White cords
-White cords-
Ⅰ
貴族とは。
吸血鬼の中でも特に血統に優れ、社会に対する貢献度が高く、その血が貴いと認められた一族のことである。
かつて広大な領土を一人で支配したという絶対的な王、そういった頂点の存在を欠く現在の社会においては、王政時代に領地として分割した土地を独自に支配する存在が必要不可欠であり、それを任されている貴族には、領土の境界を争う以外の全てに関する手腕が求められる。
より高位の存在がいない現在の貴族を上から縛る法はないため、可否の全てが彼らの誇りに委ねられており、その言動に気品や美学が伴わない貴族は周囲の貴族の反感を買いじわじわと衰退させられる。
そうなればいずれ領地も切り分けられるし奪われるし、血族が継承してきたあらゆるものが失われる。
無理に他人の物を奪おうとするのは下品だとしても、悪辣な支配者から領地を取り上げるのは正義だ。正当な理由さえ見繕えれば、誰もが喜んでやるだろう。
そうして滅ぼされるのを防ぐためには、他家につけ入られないよう、曖昧な尺度の中でも上手く立ち回り、敵を作らず、仮に作っても確実に潰して禍根が残らないよう完璧に始末する必要がある。
しかしそれは当然、容易なことではない。
いずれ来るそういった権謀術数が必要になる日のために、貴族の振る舞い、貴族としての闘い方を学ぶための小さな社会、その役割を果たすのがこの学園という施設だ。
「何の騒ぎだ?」
「見て参ります」
「いや、どうせ愚か者が馬鹿をやったのだろう。捨て置け」
「かしこまりました」
授業が終わり、寮へと戻る道すがら、窓の外を見て騒ぐ人だかりのそばを通り過ぎる。
通り過ぎざまに人だかりの面子を確認すると、輪の中心には忌々しい転化者のセシャンがいた。
確かに大真祖と同じ髪の色と瞳の色は美しく高貴に見えるだろうが、所詮は転化者だというのに、そんなものを褒めそやして取り巻くなんてお里が知れるというもの。
大都市には何人もいる。今この学園ではセシャン一人だが、そこまで珍重するべきものではない。
「ヴィリアム様、セシャンが頭を下げておりました」
「言葉を尽くさぬ失礼程度、下賤においては珍しいことでもないのだろう。この私が目くじらを立てるべき相手でもあるまい」
「左様でございますか」
「転化者なんぞにかかずりあってどうする。私はアウリーン家の次代当主だぞ」
ヴィリアム・アウリーン。北方の大貴族・氷白のアウリーン公爵、その第一子。
由緒正しき、戦前から続く真祖の血脈。純血の貴公子。父も祖父もそうだった、薄氷のような白い髪、オーロラのようにゆらゆらと青や紫に彩りが揺らめく瞳、処女雪のごとく美しい肌……セシャンさえいなければ見目の麗しさにおいて他に語るべき人物はいない筈だ。
それどころか学問は勿論、魔法、呪術においても同世代の若者の中では抜きん出ており、加えて音楽の才能も豊かに湛えている。
本来、誰かを妬んだりする必要のない、完全無欠を体現したような存在。
「それでもまぁ、私とて、頭を下げるだけでなく向こうから挨拶をしてくるというのであれば、それを無碍にしようとは言わない」
「……」
「おい、見下ろすなッ! ノア、貴様不満があるなら口で言え!」
「いえ。無遠慮に見つめてしまい、大変失礼いたしました。申し訳ございません。不満など滅相もございません」
「不便さえなければ、貴様を一生車椅子に縛り付けるものを……! 従者の分際でッ! 貴様……ッ」
ヴィリアムは従者の三つ編みに編んだ髪を掴んで引っ張り、床に膝をつかせて頭を下げさせた。
ヴィリアムを素直に完全無欠と評することが出来ない一番の理由がこれだ。
幼いうちに肉体の老化が止まってしまい、それを気に病み、機嫌が悪い時に上から見下されると癇癪を起こす。
吸血鬼は一生に一度、肉体の老化が止まる。
その時期は大幅な個体差があり、ある程度は遺伝の影響も見受けられるが不確かな部分も多い。
アウリーン家は代々比較的若い姿をしていたが、その中でもヴィリアムは特に老化が止まるのが早かった。
次代当主であるにも関わらず、生殖能力を得る前に老化が止まってしまっていたのだ。
再び老化が始まると、その進みは穏やかではあるが二度と止まることはない。
子を設けることが出来る期間の短さ故に、長男でも幼いまま成長が止まった者には当主の座を譲らない、というケースも少なくない。
ヴィリアムは現時点では未だ次期当主の座を奪われていないが、生殖能力を持つ弟がいることで、心中穏やかになれる時がなかった。
その従者であるノアも、主人と同じ焦燥を感じているのか、ヴィリアムに対し年々厳しく接するようになっている。
「あっ! うっ……うぐっ! ……痛ッ……ノアッ!」
「何でございましょう? ヴィリアム様」
「痛い!」
「はい。痛めつけさせて頂いておりますので。わたくしの目から見ても大変痛ましく、胸が痛みます」
怒りに任せて講義を無断欠席し、寮棟の最上階にある自分の部屋に戻ったヴィリアムは、従者であるノアにいきなり頬を張られ、吸血鬼の膂力にも耐える硬化縄で縛り上げられ、馬鞭で折檻されていた。
「うっ! ぐぁっ……ノア! やめろ!」
「わたくしも、愛しい坊ちゃまを痛めつける役目など、当主様に命じられていなければ、とてもお引き受けしようとは。お許しください」
「ぐっ、……んぁっ! その、……坊ちゃまというのをやめろ、不快だ!」
「いいえ。あなたはいつまでも。いつか当主になられるその日まで、アウリーン家の坊ちゃまでございます。その日までわたくしノア、誠心誠意教育させて頂きます。恨まれようと、憎まれようと、それがわたくしの使命……」
「いだっ……あっ、ぅんッ、ひぐっ、やっ! ひンっ!」
何度も何度もしたたかに鞭を叩きつけられ、雪をかぶった氷のようだった肌には真っ赤なクレバスが幾筋も走り血が滴った。
吸血鬼の膂力で振り回され、耐えかねた馬鞭がへし折れるとヴィリアムがすすり泣く声だけが部屋に響く。
「坊ちゃま、そろそろお認めください。転化者と言えど、格下の家の者と言えど、無碍に扱い、無闇に敵を作るような振る舞いをなさってはならないのです。アウリーン家の誇りを汚してはなりません。過ちをお認めになって、悔いてください。いい子ですから、ね?」
「うぐっ、ひぐっ、だれ、が……あんな転化者、なんかに……っ、うグォっ、ゲホッ」
「……鞭が壊れてしまっては、こうするしかありませんから。お許しを。ほら、早く」
ノアに腹を蹴られ、床に転がって無様にむせ、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ヴィリアムは小さく「ごめんなさい」と泣いた。
「相手が転化者と言えど、安易に侮蔑の眼を向けては最高位の貴族のふるまいとは言えません。万が一にも弱い犬程よく吠える等と陰口を叩かれては、わたくし、教育役として当主様に面目が立たないのです」
「ごめんなさい……」
「あぁ坊ちゃま。おわかり頂けてわたくし、嬉しゅうございます。ご褒美にもっと淫靡に縛り直して叩いて差し上げますので、お顔を上げてください」
顔を上げたヴィリアムのオーロラの瞳は、恐怖と悦楽に揺れ、とろけたように涙で濡れていた。
Ⅱ
吸血鬼という種族。その名の通り、強力な魔法、優れた身体性能を持つ鬼と近似の種族であり、鬼と違う点は角を持たないこと、そして食事として吸血をすること。
必要な摂取量、代謝のペースは個人差があり、毎日欠かさず成人二人分の血液が必要な者もいれば、三日に一度グラス一杯程度でも飢餓感を感じない者もいる。
学園は生徒の食事のために、常に血液と人間を買って提供している。
税として納められる血液の供給以外にも、金に困った人間が売る血液や子供、犯罪に対する懲罰としての採血、死刑としての搾血刑、吸血刑など、血液の確保には様々なルートがある。
集められた血液は凝固を防ぐ処理をした液状パック詰めや、水や酒などの液体に溶かして飲むタブレット状のものなど様々な形状で流通しているが、それらは当然味に関して当たりとハズレの差が激しく、またハズレが多い。そしてパッケージから中身を察することが出来ないという欠点もある。
そういった保存の効く商品を利用している多くは軍人、それから使用人、奴隷として飼われている屍鬼たちだ。
貴族の子息が集まる学園では「その日必要な分をその日絞る」という形での提供の需要が一番大きい。
二十四時。日付が変わる時刻から、一時間は講義がない休み時間となる。
食堂で食事を楽しむ者もいれば、本当に新鮮な血液しか口にしないので餐血室(人間の体から直接吸血するための個室がある)へ赴く者もいる。
ヴィリアムは餐血室の人間の質が大して良くないのを知っているので、その日搾った血液を食堂でグラスで味わうのが日課だ。
