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Red drink

挿絵(By みてみん)

-Red drink-





 何気なく窓の外を見ると、爬虫類のような尻尾を引きずった白衣姿が見えた。

 その白衣の肩に黒い長毛の猫が飛び乗ったかと思えば、鬱陶しげに振り払われ、着地する寸前に瞬き程の間もなく長髪の男に変化し、改めて白衣の肩に手を回す。

 アンドレオッリ卿とディトイェンス卿だ。

 彼らは幼馴染で、一緒に学園にやってきた。とても仲が良い友人同士で、片や勉学嫌い、片や研究魔であっても仲違いすることもなく、あのようにディトイェンス卿がアンドレオッリ卿の脱走に付き合うこともしばしばだという。

 不良のレッテルを貼られても気に留めることもない。

それ程までに二人で脱走するのが楽しいのだろう。

 完全な猫に変身することで、日光の元での活動を実現したアンドレオッリ一族――その嫡子は、人の形をしている時も猫のように気に入った相手の体に擦り寄る。ディトイェンス卿は迷惑そうにそれを振り払うが、アンドレオッリ卿はそれを気にしたようではない。思うに、ディトイェンス卿とて本気で迷惑と思っているわけではないのだ。

 (私には、あのような友は作れない)

「――以上を持ちまして、本日の講義は終了です。次回は石油の流通とそれによって栄えた富豪についてお話し致します。皆様方、ごきげんよう」

 すっかり窓の外に気を取られて講義の最後の方を聞き逃したが、慌てて「ごきげんよう」と頭を下げて、アルセールも他の者に遅れを取らぬようノートや筆記具を手にそそくさと退室した。

  

 アルセール・ダニエル・セシャン。たまたま侯爵の家に拾われた、ただの無能な転化者。

 絶世の美貌と褒めそやされているが、その実、毛の色を染められた鶏の雛と何も変わらない。

 転化によって偶然得られた、大真祖と同じ色彩。

吸血鬼が最も美しく魅力を感じる金髪に血の色の瞳、白い肌の組み合わせ。

 それがアルセールの持つ全てだった。 


「セシャン様。ごきげんよう……!」

「あぁ、ごきげんよう」

「アルセール、今日は一段と麗しいな」

「ふふ、そんな。昨日と変わらないよ。でもありがとう」

「やあ、セシャン卿。今度また妹に手紙を書いてやってくれないか」

「エリザベート様ですね。構いませんよ」

 廊下を歩けば、年齢も家の格も関係なく親しくしようと声をかけてくる者が絶えない。

 美しい風貌は、美しいものを好む吸血鬼という種族の中では、富より強い武器であった。

 とりわけ、この学園という空間においては。

「誰だ? 中庭で騒いでいるのは」

 すれ違った者の言葉に誘われ廊下の窓から外を見ると、中庭でいくつも椅子を積み重ねた上で倒立を試みている男が目に入った。

 数人の見物人はいるが、何のためにあんなことをしようとするのか全く理解出来ない。

「あの真紅のがさつな長髪……転化者のジュリア・ソロワロットじゃないか」

「伯爵家ではあるが、まだ五代目という若さ、それで既にあんな粗忽な転化者を囲ってるようじゃ、ソロワロット家はやはり貴族に相応しくなかったということだろうよ」

「なんでも、ジュリアというのは我々吸血鬼を畏れてつけられた女名だそうだよ。人間の考えることはわからないが、全く無意味だ。愚かにも程がある」

「転化者だから子孫は作れるだろうが……あれでは妻になろうという女がいまい。遅かれ早かれ、あれが家を潰すであろうな」

 ソロワロット家は、最も新しい貴族家である。

 それの意味するところは、古き真祖を家祖に持つ伝統ある貴族からすれば、ぽっと出の最下級。

 分家ではなく家祖が真祖だから伯爵位を与えられているとしても、戦争を経ていない新参という扱いは変わらない。

 それで純血の嫡子ならまだしも、転化。

 貴族の子息達からしたら、侮蔑し嘲笑して構わない、むしろそうしないと貴族の名が廃る、というくらいの存在だ。

 人間の方が容赦なく血を吸えて腹がふくれるだけマシ、等と下品なことを言う者までいる。

「セシャン卿、あんな道化は放っておいて僕たちとお茶でもしませんか?」

「あんなの、あまり見ていると馬鹿がうつりますよ」

「そうだね。何故あんなことをするのか、と真意が少し気になってしまったけど、僕が気にすることではなかったようだ」

 踵を返し、窓から離れようとした時。

 高く高く積んだ椅子は揺れ、その上で逆さに立ったジュリアはバランスを崩した。

「あぁ!」

「ついに落ちたぞ!」

 吸血鬼の体躯の頑健さを思えば誰も心配をしないのも道理だが、人の失敗を喜ぶ声が上がったのには、下品な、と思わずにはいられない。

 だが、それが吸血鬼の社会だ。

 血父がアルセールに「吸血鬼の生き方を学んで来い」と送り出した学園の本質だ。

 強固な序列社会。徹底的な差別主義。それらの価値観に慣れ、波に飲まれないための訓練施設。

 アルセールも周りに合わせて、だが下品にならぬよう柔和に笑んで見せる。

 その一瞬。

 目が合ってしまった。

 満面の笑みを浮かべて、失敗したにもかかわらず満足そうに立ち去るジュリアと。


 アルセール・ダニエル・セシャン。

 実子に恵まれなかった血父が嫡子を求めて数多噛んだ少年たちの中の一人。

 金髪と赤眼を気に入った血父に選ばれた、ただそれだけの元・人間。

 転化者でありながら、望まれた生殖能力は純血の吸血鬼並に低く、魔術の才も政に向いたカリスマも無い。

 その麗しさに惹かれた者が集まる一方で、妬む者から「嫡子と言われ囲われているが、見てみよ、あの美しさと無能さを。真実は妻を亡くした血父の愛人なのだ、セシャン家は家が途絶える運命を受け入れて、最後の道楽に耽っているのだ」と陰口を叩かれているのを、誰もが知っている。

