士。
彼がそこにいた。