「今日は味が悪い。一体どんな素行の者を買ったんだ。こんなものを我々貴族に飲ませて。担当者が新人に変わったか何かしたのか」
露骨に顔を顰めて悪態をつきながら、ヴィリアムは従者であるノアの表情を窺う。
ノアはヴィリアムより十七歳年上だが、代々アウリーン家の従者を務める血筋で、貴族同様の振る舞いが出来るよう教育を受けて育っているが厳密には貴族ではない。
家名すらない彼らを、本来学園は受け入れない。
しかしアウリーン家の所有物であるから、という理由で「持ち込み」を許可されている。
そんな身分だ。
食事もアウリーン家が用意している使用人用のタブレットで摂っている。生の血液など口にしたことがない。
そのノアの表情を、ヴィリアムはグラス越しにこっそりと窺うのだ。
わかりやすく気にしては主人としての面目が立たない。
だが、ヴィリアムは気にせずにはいられない。
ノアはそれを知ってか知らずか、表面上は一切変化を見せなかった。
「訊いて参りましょうか」
「いい」
しかしヴィリアムとて、九十年ほど側に侍らせているのでノアのポーカーフェイスの下がすっかり透けて見えるようになっている。
従順なようで無礼。
ヴィリアムを敬うべき存在と思ったことなどないのではなかろうか。
そういった本心を隠す意図があるのか、常からまるで心無き機械のように振る舞うノアだが、その表情の下で少し苛ついたのをヴィリアムは見逃さなかった。
「左様でございますか」
「あぁ。事情を知ったところでこれが口に合わないことに変わりはないからな」
「その通りでございます」
やはり苛立っている。
他の者にはわからないかもしれないが、声音に僅かだが怒気が含まれている。
子供のような駄々をこね、相手を怒らせてみて、それで何が得られるかと言うと折檻だけだ。
従者の身でありながら、人の目がなければ幼い姿をした主人を容赦なく殴る、そんなノアの本性を思い知るだけ。
ヴィリアムが得をすることは一つもない。
「つまらん」
「左様でございますか」
誤解があろうとなかろうと敢えて補足もしないが、己がつまらなくて辟易した。
自らの言動が稚拙で理不尽なのは、重々承知している。
何がしたいのか、と心底疑問に思われていることだろう。
それか、呆れられている。
だがもう、ヴィリアムは他の大胆な方策でノアを試すようなことが出来る程無邪気ではないのだ。
そうかと言って、搦め手を使ってノアを言いなりにすればいいかと言えばそれも違う。
自分で何もかも責任がとれる程大人でもないし、おそらく虚しさに襲われることになるだろう。
未熟な身体は再び老化が始まる数百年後か、下手をすると千年先まで子孫を残す能力を持たないままだし、そんな身体では中途半端に学園を出て家に戻ったところで大人扱いはされない。
子供のような甘えが許されるわけでもないのに、だ。
そうして満たされない心に突き動かされるまま試し行動のようなことを延々何十年も続けたとしても、何らかの感情が証明されることがないどころか、拒絶すら決してされないのを十分承知している。承知していてもやめられない。
自分でも何故やめられないのかわからない。
愚かにも惨めな思いばかりして、一体何がしたいのか。
そんなことばかりを惨めたらしくくよくよ考えて、ノアに何を要求したいのか自分でもわからないまま。
「今日はもう興が乗らない。この後の講義は受けずに部屋に戻る」
「承知いたしました」
恭しく頭を垂れる、従順なヴィリアムの所有物。
部屋に戻って二人きりになれば、彼はヴィリアムを容赦なく叱責し、折檻し、尤もらしく「あなたには立派な当主になって頂きたい」「心配で」「愛あればこそ」「本当はこんなことはしたくないのですが」と嘘八百並べ立てて――いや、本当はこんなことをしたくないのは、うんざりして、という意味では本心かもしれないが――またヴィリアムを絶望させるのだ。
「ひぐっ! うぅ……」
「坊ちゃま……わたくしは悲しゅうございます。坊ちゃまは先日、涙を流されて、もう二度と饗された血液について、下品に語られることはしないとおっしゃったのですよ。わたくしもそのお言葉を信じて矛を収めました。それなのに」
空気を切る音がした。
吸血鬼の膂力をもって振りかぶられた革帯は、白銀の肌を易々と割り裂き、真っ赤な飛沫を伴って宙を舞う。
「何故なのです? 何故嘘など申されるのでしょう。わたくしめのような卑賤相手には誠実である必要がないとお考えなのでしょうか」
「っく……、う、ぐうぅ」
痛みと血液が流れる感触に耐えるのに歯を食いしばったヴィリアムは口をきくどころではない。
仮に喋れたとして、自らそう問いその答えに長年窮しているヴィリアムはその問いに答えることも出来ない。
――何故だって? 答えられたら苦労はない――
悪態をつきたくても、まるで死にかけた犬が唸るような声を漏らしながら耐えるしかない。
耐えていればいずれ終わる。
謝って、ノアが納得してこの行為が終われば、何食わぬ顔で日常に戻るのだ。
どれだけ痛い思いをしても、傷痕一つ残らない。
何もかもすぐに元通りだ。
しかし、今日に限ってノアは、今までヴィリアムが聞いたこともないことを語りだした。
「えぇ、坊ちゃまが大層恥じらわれ、答えられぬということくらい、わたくしにもわかります。燻される食肉のように縛られ、家畜のように鞭打たれることで……未だ熟さぬ清らかなお身体を穢し慰めるご嗜好がおありなのは。えぇ、そういったご嗜好まで、わたくしは責めようとは申しておりません、坊ちゃまの飢え、苦しみを否定することなど、誰に許されましょう」
「っ、ノ、ノア……、ちがっ、ぐアッ!」
否定しようとして口走るのを遮るように革帯が振り下ろされ、ヴィリアムは舌を噛んだ。
舌に牙が刺さって穴が開き、あまりの痛みに涙がこぼれ、噎せ、惨めたらしく血をぼたぼたと吐きながら、ノアを見上げる。
「ただ、ひどい折檻がご所望とは言え、看過出来ない下品な言動はせめて人前ではお慎みくださいませ。坊ちゃまが下品で未熟な人物だと思われるのは、このノア、とても耐え難いのです。アウリーン家の家名に泥を塗ることにもなります。どうか、せめてわたくしめと二人きりの時になさいますよう」
ノアは本気でそんなことを言っているのだろうか。
痛みや屈辱を受けて涙する幼い姿の主が、この行為に欲情すると。
「わたくしとしても大変心が痛みますが、坊ちゃまがお望みであれば致し方ありません。あなたがお生まれになった時、わたくしはひと目で全てを得、決心したのです。全てを叶え、与える。そのためにのみ生きると」
「ッぐ、ぅっ、あっ! ひっ、いだっ、いっ、いだぃぃ」
革帯が振り回され、部屋のあちこちにヴィリアムの血がはね飛ぶ。
痛みで血の色に染まった思考はその苦痛から逃れるべく、次第に「確かに、この感覚に依存していると言えばそうなのかもしれない」と行為と痛みを受け入れていき、楽になりたい一心で声を漏らして泣くのを躊躇わなくなっていく。
するとその思考を察したか、何も言わずノアがヴィリアムの腹を蹴った。
内臓に与えられた衝撃は生半可なものではなく、目の前がチカチカする。
「うぐっ、けほっ、ごっ、ごめ、なさっ、ごめんなさいぃっ、ゆる、してっ、ごめんなさいぃ」
「そうおっしゃって、坊ちゃまはその言葉を違えたのですよ。それほどまでに蹴って欲しいのですか? 一体どれだけ、従者の靴で汚されたいのですか」
内臓が今にも破裂すると悲鳴を上げる程靴がめりこんで、ヴィリアムは喘ぎながら噎せながら、口からも鼻からも止めどなく血を垂れ流し、部屋中が血の匂いで満ちていく。
もうどうにでもなれ、このまま死んでも構わない、と諦めに支配され、自分が上げる声すら他人事に聞こえ始めた。
「うっ、アッ!! ぐ、あ、ヒッ、んゲェッ!!」
それでも無意識に腹を庇って丸まっていた身体が、つま先で安易に暴かれて腹を踏まれた。
その時見開いた目に偶然映った従者の顔は、今まで見たことがないくらいギラついた残虐な表情で、それを見たヴィリアムは何故か少し幸福を感じた。
そのために殴る蹴るを許しているのだとしたら、かなり割に合わない程ささやかな幸福を。
――それを最後に意識が途絶えた。
目が覚める時には部屋には血の跡も匂いも全く残っていないだろうし、ヴィリアムの身体にも、痛みや傷跡などは残っていない。
いつものことだ。いつもノアが全て片付け、何事もなかったかのように、従順な従者のフリをして側に控えている。
きっと今宵もそうだろう。
だからヴィリアムも、いつも己の心の内に見え隠れした様々なものを全て見なかったことにして寝台から身体を起こすのだ。
それ以外の振る舞いをノアは求めていないのだろうから。
Ⅲ
