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眺めるになにも邪魔するものはない。
城の端の塔の一室。最上階のこの部屋は今、夜の闇に呑まれようとしていた。
遠くに太陽が霞む。朝のそれとは違う、水平線の向こうから伸びる光。視界の右端から左端まで一直線に引かれた緋色を境に、空は二層のグラデーションに塗り上げられた。
そしてそれさえ、刻々と色合いを変えていく。
「なにが見える?」
不意に問われて、少女は遠くに投げ出された意識を引き戻した。
「日没よ。とても綺麗だわ」
「どんなふうに?」
「空も海も真っ暗なのに、水平線だけが橙に光ってるの」
この海の向こうに、なにか大事なものでもあるかのよう──そう続けようとして、やめた。
〝この海の向こう〟で大事なものを失った彼に、それは言えない。
「そう」
微笑みの混じる声は続けて問う。
「城下はどうだ」
「‥‥静かよ」
ホッと息を吐く彼に、少女も微笑む。けれど続いた次の言葉には、そっと瞳を曇らせた。
「平和が一番だ──なぁ、メリアン」
メリアン。
その名は彼女のものではない。
「そうね」
声がわずかに震える。壁についた掌がじんわりと汗ばんだ。
ベッドに、布団の上から寝転がる彼。細身だけど筋肉質で縦に長い身体は、枠をやや飛び出している。退屈そうに鼻歌を歌いながら黒くて艶のある短い髪をいじるのを、彼女は哀れむような目で眺めていた。
ときどき歌も髪いじりもやめてそっぽを向いたときの、その沈黙がなんだかやりきれない。
と、ドアを叩く音が室内に響いた。侍従だ。
「マリアン様、お食事の時間でございます」
「ああ、わかった」
彼──マリアンが答えると侍従は静かにドアを開け、食事をテーブルに並べた。
メリアンと呼ばれた少女はマリアンを誘導して椅子に座らせる。それからメニューの説明をする侍従から引き継いで、フォークやらナイフやらを、マリアンの使いやすい位置に整える──これは彼女の仕事。
他のなにが変わっても、少女がマリアンのそばから離れることはなかった。だから彼のことは、彼女が一番よくわかっている。
それが周囲にどんな感情を与えるかは、別の問題であるけれど。
「チッ」
侍従が小さく舌打ちした。
自分の並べた食器を正されるとまるで自分が間違っている気分になる。不愉快になるのは仕方がない。だが侍従という身分上、それはあまりに愚かなことだ。
苛立ちをあらわにしたそれに、少女は顔を上げた。侍従のまるで敵のように睨みつける目に気圧されて、少女は怯えに震えた。
と同時に、室内にはマリアンの怒声が響き渡る。
「無礼者め!」
ガツンとテーブルを叩く。並べられた食器がほんの少し宙に浮いて乱れる。
驚いた侍従は一つ礼をして、そそくさと部屋を立ち去った。
「わたしはいいのよ」
明るい声を作って言う少女の言葉に、彼は少し気を落ち着かせる。
「すまない」
一息に水を飲み干す。彼女は食器をもう一度整えた。ひどく静かに、食事を始める。
もう、慣れていた。
彼のいないところでの少女は、ひどく惨めな扱いを受けていた。無理もない、もともとは仕立て屋の娘。身分の高いはずもない。それがこんな――王城で、誰よりも王子の近くに置かれているのだから。
王子。そう、マリアンのこと。
理由はただ一つ。彼女のその声が、王子の双子の片割れ、メリアンによく似ているから。
「まったく、いいご身分だよな」
手洗いに部屋を出た彼女に、先ほどの侍従、レオスが言った。
「いつまでこんなことを続ける気だ?」
「‥‥」
答えられなかった。
「なぁ、シェーン?」
少女の、本当の名前。
「――マリアン様の前であんなこと、なに考えてるの?」
返した言葉は、とても会話ではない。わかってはいるけれど、彼女――シェーンにはどうしても言わずにいられなかった。
「王子はわたしをメリアン様だと信じてるのよ」
「だったらなんだ。このまま騙し続けるのか?」
次第に興奮する侍従に対して、シェーンは努めて冷静に応えた。
「そんな言い方しないで」
「ほかになんていう!」
「声が大きいわ」
レオスも声は抑えていたし部屋からもとうに二十歩も離れていたが、シェーンには不安だった。
「マリアン様は音にとても敏感なのよ」
わかってるさ、と頷くレオス。と、廊下の向こうから騎士がやって来て、二人は会話をやめた。
「こんばんは、サー・キャロス」
騎士は軽く会釈して、そのまままっすぐ――マリアンの部屋へと入っていった。
聞かれただろうか。なんとなく漂う気まずい空気に、レオスは早足に去っていった。
ちらと、マリアンの部屋の扉に目をやる。
キャロスが入っていった。彼はこの国一の騎士だ。きっと戦争の、小難しい話をしてるに違いない。彼女はなるべく静かに、その場を離れた。
――けれど。
フッと、疑問が浮かぶ。疑問というよりは、腑に落ちないというべきか。
――今のマリアン様に戦いの話をして、なにになるだろう?
話だけならいいだろう。けれど、彼自身は戦いに赴くことなどできないのだ。
元は騎士としてもキャロスに次ぐ強さを誇ったマリアンも、今はこの城を出ることさえままならない。
そんな彼に、自軍の誰がどうなったかなど。どれほどの騎士が、兵が、どこでどうなったかなど。
もちろん、実際に内容を知っているわけではないから違うかもしれない。けど、ほかに思い当たることもなかった。
もし本当にそんな話をしているんだとすれば、すぐにでもキャロスを追い出してしまいたい。邪魔をしてやりたい。
けれど、彼が王子である以上、それは彼の仕事なのだ。
ビュッと吹き込んだ風に、長い髪がパラパラと乱れた。少女はそっと窓に歩み寄り、空を見上げる。
深い黒にポツポツと光る星。灰色というよりは少し藍の混じった雲。満ちていく月――‥‥彼には届かない光。
この光は万物に同じように注がれるけれど、マリアンの瞳にはもう届かない。
彼はもう、なにも見ることはないのだから。