14
「――え?」
「‥‥きみの、本当の名前、を」
繰り返した言葉は、不安げだった。
マリアンは、まっすぐにシェーンのほうに顔を向けている。答えを待っていた。
心臓が一つ、大きく脈を打つ。
――どうしよう。
頭が真っ白になる。逃げ出したい気持ちで心が溢れる。
おかしな話。このことを話そうと思っていたのに、相手の口から問われた途端に怖気づいた。
一歩、後ろに下がる。けれどそれ以上は動けない。
例えばこのまま、音もなくこの部屋を去ったとしても、彼にはそれがわからない。
だから、逃げられなかった。
「‥‥やっぱり、知らなかったんだな」
ない返事は否ではなく、肯定を意味していた。マリアンにはそれがわかったらしい。
暫しの沈黙をおいてから、一つ溜息をついて話し出す。
「きみは、メリアンと会ったことがあるか?」
不思議な質問だった。
いいや、考えれば、シェーンをこの城に呼んだのは王の侍従だ。シェーンとメリアンの関係を、マリアンが知らなくてもなんら不思議はない。
だいたい、メリアンの生前中は一度も顔を合わせたことのない二人だ。たとえマリアンが、メリアンに庶民の友人がいるということを知っていたとして、今この相手が当人だとはわかるまい。
言うべきか、否か。いいや、答えなど一つしかない。
「‥‥少なくともわたしには、かけがえのない、無二の親友でした」
親友などとは、あまりに無礼だろうか。言ってから戸惑い、別の言葉を探すけれどなにも浮かばない。
マリアンは優しく微笑んで言った。
「そうか。なら、アイツにとってもそうだったろう」
嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか。緊張が少しずつ解けていく。
それからマリアンはもう一度、彼女に腰掛けるように促した。シェーンは少し考えてからそれに従った。
「メリアンはよほど、きみの不信を買うことを恐れたのだろうな」
「不信?」
「アイツはきみに、嘘をつき続けた。そうだろう?」
なんのことだかわからない。わかるはずもない――突然そう言われても。
――メリアン様が嘘を?
次の言葉が、その真意だろうか。そう思うと、自然と視線が彼の口許に注がれる。
けれど彼は言葉を選んでいるようで、なかなか話し出そうとはしなかった。
「メリアン様が、わたしにどのような嘘をついてらしたというのです?」
恐る恐る尋ねる。彼女の不信を買うような嘘。嘘をつかれたということよりも、それが恐ろしかった。
問いに対して、マリアンは遠まわしに答えた。
「それは私が、きみがメリアンじゃないとわかった決定的な違いだ」
脳裏に、つい先ほどの失態が甦る。
王子の前で倒れた。それだけならいい。彼に支えらえれ抱かれて、彼のベッドを借りた。どんなに声が似ていようと、こんなに身長の違う二人を、メリアンの兄であるマリアンがわからないわけがないのだ。
けれど、次の彼の言葉は、それを否定した。
「いつ話そうかと思っているうちに一年も経ってしまった。でもそれは、どうにも機会がなかったからだ。許してほしい」
気づいたのは今日ではない。
――一年も前から?
「許すだなんて!」
思わず声を張り上げる。
「お許しを請わねばならないのは、わたしのほうです」
声は震えていたけれど、はっきりと主張した。マリアンは優しく、それから悲しげに微笑む。
「アイツが、きみを大事に思った理由がよくわかるよ」
胸が締め付けられる。キュッと、喉が痛くなる。
「アイツは、嘘が嫌いだった‥‥バカなヤツだな、国中の人間に嘘をついたクセに」
ははは、という乾いた笑い。フッと、窓へと視線を逸らした。
「‥‥いつから、ご存知だったのですか」
自分でも知らぬ間に、正体を明かしていたということだろう。
一年前。出会って間もなくだ。マリアンがそのころすでに知っていたなら、それはいつで、なぜなのか。知ったところでどうにかなるわけではないのだけど、時期次第では自分の行動すべてに恥を知る。
「なに、会ったその日にわかったさ――そう、朝食の時分、食堂にきみが現れて、そのあとわたしの部屋で話をした。食堂でも違和感を感じたけど、部屋で話したときが決定的だったな」
懐かしそうに語るマリアンの口調は、ごく淡々としていた。
あのとき。「見つかったか」と彼に問われ、彼女は侍従に指示されたとおり、「なにもなかった」と答えた。
「答えられなかったからそう思ったんじゃない。そうじゃないんだ、安心してくれ」
慌ててマリアンが言う。彼女の心に一瞬走った不安を、一気に掻き消す。
「きみが悪いんじゃない」
この人は本当に見えてないのかしら? そう思うくらい、彼は彼女の心を読み取ってくれる。
それと同時に、この期に及んでなお、真実を話すことに戸惑っている自分に恥ずかしくなる。
「メリアンは、皆がいるときはあの声だが、私と二人だけのときは〝素〟が出るのだ。きみも聞いたら笑ってしまうだろう、その変わりぶりに」
ごく単純な理由だろう? と付け加えて。
――わたしの知るメリアン様は、本当のメリアン様でなかったということだろうか?
なんとなくショックを受けた。メリアンのことはだいたいなんでも知ってるつもりでいた。
「仕方なかったのさ」
思う以上に、マリアンも焦っていた。彼には急ぐ必要のあるわけでなし、恐らく、シェーンのため。少しでもシェーンを不安にさせないように考えるけれど、なかなかうまい言葉が見つからないのだろう。
「父上とメリアンが不仲であったことは有名だから、きみも知っているだろう?」
考えた末に切り出したのは、シェーンも気になっていたことだった。そう、城外ではともかく、ここでは誰もが知っている、むしろ心得ておかねばならないこと。
いつだったか。そもそも派閥のできた理由を、レオスが話してくれたことがある。
単純に、王を恐れ従う王派。対して王女派は悪政に挫けない、王女に賛同する勇気のある者たちが集まった。
もちろん、この二派は対立している。王子派はその残りといおうか、中立的な立場にあり、いつのまにか位置づけられた。
それそのもので、王と王女の不仲の図式。メリアンは非難していたけれど、否定はできなかった。
「だが、原因は誰も知るまい。そう、キャロスでさえ、な」
深く息をつく。それから、静かに続けた。
静かに風が吹く。暖かい昼下がりの日差しに、雲の陰がそっと落ちる。
「父上がメリアンを嫌ったのは、メリアンが剣を捨てたからだ」