――我ながら、鋼の心の持ち主だと思う。
主人の身体を縛った金属を織り込んだ綱を解き、ずたずたに裂け血液で汚れた衣服を剥がし、肌を清め、新しい寝間着を着せて寝台に寝かせ。
窓を開けて魔法を使い、充満した匂いを散らしながら調度品や敷物の汚れを落として、それから己も着替えて身を清めた。
愛しき主人の血の残り香に、気が触れそうになりそうになりながら。
正直、あまり美味しそうな匂いではない。
幼い見た目に反して正直でも純粋でもない心の内から滴る蜜が甘いわけがない。
しかし必ずしも吸血は食欲のみで行われるものではない。
それ故、ノアは美しくあどけない寝顔を眺めながら、何千何万と繰り返した煩悶としばらく闘う羽目になる。
血の香りが薄くなり、昂った心と体の熱が収まるまで、ただじっと待つ。
その場を離れられればどんなに楽だろう。
だが主人の所有物としてここに存在している以上、勝手にそばを離れることは許されない。
「お目覚めでございますか」
「あぁ……」
少年とも少女ともつかない高さで疲労をにじませた声は、そのアンバランスさが妖しく、淫靡にすら感じる。
「何か飲まれますか?」
「喉が渇いた。血が欲しい」
腹を踏んだ時に、かなり内臓を潰してしまったらしい。眠って自然治癒するのにかなり魔力を使ったようだった。
ベッドから身体を起こす気配がないのは、それだけ疲労と倦怠感が濃いからなのだろう。
「こちらでお召し上がりになりますか?」
「あの不味い血をか」
内容はいつもの悪態だが、怒気の濃度が高かった。
「では、餐血室に行かれますか」
「何時だと思っているんだ? それに行ったところで動けない。どこぞの誰かが腹を蹴るから貧血でクラクラする」
まだ夜明け前であれば抱きかかえて餐血室に行ってもいいが、夜が明けてしまっている今は、ノアはともかく全く日光を受け付けないヴィリアムを遮光布でぐるぐる巻きにしなくてはならない。
決してそんな風体になるのをよしとする主ではない。
ノアとしてもそんな見苦しい手段は取るべきではないと考える。
万が一誰かに見られた場合、何を勘ぐられるかわかったものではない。
「……わたくしの血をお召し上がり頂くという選択肢もございますが、味の保証は致しかねます」
「そうだな。今日搾られた血の方がいくらかマシだろう。お前の人生に夢や希望なんぞがあるわけがないし、お前は……。……正直でもなければ、誇りもない」
ノアは何十年もヴィリアムに「おまえには何もない」と言われ続けていた。
他でもない主の発言なので言葉で否定はしない。
だがノアには夢も希望もある。
ヴィリアムの人生を支え、苦楽を共にし、命絶えるその時までアウリーン家の栄光を見守ること。
たとえ感謝されずとも、認められずとも。ヴィリアムの生涯が輝かしいものでありさえすればノアは幸福だ。
それ以前にまず、ヴィリアムが生まれたこと、仕えられることが喜びなのだ。それは決して揺るぎない事実。
たとえ、ヴィリアムがそれを理解することが一遍たりともなかったとしても。
ノアはヴィリアムの従者であれる限り、夢にも希望にも満ち足りている。
「申し訳ございません。誓ってわたくし、不義理も卑怯も可能な限り遠ざけて参りましたが、坊ちゃまにそのような評価を頂いてしまうようでは、全く配慮が至らなかったと言わざるを得ません。今後はそのようなことがないよう」
「全くだ、おまえの言動はいちいち主を不快にさせる。口ではそれらしいことを並べ立て、私を何よりも尊く思うだとか、何かにつけて私のためだとか、好き勝手に言うが、私はおまえの言動にそういった情を感じない。あれでおべんちゃらのつもりか? あの程度の甘言ならば私には必要ない。大体、何をするにしても“仕事だから”で良いじゃないか? 私は子供ではないからおまえに情がなくとも気にしない。だと言うのに、わざわざ私を不快にしてまで不要な嘘をつく魂胆は一体なんなんだ」
会話の相手の言葉を遮るようなことは、いくらヴィリアムが怒っていると言っても珍しいことだった。
そんな余裕の無さを相手に見せないよう、ノアは厳しく教育してきたのだ。
「そのようなことをお感じになられていたのですか」
「どうせおまえは私の人格や感情に興味が無いのだろうから、と思って今まで控えていたが……。わからなかったとは言わせないぞノア。何十年側に仕えている?」
「誓ってそのようなことは決してありません、坊ちゃま」
「ふん。まぁいい……どうせ態度を改めはしないのだろうからな。それより今は。私は動けない程喉が渇いたと言っているだろうが」
ベッドに横たわったままヴィリアムが横柄に胸元を叩いて「ここに」と言っている。
彼が生まれてからずっと仕えてきて、初めてそんなことを言われた。
驚きはあるが、それが不適切でないと判断される命令である限り、ノアは従う。
性交に近い行為であるが、仮に性交であってもただの持ち物であるノアに拒否する道理はない。
結婚や子作りに支障が出ない範囲であれば受け入れるべきだ、と判断する。
むせ返る程の主の血の匂いに欲情しまいと耐える日々を幾星霜重ねたことだろう。
そのことに対する良き報いなのか、悪しき報いなのか、判断がつかない。
そんなことを考えながら「かしこまりました」と襟を開き、首筋を晒しながら主の寝台にのしかかる。
押し倒すような、極めて不遜な体勢――
「そういうところだ、ノア」
ヴィリアムに耳元で囁かれる。その刹那、思い切り頬を張られた。
「申し訳、ございません」
咄嗟に床に跪き頭を下げる。
ヴィリアムはそれ以後何も言わずに寝具に潜り込んだようだった。
今までと同じように、睡眠で体力が回復するまで待つのだろう。
致命的に誤ったと自覚した。
しかし、寝息が聞こえてくるまで床に頭をつけて考えていたが、何が正解だったのかは全くわからなかった。
彼は幼い頃からそうだったわけではなかった。
従者でしかないノアを兄のように慕い、全ての愛情を素直に受け入れて、さぞやその血は甘かろう、否、そんな劣情すら催させない、他者の悪意を一切寄せ付けない程、完璧なる無垢で無邪気な少年時代があった。
姿はその頃から一切変わっていない。
性根も関係性も歪みきってしまったが。
劣等感に蝕まれ、他者に容易に牙を剥くような稚拙さを育てて不満の多い大人になってしまった。
姿が幼い子供のまま大人になったとしても、決して全ての吸血鬼がそうなるわけではない。
彼には、ヴィリアムには、そうなってしまった特段の理由があるのかも知れない。
いや、あるの、だろう。
頭脳も美しさも魔法の腕前も芸術のセンスも、家柄、血筋、何一つとして劣った点などいないのに、彼が劣等感に心を蝕まれる理由など、常に側にいるノアでさえ想像することすら出来ないが。
「今日も下品な取り巻きに囲まれて、それを追い払いもしない。愚かなものだ」
「……」
アルセール・セシャンを特に毛嫌いしているのは、美しさにおいて劣っていると感じているからなのであろうか。
転化者風情が、と思うのであればそんなものに視線を奪われたりしないで欲しいものであるし、ノアはヴィリアムの方がより高貴で美しいと思っている。
そもそも、あの男に取り巻きがいるのは――
「いつか血を奪おう、操を奪おう、と狙われているだけだというのに、そうと知らずにいい気になっているんだろう。それとも、知った上で侍らせているのか? どちらにせよ人間の感性はおぞましい程に卑俗だな」
そこまで彼が大した器ではないとわかっていて、尚陰口を叩くのは一体何故なのか。
ノアに折檻されたいという下心だけでは、そこまでセシャン一人に固執する理由にはならない。
では、何故なのか。
「ヴィリアム様、講義に遅れます。参りましょう」
「……あぁ」
取り巻きの一人がこちらに気付いて笑みを浮かべたので、ノアはその場から離れるよう、ヴィリアムを促した。
あのような、下品で卑劣な視線をヴィリアムに向けさせてたまるものか。
ヴィリアム・アウリーンを手に入れたいなどという妄想、そう、たとえただの妄想であろうと、心に持つことは決して許されはしないのだ。
もし何らかの勘違いがあってヴィリアムがセシャンに嫉妬し、そんな汚濁したものを欲しがっているのだとしたら、ヴィリアムにも教育が必要である。
治療のために丸一日眠って過ごしたばかりではあるが、必要である限り、欲される限り、折檻は避けられない。
可哀想だのなんだのと、私情を挟んではならない。
そこに私情を挟んでしまえば、全てが水の泡だ。
当のヴィリアムに無いと罵られた、ノアの誇りが失われてしまう。
無責任に甘やかし褒めそやすばかりでは、セシャンの取り巻きと変わらぬ誹りを免れない。
Ⅳ
一つ講義が終わり、講義棟内を移動している間に、運が悪いことにセシャンの噂を耳にした。
