18
いつの間に眠ってしまったのだろう。シェーンが目を覚ましたのは、空も白んできた朝方だった。けれど体を動かすことはできない。
温かい。
自分の体の上に、温かくて重いなにかが横たわっている。いいや、彼女の体を拘束している。
――いけない、また。
自己嫌悪に陥る。昼に後悔したばかりなのに、どうしてまた同じことをしてしまうだろう?
けれどそれも、鎖骨の上で寝息を立てるマリアンの顔を見ると和らいだ。黒い髪。同色の長いまつげ。力強く彼女を抱く両腕――頬に残る涙の跡が、昨夜のことを思い出させる。
声を殺して泣き続けた彼。慰めるうち、彼女も知れず泣いていた。
――しわになってるわね、きっと。
足にまとわりつくスカートは、一年前、母が着せてくれた橙のドレス。当時より食生活の安定した彼女には少し窮屈で、何度か自分で手直しもしたがもう限界だ。なによりサテンの光沢を失った生地はみすぼらしくもある。これなら、かつて城下で暮らしていたときに着ていた普段着のほうがよほど見目がいい。
新しく作ろうかしら。そんなことを、ぼんやりと考えていた。
優しく吹き込む風は、少し雨の匂いがする。夜の間降り続け、止んだのだろう。静かすぎる空は、彼女を今一度、眠りの世界へと引き込もうとしていた。
キィ、とドアが開いた。
静かに、ゆっくりと。キャロスだろうか――いいや、それにしても早過ぎる。
シェーンは細めた瞳だけを向けた。ドアの影から現れたのは、中老の男。髭を蓄えた威厳のある顔つきと、がっちりとした体格のその男に、シェーンは見覚えがある。
そうじゃない。
見覚えどころの話じゃあない。
この男こそ、このコモード国の王、ゲスディンだ。
シェーンは焦った。これがキャロスか、もしくは正しき聖職者ならば後ろめたいことなどなにもない。けれど相手が王ならば話は別だ。
ごまかすことはできない。動こうとすると、マリアンはより強く腕に力を込めた。
短い間にいくつもの対応を考えた。けれど結局、彼女は寝ているフリをすることにした。
王はゆっくりと、ベッドに歩み寄ってきた。身に着けた鎧が、ガチャガチャと音を立てる。シェーンは目を閉じ耳を澄ませ、彼の挙動に注意を払った。
ベッドのすぐ横で立ち止まる。感じる視線から、マリアンを見ているのだとわかった。それからマリアンの髪がさらりと落ちる。薄く片目を開けると、篭手を外した王の手が目の前にあった。
ギッと、ベッドが軋む。体の左側に王が腰掛けたらしく、少し傾いた。
王は暫くそのままでいた。
なにをしていたのか、シェーンにはわからない。ただようやっと立ち上がるとそっと顔を寄せ、なにかを呟いた。彼になのか彼女になのか。どちらに向けた言葉かは、シェーンにはわからなかったけれど。
「―――‥‥」
その意味を理解すると、シェーンは思わず目を見開いた。けれど寝惚けた頭は時間の経過を緩やかにしていたのか、そのときには王はいなかった。
ドアは閉じている。夢だったのか、そうとまで思わせる。
思考を巡らせた。言葉の意味。王の真意。この国の、今後。自分が考えたところでどうしようもあるまい、戦が終わればきっと、もとの庶民に戻る‥‥わかっているけれど。
けれど、腑に落ちないのだ。
朝になると、王一行は再び戦地へと出立した。キャロスやトルディアスタ公も一緒だ。
「サー・キャロスがマリアン様からお離れになるのは、一年前のご帰還以来初めてですね」
ふと、そんな感想を漏らす。マリアンはそうだな、と思い起こして笑った。
「さあ、早くことを進めねば。シェーン、手伝ってくれ」
塔の上の自室から隊の出発を見送り、マリアンが言う。シェーンは頷いて、彼を助けてともに部屋を出た。
シェーンは朝方のことを、彼には言わなかった。
自信が持てなかったからだ。王が本当に、自分の思うとおりの心であるのか。そもそも、本当に王がこの部屋に来たのか、夢ではなかったのか。
事実ならば王子の心を少しは慰められるだろう、けれどそうでなければ余計に陥れてしまうかもしれない。王子を思えば、是非の判断はつかない。
思ったよりも、計画は難航した。というのも、王派の騎士。もっというならトルディアスタ公の近縁の者たちが目を光らせていたからだ。ただでさえシェーンは城内での立場がよくない。マリアンがいればこそ皆が彼女に敬意を払うフリをするけれど、その目は一様に疑いと軽蔑でシェーンを睨みつけていた。中にはマリアンの目が見えないことをいいことに、彼女を叩いたり蹴飛ばす輩もあった。
むろん、そういう者たちはすぐに己の愚かさを思い知る。
「無礼者め!」
かつてレオスにも、同じことを言ったことがあった。けれどそのときより、口調は苛立っているように思える。
城内の者にとっても彼が怒りをあらわにするさまは珍しいのだろう。怒鳴られた者はもちろん、周囲にいた者さえ驚いて振り返る。それからすぐに、謝罪の弁を口にした。
「どうしてわかるのですか」
小声で尋ねた。するとマリアンは、ごく当たり前のように答える。
「私が失ったのは視覚だけだ、光と闇を見分ける力は失くしちゃいない」
むしろ強くしたように思うよ、と続ける。人の、どんな些細な言動も、彼には表情以上に感情を伝えている。
彼らはそのあとも、地道に王派の騎士や侍従たちに声を掛け続けた。中には重傷の者もあり、また恐ろしい武器の存在に驚きを隠せない者もいた。
しかし。
「それでも私は、王を信じています」
昨夜、王子の部屋に食事を届けた侍従が言った。
彼はまだ若く、戦に出たことはない。しかし彼の父親は王派の騎士で、前回の戦いで命を落としていた。
彼は訴える。
「きっと嘘でしょう。王子様、私はその告発を、再考なさって戴きたいと存じます」
頑なに口を閉じる王派の騎士たちの中、はっきりとした返答を得られたのは彼だけだった。
あんまり、不思議なことだった。なにが彼らにそうさせるのか。シェーンは朝のあの出来事を思い返す。‥‥やはり、夢ではなかったのかもしれない。王はもしかしたら、思ったとおりの人なのかもしれない。
「でも実際、〝魔女の刃〟はあった」
語気を荒げ、マリアンが言う。思惑を外れた王派の者たちの返答に疲れ、彼らはマリアンの部屋に戻っていた。
〝魔女の刃〟――レオスが持ち出した。動かぬ証拠を否定できるなら、一番にマリアンがしたかったろう。それが叶わなかったからこの選択をした。
再考だと? なにを今更。
頭を抱え、マリアンは考えを巡らせた。
この分だと、キャロスもうまくはいってないだろう。どちらも口にはしなかったけれど、察しは容易についた。
隊の出立から、三日が過ぎた。
戦地での話し合いは順調に進んでいるらしい。当たり前だ、とっくに筋書きの書かれている話なのだから。
だからその報せは、彼らにとって――マリアンやシェーンやこの国に暮らすすべての者にとって、青天の霹靂。
それ以外、なにものでもなかった。