羽衣伝説
よく晴れた日だった。空には雲一つなく、青空が高く、どこまでも広がっている。三保の浜からみる富士は青空によく映え、旅の者が見たらさぞ息をのむ光景だろう。しかし喜左衛門はそんなこともお構いなし、釣り糸を垂らしながらぼけーと浮きをみていた。この土地で生まれ育った喜左衛門には富士など珍しくもなんともないのだ。
そんな事よりも今日の魚の方が問題だ。釣れないことにはまたかかあにどやされるし、子供たちからは腹減ったと泣きつかれる。喜左衛門にしてみれば死活問題である。
しかし未の刻、申の刻と過ぎても当たり一つない。浜も黄昏に染まり、見る人が見たらこれまた息をのむ光景なのだろうが、喜左衛門には何の価値もない。それよりも魚だ。だが、浮きが見えづらくなった。喜左衛門は覚悟を決め、よっこらせと重い腰を上げた。
その時、どこからともなく得も言われぬ香りが漂ってきた。
喜左衛門が辺りを見渡すが何もない。ふと、上を見ると何かが漂っていた。なんだだろう、と思う間にひらひらと浜に落ちてきた。
喜左衛門は竿を投げ出し駆け寄ると、息をのんだ。何だかよく分からないものがそこにいた。顔は鳥に近いだろうか、人のような髪は生えているが、鼻と口は無く代わりに嘴があり、大きな黒い瞳がこちらを見ている。体は着物(と喜左衛門は仮定した)に覆われ、繻子に似た布で二重三重にくるまれている。その間から見える足は皺だらけで、まるで年寄りの足のようだ。そして何よりこの香り、花のような甘い香りがこの訳の分からないものから漂っていた。
喜左衛門は投げ出した竿まで戻り掴むと、急いで戻った。竿の先で突いてみると、それはぶるっと体を震わせた。喜左衛門は恐る恐る手を伸ばし、着物を撫でてみた。それはとてもしなやかで、この世の物とは思えない手触りをしていた。
そうこうしていると、それは哀願するような声で、
「くぁー」
と鳴いた。
哀れに思った喜左衛門それを担ぐと、家まで連れて帰った。
子供たちは大騒ぎし、かかあは呆れて文句ばかり言っていた。
「魚ではなくこんなもの持ってきてどうすんだい」
グチグチいうかかあに、喜左衛門は知らんぷりを決め込んでふて寝をしていた。そのうち根負けしたのだろう、
「とりあえず、庭の鶏小屋に連れてくからね」
と最近イタチが入り込んだせいで何もいなくなった鶏小屋に運んで行った。
「それにしても、良い香りね」
かかあはすんすんと鼻を動かし、子供たちもかかあにならってそれの香りをかぎ始めた。
噂はあっというまに村中に広がった。喜左衛門の家に珍しいもんがいるぞといってこぞってやってきた。皆鶏小屋の前で香りをかぎ、小石や小枝をぶつけて帰っていった。
そのうち誰かがこいつは天女だと言い始めた。大方その着物をみて言い出したのだろう。そんな与太話も人々が口々に三保の浜の羽衣伝説は本当だったんだと喧伝したせいで、仕舞いには遠く薩摩の国より見物人が来る始末。喜左衛門の家はさながら観光地としての賑わいをみせていた。
これに目を付けた喜左衛門は観覧料をとるようになった。入れ物代わりに使っていた米櫃も、一日置いておけば一杯になった。
これには最初餌代がかさむと文句を言っていたかかあも何も言わなくなった。一家は何不自由なく暮らしはじめた。
しかし新たな問題も出来た。今ではすっかり天女と呼ばれるようになったそれである。見物人は何かしらここへ来た証がほしいのだろう。鶏小屋の隙間から手を入れ天女の衣をちぎりはじめたのだ。あっという間に天女の姿は見すぼらしくなった。香りもいつからか無くなり、ただ猛烈な臭いがした。
こうなると見物人も現金なもので、一人、二人と足は遠のいていった。
かかあは今日も鶏小屋の掃除をする。床の糞を片付け、水を取り替える。
喜左衛門はすっかり怠け癖ができ、今日も銭を掴むと賭博場に飛んで行っていた。
「お前のせいで家はすっかり滅茶苦茶だよ」
かかあは恨み節をぶつけてみるが、それよりもはるかに滅茶苦茶になった天女が目の前にいた。
静かに日々は過ぎていった。その間に天女の衣は少しずつ元通りになりつつあった。
ある日を境に、天女は鶏小屋から出たがるそぶりを見せはじめた。かかあは掃除の邪魔になるので外に出した。その間に何度も天女は飛び跳ねていたが、掃除が終わると素直に鶏小屋に戻った。
そしてついにその日が来た。まだまだ衣は完全ではないものの、天女はふわりと宙に浮き、そのままどこまでも昇っていく。
かかあは天に昇る天女を眺めつつ、箒を手に持ち、はあ、とため息をついた。