ダリエンツォという田舎侯爵が一向に靡かないセシャンに痺れを切らしてセシャンの部屋に乗り込み、それを阻みセシャンを守るためにセシャンよりも更に程度の低い転化者のソロワロットなる若造がドアと窓を破ったとか。
それを聞いたヴィリアムは目に見えて冷静でなかった。
「ソロワロットというのは蛮族なのか?」
「伯爵家ですが、まだ五代目という若い血統で、あまり社交界でもその名前を聞かない家です」
「それがよくもまぁ、ダリエンツォに楯突いたものだな」
己の美しさをひけらかすように笑みを振りまき、盾になる格上の者を周りに集め、いざ危険が降りかかれば立場の弱い転化者にまで無謀極まる救出を強行させる程、周囲の心を惑わし掌握するセシャンへの強い嫉妬。
それが言葉の端々に呪詛のように込められている。
もう一言二言、罵詈雑言を吐くかと思ったが、ヴィリアムはそれ以上言葉を発さなかった。
癇癪を起こす余裕もないくらい、怒り狂っているのか。
「ヴィリアム様?」
噂を耳にしてから立ち尽くしていた主に声をかけると、思いの外すんなりと、主は歩き始めた。
「……行くぞ、今日は全ての講義に出る」
「は。では参りましょう」
日頃のヴィリアムを思えばあり得ないほど冷めた態度に驚いたが、ノアは当然、なんでもないような態度をとった。
だが内心では、ヴィリアムの心の中で一体何が起きているのか理解出来ていないことに、生まれて初めての強い焦燥を感じていた。
ヴィリアムは生後十年を過ぎた頃、成長が止まった。
その頃生まれた弟のエーヴェルトには、十八歳の時に身長を追い抜かれた。
エーヴェルトは二十五歳になる頃には大人と言って差し支えないくらいの外見になった。
生殖能力を獲得する前に成長が止まったヴィリアムは、自分より先に跡継ぎを設けるであろう弟に狂ったように嫉妬するようになり、見かねた父親によって学園に入れられたのだ。
(かつての坊ちゃまは何もかも見た通りの御方だった。清らかで、繊細で、悪も汚れも知らぬ素直で無邪気な魂。それが嫉妬に苦しみ、変わられてしまってからも、良くも悪くも感情を抑えられないからなのだと思い込んでいた)
そうであったなら、あの場面は激昂して然るべきだった。
だが、そうではなかった。
側仕えとして、考えうる限り最悪の思い違いをしていた。
いつから思考を怠っていたのだろう。
大半の理不尽な我儘が未熟さ故でないということはわかっていたが――折檻を望むが故であろう――一部はそれだけでなく、他者に対する悋気が強いところにも由来しているとノアは判断していた。
その狂おしい感情を幼い身の内には収めておけず、全て外に発散してしまうのだと。
しかし実際は、本人の意志でそういう態度を取るかどうか十分選択出来るのだ。
(では何故、坊ちゃまは)
敢えて幼子のような駄々を捏ねる理由がわからない。
恐怖さえ覚える。
ずっと見つめてきたというのに、姿は全く変わらないのと裏腹に、内側が想像もつかないほど変容していた。
ヴィリアムが授業を受けているのを良いことに、ノアはひたすら教室の外から主の姿を見つめ、ぐるぐると考えを巡らせていた。
どこでその変化の発端を見落としたのだろう。
最愛の主人だというのに。
ヴィリアムがノアを「情を感じない口先だけの不誠実な従者」と評すのも、無理もないのかも知れない。
敬愛するあまり、盲信するあまり、自ら描いた幻想を見てしまっていたのか。
(だとしたら、どうしたらこの過ちを償えるだろうか。傷をつけてしまったのは主の心、そして信頼という、最も修復の難しいものばかり……)
何をしても、ノアにヴィリアムの真意が見えていなければ、慌てて取り繕っただけだときっと見透かされる。
そんなことをしたら傷は深まるだけだ。
(感謝されなくても、理解されなくても良い。だが、こちらの過ちが原因で、従者として側におくことを苦痛に思っているのを放置するなど、ありえない)
焦りそうになるのをじっとこらえ、見落とした真実を見出さなくてはならない。
そして見出した真実と向き合い、誠意を見せられれば。
挽回出来るかも知れない。
ヴィリアムの幼い身体、その胸の内には未だかつてないほどの苦しみが満ちていた。
目を逸らそうにも視界に必ず入ってくる強大な苦しみが己を見つめよと迫ってきた。
だが、そのお蔭で自身が何に飢え、何を確かめたいのか、何を欲してもがいていたのかがわかった。
ついでに自分の愚かさ、未熟さも痛い程思い知ったが、そんなのは気付いた時点で勝ちだ。改善すればいい。
(そう、改善)
欲しかったのは、愛。確かめたかったのは忠誠。
承認に飢え、精神がさながら栄養失調だった。
まともに育つわけがない。
だが、そんな惨めな人生はもう終わりだ。
(セシャンが優れているとは、今も思わない。だが、セシャンが釣り上げた転化者の若造は間違いなく逸材だ。私はセシャン程愚かでも脆弱でも低俗でもないから、窮地を救わせるなどという場面は起きない、必要ないと言えば必要ない。しかし、彼を羨んだ自分をようやく見つけ、認めることが出来たのは、屈辱だが僥倖と言わざるを得ない――)
身分に見合った忠実な従者が欲しい。
その手綱を握るに相応しい大人にならなくてはならない。
“教育係”との関係を繋ぎ止めるために無自覚に躾のなっていない子供を演じ、罰される茶番を続けるのは、もう終わりにしたい。手綱を握れていないことを隠すために人前でノアを叱ったり、ノアの注意を他人に奪われまいと必死になるような真似は、もう終わりにしたい。
否、しなくてはならない。
だが。
(その変化を、ノアは受け入れるだろうか? 否、ノアに捨てられるなどと恐れる必要はない、ノアの役目を変えるだけだ。私が子供でなくなっても……、そう、大人になろうが当主になろうがノアは一生仕えると言っている、それを……それを、信じればいいだけ)
兄のように育ったノア。幼い頃は事あるごとに抱き上げてくれた。そして抱きしめて頬にキスをして、可愛い、愛している、と言ってくれたのに。
いつしか優しく抱きしめてくれなくなったのは、ノアがそう教育されたからか、内心が幼くなくなったヴィリアムを抱きしめることに抵抗が出てきたからか。
姿が成長しないなら、せめて見た目に相応しくいつまでも純粋な子供でいたかった。
いつまでも、何も考えずに愛されていたかった。
そんなことは叶わないことくらい、わかっているが。
(ノア。お前は私を主として見ることが本当に出来るのか)
かつて兄のようにヴィリアムを愛していた男のことを考えると――そしてその男が何かにつけ馬鞭を振るい、一言命じれば吸血にも抵抗のない男であるのを確かめてしまった今では――ヴィリアムはノアのことを信じるのが難しくなっていた。
(それ以上に私は……在るべき在り方に、アウリーンの当主たる男に、なることが出来るのだろうか。……いや、ならねばならぬからこそ、私は今、ここにいる。弱音など許されるものか)
不安を捻り潰し、己を奮い立たせ、小さな体に成熟を誓ってノートのまっさらなページを閉じる。
辛うじて講義は終わったことには気付いたが、内容は全く耳に入ってきていなかった。
Ⅴ
講義が終わるや、ノアは待機を命じられた。
ヴィリアムが離れる目的がわからない待機など初めてのことだった。
待機する場所も期限も指定されず「用があれば呼ぶ」としか伝えられなかった。
明確な拒絶。そう、判断せざるを得なかった。
(罰としては手ぬるいくらいでしょうね。まずあって然るべき事態です。これ以上の悪化のないよう、慎重に……しかし待てと命じられているのに、待つこと以外になにかすべきだろうか……)
「あんた、こんなところで一人で何してるんだ?」
思考を遮って聞こえてきた声の主はあまりに意外な人物で、ノアは心底驚いたがそれと悟られないように努めて静かに声のした方に顔を向けた。
「待機を命じられております。お邪魔でしたのなら、申し訳ございませんでした。移動します」
全く嘘偽りなく丁重に返事をしたつもりだったが、声をかけてきたアンドレオッリ卿はひどく訝しげにノアを見つめてくるので立ち去るに立ち去れない。
一体どういう回答を想定していたのだろうか。
「珍しくないか? あんたいつもご主人様と一緒だろう」
「えぇ」
「……なんかやらかしたのか?」
猫のような緑色の目をしているが、勘も鋭いのだろうか。
図星だという顔をするのはみっともないと思うが、まさか顔に出ていやしないか。平静を保てているだろうか。
そんな詮無いことを考えながら「問に答えず問を重ねる無礼をお許し頂けるのであれば、何故その質問をされたのか、お教え頂けますか?」と問う。
「何故って……そうだな。私も今一人でいるわけだが、ウル……ディトイェンス卿と一緒にいない理由を考えろと言われたら、そういう勘ぐりをするやつがいるだろうと自覚しているからさ」
