10
部屋に戻ろうと、階段を下りる。窓から見える月と城下の灯火が妙に暖かい。思わず寄って眺めた。冷たいけれど柔らかい、心地のいい風が吹く。
ふと下を見る。誰がいる。
夜とはいえ‥‥いや、夜だからこそ、衛兵くらいはいるはずだ。けれどそれにしては不審に動く影が見えた。
目を凝らす。が、見失った。
フッと、ろうそくの灯が消えた。風が強すぎたのだろう、白く細い煙が立ち上る。
「どうしたんですか?」
突然、後ろから声がした。低く、敬語のわりに気に障る口調――王派の侍従だ。
「どうもしないわ」
侍従は訝しげな顔をし、それ以上なにも言わなかったものの睨むようにシェーンを見た。彼女もただ、睨み返す。
実際、なにもしていない。
「早く部屋へお戻りください。王が城に戻られてるのはご存知でしょう」
だからといって、彼女が行動の制限を受ける理由にはならない。今までできたことは今まで通りできるべきだ。ただでさえ城内のほかの者より不自由なのだから。
侍従が眼力を強める。今更、決して怖くはない。ただ彼の立場を思って、シェーンは従うことにした。
と、そのときだった。
カァアアン――‥‥
窓の下から、金属音が響いた。それも一度でなく、二度、三度と続く。
慌てて再び窓に駆け寄る。しかし侍従のほうが早かった。侍従もまた、驚いたような表情で見下ろしている。それから慌しく階段を下りていった。
「いいですか、今日はもうお休みください」
声だけが反響しながら、シェーンに投げられる。
瞬間、シェーンはその声がマリアンに聞こえはしないかと不安になった。少し距離があるとはいえ、夜の音は案外響くものだ。彼女は足早に、その場を立ち去った。
部屋に着くとすぐに窓を覗いた。もう音はしない。たださっきまではそこにはいなかった衛兵が数人、たむろしている。
‥‥いや。あれは騎士だ。それも、王派の。
すぐに先ほどの侍従を見つけた。彼は目上の騎士たちに敬礼し、騒ぎに混じった。漂う緊張感がここまで届く。
騎士らは四方を指差し、すぐに散っていった。
胸騒ぎがする。掌に汗がにじむ。
――怖い。
誰もいなくなった小さな庭を見下ろして、そんな思いを抱く。やがて静まり返る闇に諦めるけれど、布団をかぶったところですぐに寝つけはしなかった。
どれくらい、経ったろう。
コツコツ、という音が聞こえた。木を叩くような、そう、ドアを叩く――誰か、来た。ようやくうとうとし始めた頭で、それを理解するにはやや時間を要した。
「はい」
出る限りの声で返事をする。が、果たして音になったのだろうか。朦朧とする意識の中、来訪者の存在すら気のせいだった気がしてくる。
誰だろう。侍従だろうか。いや、今更彼らが待つとは思えない。この部屋にはもとより鍵がついていないが、彼らはいつだって無遠慮に入ってくる。
ならばもっと礼儀を知る、キャロスかレオスか‥‥他の騎士や奉公人が彼女と接することはないから、どちらかだろう。いや、それでもこんな時間にどんな用事がある?
また、誰がドアを叩いた。今度は、先ほどよりはっきり聞こえた。
「‥‥どうぞ」
やはりかすれるような、小さな声。
と、言い終わるか否か、来訪者は待ちきれずにドアを開け飛び込んできた。シェーンは少し驚いて、ゆっくりと顔をそちらに向ける。
「‥‥なんだ、起きてるじゃないか」
レオスだった。
しかしようすは尋常じゃない。息を切らし額に汗をにじませ。黒い外套は、見慣れぬものだった。
静かに、けれど素早くドアを閉める彼を見て、‥‥彼の左肩の傷を見て、シェーンはようやく意識を覚ました。
「どうしたの?」
彼は答えない。
ただ右手で傷を押さえ、ドアの前に座り込む。痛みよりは走り続けた疲労で動けない、といったふうだ。
傷を見ようとすると彼は無言で拒んだが、彼女は無理やりに傷を調べて手当てした。
「さっきの騒ぎでやったの?」
そう深くはないようだ。だが治るまでに暫くはかかるだろう。
「侵入者でもいたの? ブリランテのスパイ?それとも義賊かしら――‥‥」
「どちらでもない」
半分冗談のシェーンの問いに、吐き捨てるように呟くレオス。いつものことだ。シェーンはさほど、気にはしなかった。
暫く、二人とも黙っていた。
いったい、今が何時なのかわからない。月は部屋の裏側に回ってしまったようで、空にあるのか沈んだのか。輝く星々も、読む知識のない彼女には黙秘を続ける。
いや、どうでもいいことだ。
静けさは決して平穏とは異なるけれど、不穏とも違う。夜が明けることのほうがずっと怖い。
レオスの体は小刻みに震えていた。この部屋に来てからだいぶ時間が経っているのに一向に落ち着かない息継ぎに、シェーンは不安を覚える。
――なにか、〝した〟?
シェーンの知る限り、今も城に残っている王女派の人間は彼だけだ。後ろ盾のない、仲間もない彼の立場はシェーンと同様、よいものではなかった。
そんな彼がいつまでもこの城に居座ることに常々疑問は抱いていたが――まさか、さっきの騒ぎは。
その肩には、触れることさえ拒まれる。
手当てが終わっても、シェーンは暫く彼のそばにいた。不安げに眉をひそませるレオスは、今までに見たことがないほど情けない。膝を抱え目を伏せる彼の姿は、かつてのシェーンに似ている。
あえて目の前でなく、彼の隣に寄り添った。
空に日の光が射し始めたころ、ようやくレオスが口を開いた。その声はあまりに小さい。そして、やはり細かに震えている。
「朝になったら、サー・キャロスを呼んでほしい」
うつむいて。伏せたまま、彼が言う。
「彼にどうしても伝えておきたいんだ。伝えなくちゃいけない。そうでなければおれは、なにをもって騎士を志すものか」
叫びともとれる呟きは、今にも泣き出しそうだった。
「なにをもって、メリアン様に報いとするものか」