「普段共に行動している二人の片割れが単独鼓動をする理由として、片方が片方に拒絶されるようなことをしてしまった説が有力だから、という解釈でよろしいでしょうか」
「まぁ、そうだ。私は別に何もやらかして……いや、やらかしたと言えばやらかしたんだがね」
「……」
言われてみると、ほんの少し、極めてうっすらとであるが、独特な血の匂いがした。食堂では嗅いだことがない。
彼の話の流れから察するに、大方、同意の上で情を交わしたがやり過ぎたため相手が共に行動しかねる状況にある、といったところだろうか。
脱走、無断欠席、門限破りを始め、職員への暴言、生物学の研究、その他風紀を乱すような模範的でない言動の数々から不良と称されることが多い彼らであるが、ついに淫行、吸血にまで。
表沙汰にする者が少ないだけで決して珍しくはないが、品行方正とは言えない行動である。
一つ一つはちょっとした非行でも、それだけ数を重ねるとそろそろ退学勧告の手紙が実家に届いてもおかしくない。
ヴィリアムに関係のないことだから、ノアにも興味のないことではあるが。
「だからと言ってあんたがご主人様に失礼を働くとも考えにくいんだが、あんたがご主人様を遠退けるってのはもっとあり得ないだろう? 他に思いつかなくて」
「……恐縮を禁じ得ません。ご明察でございます」
「いつまで待つんだ?」
「期限は指定されておりません」
「……仮にご主人様が学園を去ったとしても?」
「……えぇ。新たなご指示を頂かない限りは」
そう回答すべきだと考えたからそう回答したが、ノアにも葛藤があった。
だからこそ、アンドレオッリ卿が哀れなものを、それこそ捨てられた犬でも見るような目でノアを見てきたのも致し方あるまい、と受け入れられた。
ノアとて、このまま置き去りにされるのではないかという不安は重々感じている。
「……あんた。……、私にはあんた達の事情はなにもわからないし、こんなこと言えた義理はないかもしれないが、あんたのその想い、ご主人様に伝えた方がいいと思うぞ。向こうもそれを待ってるかもしれないからだ。どうせ捨てられるなら、差し出がましいことを言うだけ言ってから決定的に捨てられた方がいい。……そう思わないか」
「……わたくしめは、待機を命じられておりますので」
「そうか」
アンドレオッリ卿は、今度はその回答を予想していたようで、諦めたようで両手の平を天に向ける仕草をして背を向けた。
「ですが。アンドレオッリ卿」
「なんだ?」
「ご忠告、痛み入ります。本来わたくしめは、貴方様のような貴き血筋の方々からお言葉を賜る立場ではございません。非礼をお詫びしますと共に、ご厚意に感謝し、必ずや報いますことを誓います」
ノアの言葉をどう捉えたのか、ただ手を上げて無言の返事をして、アンドレオッリ卿はその場を離れていった。
呆れられたかもしれないが、それも致し方あるまい。
(……想いを……伝える……)
アンドレオッリ卿に言われた言葉を丁寧に咀嚼しても行動を起こすに至る程の名案は思いつかなかった。
持ち物に過ぎない従者が主人に対し何か伝えねばならないような想いを抱くこと自体、許されることではない。
しかし、どうせ捨てられるのなら、と言ったアンドレオッリ卿の言葉も頭から離れなかった。
思考が堂々巡りをして、ノアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
ヴィリアムはかつてない緊張と不安を抱えたまま、己の決意に従ってノアに待機を命じた。
凡そ初めてと言っていい一人で歩く学園は、今までよりも広く感じた。
視界に長身のノアが入ってこない所為で、天井の高さも新鮮に感じる。
すれ違う者たちは変わらずアウリーン家に敬意を払った挨拶をしてくるが、皆「何故従者を連れていないのか」と訝っているのが隠れきっていなかった。
指摘してやれば青くなって相手に後味の悪い思いをさせることが出来るが、したところで何にもならない。
ノアが見ていないのにそんなことをしても、本当に何にもならない。
(ともかく。冷静になること)
ノアのことで冷静が保てないのだから、ノアをそばに置いてはいけないと思って待機を命じた。
彼がそばにいれば客観的に彼を見ることが出来ないし、彼の目を気にすると自分が自分でいられなくなる、そのくらい深く依存し、自律出来ない状態になってしまっていたのだと、離れて初めて気付くことが出来た。
ヴィリアムはもう子供ではないのだ。
きちんと一人分の輪郭を得て、親や保護者と癒着したような心の在り方は卒業しなくてはならない。
幸い長年過ごしたこの学園の中なら、一人でどうにもならないことなど一つもない。
行儀よく講義を受けて部屋に戻ればいい。他者との会話も、領地の話や婚姻の話が話題になることがないので大人の社交界ほど神経を使う必要がない。
暇を持て余したら久しぶりに楽器を触ればいい。
(……仮に上手くいかなかったとしても、ノアが見ていなければ小言を言われることも罰を与えられることもない)
――なら、そんなことをする意味があるのか?
脳裏をよぎる恐ろしい思考、それを必死に振り払い、ヴィリアムは一歩一歩前に進んでいく。
次の講義が行われる講堂はもうすぐそばだ。
講堂に入って適当な席について、適当に話を聞いて過ごせば――
あまりにも必死に無事に過ごすことを考えすぎて却って嫌な因果を引き寄せてしまったのだろうか。
廊下を向こうから歩いてくる二人組は、今ヴィリアムが最も会いたくない人物だった。
「ごきげんよう、アウリーン卿。先日はお見かけした際きちんとご挨拶出来ず、大変失礼致しました。非礼をお許しください」
金髪赤眼、麗しく気高き面差しのセシャン。
その腕が抱いているのは雑種犬のごとき転化者の腕。
これが件のソロワロットとかいう若造か。
「……構わん。誰も彼もからすれ違う度に丁重に声をかけられていては、移動が厄介だ」
「恐れ入ります」
そう言って浮かべられた笑みは、常人であればたちまち唇のつやに目を奪われ、美しい音色を響かせる弦楽器のような睫毛に耳を澄ませてしまいそうな、いっそ呪わしいまでの美しさだった。
元々かなり顔の整った男であるし、金糸のような髪と血の色の瞳はそれだけで魅力的に見える。
だが、それだけだ。そう思っていた。だというのに。
「なにかとても佳いことがあったと見える。少なくとも私は貴君のそのような笑顔を見たのは初めてだ」
「あぁ……えぇ。そうですね。あぁ、とても恥ずかしいところをお見せしてしまったようです。顔に出ていましたか」
「そうでなくとも、今日は貴君の噂で持ち切りではないか」
嫌味な声音にならないよう、慎重に発したつもりだったが、それまで黙っていたソロワロットがセシャンを庇うように「流石にゴシップを鵜呑みにするほど貴公は俗物ではないでしょうよ」と声を発してきた。
明らかな牽制の意思が見える。
姫君を守る騎士が剣の柄に手をかけたような。
悔しい。見せつけるな。そう歯噛みしそうになる自身を抑え込んで少し微笑んでみせた。
「貴君が、勇敢にも形振り構わず麗しの君を守ったのだと聞き及んでいるが、誤りだったか?」
「……そんな大層な話じゃないですよ。オレはただ、間に割り込んだだけだ」
「私が相手だからと謙遜する必要はない。正直、私は貴君らの話を聞いて羨ましくすら思ったのだ。私にはなんぞの時にそういう働きをすべき従者がいるが、残念ながらそのような勇ましい姿を見る機会がないからな」
本心だった。
本来人に語り聞かせる必要のないことだった。
まずこんなに長く立ち話など、したことがない。
今この学園にはアウリーン家に並び立ち何か語り合うべき家柄の同輩がいないからだ。
それなのに言葉にしてしまったのはきっと、傍らにノアがいないからだろう。見ないふりが出来ない強い妬みもある。そして、藁にもすがるような思いも。
「そりゃ、貴公程完璧でつけ入る隙がない方なら、駆けつけて守る必要なんかないでしょうがね」
言外に「可愛げの欠片もないお前に誰が興味を示すか」「誰もお前のことなんぞ欲しがらない」と罵倒されたのを痛いほど感じた。
それは別段ヴィリアムの被害妄想ではなかったらしく、すぐさまセシャンがフォローしてきた。
「ジュリア。僕が未熟で軽率だったからああいう事態を誘発したのは事実だよ、それにアウリーン卿は真実君の勇敢を讃えてくれていると思う。……申し訳ありません、アウリーン卿。私の身にあんなことがあったから、彼は今まだ気が立っているんです」
惨めで堪らない気持ちで胸がいっぱいになった。
だが、甘んじて受け入れる。
この惨めさはヴィリアム自身が積み重ねてきた、ヴィリアム自身が払うべきツケだということは承知していた。
「大切な麗しの君が危険な目に遭った後であれば、その態度も察して余りある。まして私との立場の差を考えれば緊張が起きるのは尚更と言えよう。ただ、勇猛も度がすぎたる場合はただの愚行であると心得ておきたまえ?」
「……」
ヴィリアムの負け惜しみじみた一言だったが、そうと知ってか知らずかソロワロットは不承不承警戒を解き、一歩下がって一礼してみせた。
真に蛮族というわけでもなく、最低限戦うべき相手か否か程度は正しく判断出来るようだ。
ますます羨ましい。
ノアは恐らく、ヴィリアムが少しでも失礼を受ければ相手が誰であれ決して引かずに噛み付いてしまう。
ヴィリアムに必要以上に他者の不興を買わないよう、些細な失言一つにも厳しく体罰を与えてくるのは、きっとそういうことなのだろう。
自身が教育しているヴィリアムの所為でアウリーン家の名に傷がつくのを許せないのだ。
だが、ヴィリアムはそのような忠義は決して望まない。
人を噛んだ家畜は処分されるからだ。
それだったら率先して自分が威嚇して周囲を萎縮させ、孤立している方がいくらかマシだ。
手綱を微塵も握れていない未熟さ、真の意味では顧みてもらえていないという事実が心に膿を溜めていくが。
ノアを失いたくない。
「ところで、アウリーン卿はどちらへ?」
別れる前に剣呑な雰囲気を振り払おうとしたのか、セシャンが話題を変えようとしてきたので、ヴィリアムの沈鬱な考え事のループが断ち切れた。
「刑法学の講義だが?」
「そうでしたか」
「……意外か?」
「いえ、そんなことは。ただ、お供の方がご一緒でないので、何か特段の御用がおありなのかと勝手に考えてしまっていたので」
「……一人で考えたいことがあって、そのために待機を命じているだけだ」
「! それは失礼しました。お声掛けしてご迷惑を」
全くそうだ、特に今はお前なんぞと会話したくなかった、今私がどれだけ惨めさを思い知らされていると思って、と毒づきたくなるが、それもみっともない八つ当たりだと己を制し「いや」と謝罪を遮った。
「貴君らの話を聞いて、一体どうしたら、貴君らのような傍目から見ても好ましい関係を築けるのか、と興味があったから私も応じた。本当に話しかけて欲しくなくばそう言う。私には無理をして他人に付き合わねばならない理由はないからな」
「そんな、どうしたら、なんて私には……」
答えに困るセシャンを見て、ソロワロットが助け舟を出そうとまたしても口を開いた。
「そりゃ、オレが真っ当にアルセールに惚れてるからですよ。惚れたら相手のために無茶もするし、どれだけ好いてるかわからせるために尽くしもするでしょう」
あまりになんの衒いもなくストレートに言うものだから、ヴィリアムは殴られたような気になって目眩すら感じた。
そうだ。
そこに愛があるから。
そうだろうとも。
ヴィリアムがいくらそれを妬んでも羨んでも、そこに愛がなければ、歪なものが出来上がるだけなのだ。
縛られ、鞭打たれることを望み、喜ばなければそこに在り続けられないような。
「しかし貴公が今更他人に尋ねることなのか疑問ですね。あんなに忠実な従者を連れておいて」
「ノアはそのために生まれ、育てられている。貴君のように、心の有り様で動くわけではない」
もう今更だ、と包み隠さずありのままに答えた。
情けない話だが、ヴィリアムがノアになにか影響を及ぼすことなど出来ないのだ。
アウリーン家に尽くすために生まれ、そのように育てられている所有物。たまたま年齢の頃がちょうどよかったからヴィリアム付きになっただけで、彼は決してヴィリアムのものではない。
しかし、それだけのことに、セシャンもソロワロットも、恐ろしいものを見るような表情を見せた。
従者をつけることもないような下級貴族には、理解出来ない感覚なのだろうか。
ヴィリアムとて、理解したくなどない。
だが、ノアはそういった存在でしかないのだ。
どれだけ家族のように愛することを望んでも、そんな過去はもう戻らないし、使命ではなくヴィリアムのために尽くして欲しいと願っても、そんな甘えは許されないだろう。
「……いや、あぁ……なるほど、その視点からでは彼の顔が見えないのか」
独り言のように呟かれたソロワロットの言葉だったが、ヴィリアムの体の小ささが原因でノアのことを理解していないという指摘は鋭く脳に突き刺さった。瞬間的に頭に血が上ったヴィリアムは我を忘れて大きな声を出す。
「なっ……、私を愚弄するつもりか!?」
「あっ、いや、そんなんじゃ……! ただ……彼のあの凄まじい表情に貴公が気付いていないとしたら、理由は彼に対する貴公の立……」
「要は私が矮躯ゆえにノアの顔を見上げても見えない、私が幼いが故に、表情から感情を察することが出来ないと、そう言いたいのだろう!? 見えているわ、戯けが!」
ノアの表情は、常に窺っているのだから。
ノアの心持ちがわからないのは、ひとえにヴィリアム自身の未熟が原因だ。そんなこと。わかっている。
わかっているのだ。
「ジュリア、君が非礼をお詫びすべきだ! アウリーン卿、どうか、どうかお許しください。彼には理解が及ばなかっただけなのです。私はそうは思いません! 貴方様に原因があるとは、私には到底思えません!」
セシャンが床に膝をついて頭を下げるが、ヴィリアムの怒りは到底収まらない。
セシャンに腹を立てているわけではないからだ。
ソロワロットが頭を下げたとしても同じこと。
「黙れ、黙れぇ! そのような言葉で取り繕おうなど、易く見られたものだな!」
「申し訳ございませんアウリーン卿! ですが、あぁ、どうかお聞き入れください! 私がもし、従者の立場であったなら……貴方様のような穢れなく高貴なお方に、見苦しいものは何一つお見せしたくないと考えるでしょう。恐らく彼はご自身の感情の発露を貴方様に見せるべきではない見苦しいものと考えて、意識して貴方様に見せていないのです。私達に見せるような怖気の走る程に冷たい形相も、貴方様を見つめる熱く焦がれるような眼差しも……!」
「戯言を!」
「ジュリアにその感覚が理解出来ないのも、若さと育ちを鑑みれば致し方ないのです。どうか斟酌しては頂けませんでしょうか。彼は己が手で触れるだけで穢してしまうようなもの、穢れを得ないよう守らねばならぬものに未だ出会っていないのです。この場しのぎの嘘偽りであるとお思いになられるのなら、どうか他の方にもお尋ねください。皆様口を揃えておっしゃるでしょう……貴方様の従者は、心なき道具ではない、と」
日頃吹かれるままに笑顔で向きを変え、流れに逆らうことのない風見鶏のセシャンがそこまで食い下がってくると思っていなかったヴィリアムは少々面食らった。
ソロワロットを、恋人を守るために。
その言い分を一蹴して罰を与えると宣言しようにも、喉と唇が震えて言葉が紡げない。
「どうか、この場はお見逃しください。もし真に私の言葉が戯言であると確かめられた時はその時はどうなっても構わない覚悟です」
セシャンがそんなことを言う男だとは今の今まで思ったことがなかった。
「……そこまで申すのであらば、この場は矛を収めよう。だが! 私はそのような世迷い言、信じたわけではない。私を、ノアを、アウリーンを侮った罪、そう容易に贖えると思うなよ」
「ありがとうございます。……日頃はお供の方があまり貴方様の視界に入ることを許して下さらないので、貴方様には、存在することからまず許されていないのだと誤解しておりました。私の言葉をお聞き入れ頂けたこと、お心の寛大さに心より感謝いたします」
相手を恫喝しているのは自分の筈なのに、許しを請い、頭を下げている相手は全く動じていないし自分の心臓は早鐘を打っている。
深々と頭を下げる二人に背を向けても、平静を保って歩くのが難しいくらいに。
(ノアが他人に敵意を剥き出しにする? 私を焦がれるような眼差しで見つめているだと!? そんな馬鹿な……そんなことがある筈が、大体、そうであったなら、あのような……触っただけで穢れると思うなら、体罰など)
だがセシャンの言う通り、幼稚で、未熟で、守られるばかりの自分には、見せてはならぬと隠している顔があるのかもしれない――
(ノア……今こそ私を罰して欲しい。私の穢れを見て欲しい、私も……お前から目を離さないから)
その場に崩折れそうになるのを堪えて、とっくに遅刻している刑法学の講義をかなぐり捨てて、ノアを探しに戻る。
待機せよと言われたノアは、きっとあの場に留まっているだろうと思う。思いたい。
もしいなかったら? そう考えると足が竦みそうだった。
Ⅵ
ヴィリアムの不安は杞憂に終わり、ノアは待機を命じた場所に立ち尽くしていた。
ヴィリアムの気配を察し、体の向きを変えて見つめてくるが、歩み寄ってくることはなかった。
待機を忠実にこなしているのだろう。
心なしか疲労しているように見えるが、短時間立っていたくらいで疲労は不自然だと思った。そう見えた理由は、直接聞き出すのが手っ取り早いだろう。
「待機ご苦労。ついてこい。部屋に戻る」
「かしこまりました」
全ての講義に出るのではなかったのか、などと尋ねてくるだろうかと考えていたが、ノアは部屋に戻るまでついぞ言葉を発さなかった。
ノアに確かめたいことがあるヴィリアムとしては好都合だったが、理由も告げずに待機を命じられ、何故だか疲労の色すら滲ませているノアが何一つ言葉を発さないのは少々不穏だ。
無駄口を叩くようなことは決してしないノアだが、ヴィリアムに求められずとも口をきくことは、本来多々ある。
ノアも何か悟っているか、考えることがあるのだろう。
ヴィリアムは部屋に戻り、鍵をかけ、二人きりになってから念の為にと結界を更に重ねがけした。
ソファに腰掛け、気を落ち着けるためにノアに紅茶を淹れさせながら、なるべく自然にと心がけて口火を切る。
「ノア、待機中になにか変わったことは?」
「……坊ちゃまのお側にいないわたくしを不審に思われたアンドレオッリ卿にお声掛け頂きました」
「……アンドレオッリ……あぁ、黒猫の」
生物学好きのディトイェンス卿といつも一緒にいる物好きだと記憶している。好奇心が猫並みなのだろう。
いずれ禁忌に触れて身を滅ぼすであろう変人に係り合う不良には興味がないが、ヴィリアムの存在を欠いたノアに話しかける者がいたことには驚いた。
「何と声をかけられたのだ。非礼はなかっただろうな」
「何故一人でいるのか、いつまで待機するつもりか、と問われましたので、回答するのが妥当と判断し、坊ちゃまに待機を命じられた旨、いつまででも待つ旨を説明させて頂きました。わたくしめを含めアウリーン家に対する無礼な態度はなく、アンドレオッリ卿がご気分を害するようなこともなかったかと」
「なるほどな」
報告をするノアの声音はいつも通り感情の滲まない落ち着いたものだったが、その表情を窺うと、どこか迷い、躊躇いのようなものを滲ませていた。
ヴィリアムはノアのそんな表情など生まれてこの方一度たりとも見たことがない。
驚きのあまり声を上げそうになり、セシャンやソロワロットの言葉を反芻して冷や汗が出る中、必死に動揺を抑えて慎重に言葉を選んだ。
「ノア、これからいくつか質問をしたい」
「はい。なんなりと」
「決して私の言葉の裏を探らず、己が保身を一切捨て、正直に真実を答えよ。アウリーンの名に誓って嘘をつくな。隠し事も許さん」
「……かしこまりました」
ノアが頭を下げ、命令を了承している。
そこまで言ってもノアは嘘をつくかもしれないが。
ここまで言っても相手を信じられないようでは、きっとヴィリアムも主の器に欠くのだろう。
「ノア、私はおまえについて、今日初めて聞く話を聞いた。おまえが私の目を盗み、他人に対し強い警戒の視線を送っている。私に話しかけてはならないどころか、私の視界に入るなと言わんばかりだと。自覚はあるのか」
意を決して投げかけた質問は、ノアの表情を一変させた。
触れられたくない話題だったであろうことは明確で、今更命令を了承したことを後悔しているに違いない。
断れなどしないのだが。
「……まさか、わたくしの評判を確かめるために待機をお命じに?」
「質問に答えろ」
「……。そういった自覚はありませんでした」
「濡れ衣であると?」
「……坊ちゃまがその目を汚され不快を催すような者には自ら背を向け退き道を譲るよう、常々望んでいたのは事実でございます。その思いが顔に出ていたのであれば……目にされた方々には大変な無礼を……坊ちゃまの不名誉になるような真似をし、申し訳ございません」
「謝罪はあとだ。次の質問に答えろ」
「かしこまりました」
ヴィリアムが知らなかったノアの一面は、事実であったかもしれない。
ノアはかつて見たこともないくらい恐縮し、恥入り、沈痛な面持ちで立ち尽くしている。
次の質問に怯えてすらいるようだ。
「おまえが私を見る目についても、尋常な従者のそれではないという話を聞いた。私に対し、忠義以外の念を抱いたことはあるか」
「申し訳、ございません……ッ!」
「謝罪は要らぬと言っている! 質問に答えよ!」
ノアの謝罪に無性に腹が立ち、金切り声で怒鳴った。
そんな答えが返ってくるなんて、ヴィリアムの長年の煩悶はなんだったのか。
一体どれだけ苦しんだと思っているのか。
謝るなど。それで許されようと思っているのか。
「答えよッ!!」
「……、抱いているのだと、思います。感情に名をつけることに不慣れで、わたくしの胸の内に宿るものが何なのか……明言することが、難しい……のですが」
「何故それを私に隠した?」
「不適切な感情であろうと思われたから、です」
「不適切だと? それは一体どんな感情なのだろうなァ! 不埒なのか? 無礼なのか? ノア、貴様は己の保身のためにそれを隠したのか? 浅ましいことだな!!」
言葉の謝罪を禁じられたノアは膝を折り、床に這って頭を下げるばかりで、それ以上答えない。
「許さんぞ、私に隠し事をし謀り続けてきたこと! 洗いざらい白状せよ、全て!」
「一体何から、お話すればいいのか……」
「何から、だと……? 最も話したくないことから話せばよかろう! 貴様の最も深い罪はなんだ!」
這いつくばって頭を上げられずにいるノアの頭を足蹴にし、何を聞かされるか、不安と恐怖を紛らわすように怒鳴っている。心の何処かで何かを期待をしている自分にも心かき乱されながら「話せ!」と叫んだ。
「わたくしは……ッ、恐れ多くも、罪深くも……あぁ、汚らわしくも、坊ちゃまの血に、痛みを受け入れる姿に、欲情しておりましたッ」
頭を踏みつける脚に力が入った。
「坊ちゃまがお生まれになった日から、我が物にしたいという欲望と闘って参りましたっ……!」
「痴れ者め!」
「坊ちゃまを……愛しく思、って……ですが、わたくしめには……そのような感情を抱く権利は……ッ」
「そうだ、貴様を許すも、許さぬも、全て私に権利があるというのに、貴様はっ! 勝手に許されないと判断して! 私に隠し立てをした……ッ!」
何かがへしゃげる音がして、血の匂いがする。ノアの鼻の骨が折れたのだろう。
「……だが、それだけか?」
「……?」
「私を子供と侮り、許す度量がないと判じて押し殺したのではないのか!」
「決してそのようなことは」
「いつまでも坊ちゃまと呼び、躾と称して代替行為に耽っていたのは、事実であろう!」
「坊ちゃま……」
鼻が折れているせいか、妙な声音だった。
「わかっているのだ……っ、私が未熟なことも、お前の嘘と隠し事を増長させた原因が私にあることも」
ノアに散々吐露させたからか、ヴィリアムの口からも滑り落ちるように本心が紡がれた。
そうして今まで認めずに来たことを口に出して認めてしまうと、全ての支えを失ったように体から力が抜け、ノアの頭から脚を退けるとその場にへたりこんでしまった。
このまま立ち上がれないのではないかと思うほど、体に力が入らない。
「おまえの愛が欲しかった。幼稚な私は親兄弟のような愛の思い出から巣立てなかった。おまえの視線を我が物に出来るなら、おまえの強い感情を垣間見れるなら、屈辱でも痛みでも受け入れようと、幼稚なことを繰り返して、そんなことをしても……ただただ虚しいだけだと、心の底ではわかっていながら……蓋をして……!」
自分で口にしていながら、あまりの情けなさに目を開けていられなくなる。瞼を閉じれば、押し出された涙が睫毛を伝い、玉を作っては落ちていく。
「命令がなくとも私を思い、自らの意思で私を支えてくれたら、と願っていた……そのためにおまえの与えられた仕事を、もうやめろと命じられるのは私だけだった。だというのに……命令がなくなった時、おまえが私を顧みなくなるのが怖かった……」
次々溢れる涙に、あまりの恥ずかしさ、みっともなさに顔を覆う。
「おまえの望む通りの当主になる自信もなく、決して手に入らないものを妬んで癇癪を起こすばかりで……とても愛されるような主人ではなかった、だが、そう在り続ける限りは愛されていないことに苦しまずに済んだ」
あぁ、なんと卑しく愚かなことだろう。
そんな決して幸福に届かない自分を後生大事に守るのは、もう終わりにしなくてはならない。
改善しなくてはならない。
不適切な関係も、捻れ歪んだ感情も、愛情に飢えた子供も、アウリーン家の当主には必要ない。
「おまえを解任する、ノア」
ヴィリアムの持ち物でなくなったら、ノアは学園を去らなくてはならない。
主のいない奴隷、そんなものに貴族社会の居場所はない。
永久の別れの宣告だ。
真にノアが命令に従うだけの心なき持ち物であるならば。
「どこへなりと行け」
声が涙ぐんでしまった。
本当に情けない。ノアが体を起こす気配に胸が締め付けられる。
だが、このまま一緒にいたとしても苦しみから解き放たれることはない。ノアの苦悩も。これから悠久の時を命令と主従関係に縛られて。
なにもかも、ひたすら拗れていくばかりだ。
「ヴィリアム」
「!?」
耳を疑っている間に押し倒された。
「従者である必要がなくなった今、わたくしは暴漢になっても構いませんね」
「ノ、ノア?」
「一生お仕えしたかった。それ以上の幸福はないと今でも思っています。それが叶わなくなった今、はいそうですか、と素直に引き下がってたまるものですか」
乱暴に服を乱される。
何を、と問う前に、悲鳴を上げる間もなく首筋に牙を立てられた。
「あっ……!」
今までノアから受けたどんな折檻よりも鋭く、深く、甘く心の深いところまで突き刺さる痛みに襲われ、ヴィリアムの下肢は勝手に突っ張り痙攣した。
体の奥で湯を含んだスポンジを潰したように、熱く湿った感覚が広がって、それが全身に伝っていく。
「んっ、は……、ぅ」
身を捩っても、幼い体は大人の男の手から逃れることなど出来ない。怖くて声も出せないし、落ち着いて魔法を使う余裕もない程、性急に暴かれていく。
されるがまま、陵辱を受け入れるしかない。
それでも少しでも抵抗しなくては、と思う余裕もなくはなかったが、暴漢にも人の心があるらしい。
無駄な抵抗はしない方が賢いと、大きい手で乱暴に服を裂き、柔らかい肌に爪を立てて伝えてくれる。
その暴力に甘え、ヴィリアムは余計なことを考えるのをやめた。
まだ精通もないような幼い子供に欲情するなんていうのは、間違いなく異常なのだろう。
それがたとえ、愛するものが幼い姿のまま、成熟出来ずにいるからだとしても。
なんの言い訳も出来ないくらい、浅ましく齧り付いて血を啜り、なんの躊躇もなく兆した劣情に身を委ねた。
きっと、あれ程穢れなく美しい肢体を見たら、普通は恐れ多くて触れることすら叶わないだろう。
雑念を己の内側に溜め込んで敬愛すら歪み変質させてしまったが、それ以前はノアも幼き主に対しそういう感覚を持っていたと思う。
美しい。愛おしい。守りたい。触れてはならない。
穢してはならない。
(だからこそ穢したい)
その思いが何もかもを狂わせたのだろう。
今は全てが明瞭にわかるが、狂った頭では何一つ正しく見ることが出来ず、愛しき主を見誤り(いつまでも幼く無垢であれと望むあまり)、傷を見落とし(傷などつく筈がないと思い込んで)、膿に苦しませ(あんなに悲鳴を上げていたのに)、ついには自ら膿を掻き出させてしまった。
どれだけ追い詰められ、苦しんだことだろう。
従者として仕えたいなどと、もう二度と口に出来ない。
解任の命も、全ての行為を受け入れたのも、決して哀れな奴隷に情けをかけたものではないとわかっている。
従者ではなく情夫になれと言ってくれたのだ。
だが、その好意に甘えるには犯した罪と罪悪感があまりにも大きすぎた。
暴漢を演じて彼の羞恥や躊躇を浚うのが関の山で、真っ当に慈しんで愛されようなど、ノア自身が許せなかった。
美しい思い出になど、してはいけない。
「ノア……」
「!」
息を切らせてぐったりしていたので、肌を清めてベッドに寝かせたヴィリアムが不意にノアの名を呼んだので思わず枕元に跪いた。
暴漢のすることではないな、と自嘲しながらも、一度やりかけてしまった以上は、とヴィリアムの次の言葉を待つことにした。
「こんなものか。おまえの積年の不適切な思いとやらは」
「……、いえ、あの」
「まだ縛られてもいないし、打たれてもいない……接待のような行為しか出来ない腰抜けなら、本当に追い出すぞ」
「なっ……」
「私が欲しいのだろう。穢したいのだろう。私は吐精もままならぬ身だというのに、おまえの劣情に付き合ってやろうというのだ、従者を手放してまでな……ここまで言ってわからぬ愚鈍なら尚更要らんな」
睥睨。
行為後の不応期で興奮から醒めるどころか、深い悔恨が入り混じって沈鬱と言っていいくらいまで落ち込んでいたノアを真顔で煽るヴィリアムは、幼い造形に全くそぐわぬ表情で見下ろしている。
「命じられねば返事一つ満足に出来ないのか?」
「いえ! いえ、その、不応期という射精後の生理現象がありまして。興奮が醒めて冷静になりますが、場合によってはそれが度を越し、眠くなったり落ち込んだりしてしまうんです」
「不応期は知っているが、それでこのザマだというのか!あまりに不便だな!? なんとかならんものなのか」
「閨で有事が起きても抱いた相手を守るため、すばやく正気に戻るための身体機能ですので……」
「む……ならば致し方ない、のか……? 別に私はか弱い婦女ではないしおまえに守られずとも、全く構わんがな」
さり気なく鋭い一言を漏らしてノアにショックを与えているのもわかっているのかいないのか、つまらなそうな顔をして腕を組んでいる。
ヴィリアム・アウリーンは完全無欠だ。
唯一の欠点だった幼稚な癇癪がなくなってしまったら、眉目秀麗、頭脳明晰で、魔法にも音楽にも、何にしても才能を欠くことない。
今この部屋に張られているヴィリアムの結界など、ヴィリアムは何気なくさらっと張っているが、あまりに強固過ぎて寮で火災が起きても最後まで気付かずに済んでしまう程の代物だ。
本来、暴漢に襲われたとして、痛い目に遭うのは暴漢の方なのである。
能力的には、誰かの補佐が必要な人物ではない。
何十年も前からそれに気付いていた。
精神面以外、支え得るところがない。
恐らく、ヴィリアムも無意識にそう結論を出していたからこそ、わざと幼稚な真似を――
「生意気を言う悪い口には躾が必要なようですね」
「躾だと? ふふ、奴隷の分際で私に生意気も何もあるか。だが物申したいことがあるのならば、一応は聞く耳を持ってやろうではないか。この身に思い知らせてみよ」
ヒステリックで、叱責に怯えながらも罰に期待する(しかもそれは従者に顧みられたいという歪な願望が原因だった)そういった不安定さが、たった一度の性交渉で全て払拭されたようだ。
優雅で、傲慢だが己の高い地位を自覚している故の寛容さもある、貴族に相応しい振る舞いが板についている。
ヴィリアムの欠けたるたった一つのピースはノアの愛だったという動かぬ証拠を突きつけられている。
自身のあまりの体たらくに落ち込み、ノアは己を奮い立たせるのが困難だ。
「……思い知らせた結果首を刎ねられるのでは、割に合いませんが」
「馬鹿を言え。全くおまえも野暮な男だな」
申し訳なさ過ぎて立ち上がれないとも言いにくい、そんなことを考えつつ立ち上がり、躾に使う硬化縄を取ろうと背を向けると、不意にヴィリアムに手を掴まれ、ベッドに引き倒された。
「おまえを今から私の所有物にする。アウリーン家ではなく、私の私物だ。私に都合がいい在り方が望ましい。私に従い、奉仕するのは勿論だが、必要以上の接待は要らない。おまえが正しくないと思うことには反論して良いが、私が気を揉まねばならない、疑念を抱かなくてはならない、そんな事態もまっぴらだ。更に何か失態があったらその時は私のためにやったなどという言い訳は聞かん。ただまぁ、私も個人所有となれば愛着も更に湧くだろうし、そう簡単に手放そうとは思わない。立場が危うい時は守ってやろう」
「坊ちゃま……」
「それも禁止だ。アウリーン家に仕えているという意識があるからいつまでも私をそう呼ぶのだろう。それとも小児性愛の趣味が高じてそう呼んでいるのか? どちらにせよいい加減にしろ。もう私はおまえの主家の息子ではない。おまえの主人だ」
ヴィリアムに顔を引き寄せられ、正面から見据えられると、表情に幼さは微塵もなく、ノアも長年愛し続けた幼子の幻想への未練を捨てる覚悟がついた。
「かしこまりました」
「それに、先程の呼び捨て……あれも悪くないな、平常時はとんでもないが、閨にのみ限って言えば。おまえは常に仏頂面で全くつまらないが、私に乱暴を働く時の表情は、昔から好ましいと思っているぞ」
少し照れているのか頬をうっすら赤く染めながらも、淫らに誘うような表情を見せながら指先で頬を撫でるなど、一体どこで習得したのだろう。
従者であると共に教育係も仰せつかっていたのに、ノアの配慮は全くもってどこにも行き届いていなかったということか。
情けないことこの上ない。だが、その事実がノアの首にかかった枷を壊し、ヴィリアムが望むような自分で考え自分の思いに従って動ける忠実な従者になれる気がした。
「本当に、いけない人だ」
すっかり鎮火した体の中にも流石に再び火が灯る。
再び喉笛に噛み付いた。
力強く高貴な血は、下賤の牙では決して穢れない。