 アルセール本人もまた。

 いつになったら血父は僕を抱くのだろう。

そう、思っている。



学園は講義を受ける講堂や研究室がある校舎棟の他に、いくつかの建物と広大な庭で構成されている。

 生徒が講義以外の日常生活をおくる寮棟は校舎棟に併設されており、四階おきに渡り廊下で連絡している。

 授業は二十時半から始まるが、十八時から校舎棟が解放され、全ての施設を自由に使うことが出来る。

 最後の授業は二時に終わるので、三時には全ての渡り廊下と出入り口が閉鎖される。

 寮の門限は四時。冬ならばまだ夜明けまで数時間ある時刻だが、日光を少しでも浴びると致命傷になる者に配慮し安全を第一に優先した結果である。

 その分、寮の中には講義で使う以外の目的で使っていい研究室や、楽器を演奏しても構わない部屋、身体を動かすための施設、血液以外の飲食を楽しめる体質の者もいるので食堂も完備されているし、勿論吸血を楽しむ用の人間も飼われている。

 学園の暮らしに不自由を感じている生徒はあまりいない。

 貴族の子息向けの施設である以上、生徒から不満が出るようなことがあってはならない、という前提があるからだ。

 それでも脱走を企てる者はどうしても出てくるし、そんな不良息子の挙動については、それを不快に思う他の生徒のためにつぶさに両親に報告して退学を検討してもらうことになっている。

 教育のために作られているのではなく、疑似社会的空間に隔離して慣らすために作られた施設であるから、社会に適合する見込みのないものを無理に庇い立てしないのだ。


 寮にはいくつか談話室として用意されたサロンがあって、十三階にある通称・月光のサロンで雑談をして過ごすのがアルセールの放課後の日課だった。

 重厚な紺色のベルベットのカーテンには特に強い結界魔術がかけてあり、光と音だけでなく熱も決して室内に入ってこない。

 通称の由来である三日月を象ったシャンデリアには長さのばらついた濃紺のキャンドルが立てられ、灯る炎が星のようだ。

 茶や酒の香りを楽しむために香を焚かないサロンもあるが、月光のサロンはいつでも香が焚かれている。

 ふわりと蘭のような華やかで妖艶な香りが香ったと思えば、奥まで染み入ってくるのは樹木や革、深い森を思わせる香りだ。かすかにどこかスパイシーで刺激的でもある。

 アルセールはその香りが好きで月光のサロンをお気に入りにしていた。

「ソロワロットも、そろそろ退学になりますよね」

 今日の話題は、わざわざ積み重ねた椅子に登って落ちたジュリア・ソロワロット。

 あんな愚かな方法で注目を浴びようなどと浅はかにも程がある、と大顰蹙を買っている。

 学園を抜け出して、おそらくまだ帰ってきていない純血の生え抜き不良二人組のことは微塵も話題にしないのに、ジュリアのことは元人間であるという理由だけで安易に槍玉に上げる。

「怪我はしないにしても、椅子を壊してしまう可能性はあったろうし、不必要に学園内で騒ぎを起こしたことは彼の両親に手紙で伝えられるかもしれないね。それを読んだソロワロット伯爵がなんと思うかは、僕にはなんとも言えないけれど」

 無難に答えられているか、貴族の子息として正しいふるまいかどうか、ひたすらそれだけに神経を集中させているアルセールの言葉に、彼を囲んだ五人が口々に同意を示す。

「確かに。ソロワロット伯はあまり社交界にご興味がない方だから、私もよく存じ上げない」

「ジュリアが転化者ということから想像するに、息子にもっと貴族らしくなって欲しいという思いはお持ちなんじゃなかろうか?」

「それは、あのジュリアを見ていれば親でなくとも思いますからね。ですが、気品というものは概ね持って生まれるもの。学ぶものではないと思いますよ。セシャン様を見ていればそれも明白です!」

「アルセール、君はいささか優しすぎる。余裕の表れなのかもしれないが、あんな下品な男にまで気を遣う必要はないと思うな」

「セシャン様のそういった温和で慈愛に満ちた振る舞いもまた、麗しさを醸す理由の一つだと私は思いますが」

 それら一つ一つの言葉に、平等に笑顔を向けて感謝を伝え、麗しのアルセール・ダニエル・セシャンを見てもらう。

それが上手くいくかいかないかで、ベッドでぐっすり眠れるかどうかが決まる。

 しくじりを自覚した日はどれだけ目を閉じて考えないようにしても、どうしても嫌な妄想が頭を巡ってとても安らかに眠ることが出来なかった。

「ふふ。僕は頼りないから、血父ちちに次の当主として不安に思われていないか心配なんだけれど」

「戦時中ならいざ知らず、今や貴族に荒事は全く不必要ですから。セシャン様は今のままで十分、家の名に恥じぬ器と風格がありますとも」

「もし君が結婚相手の心配をしているなら、全く問題ない。君程の美しさがあれば性別など些末な問題だよ。多少男性的な要素に欠けるとしても、妻になる女性は一生他の男に目移りしなくて済むだろうね」

「我らに必要なのは何よりも聡明さや貴族としての自覚です。セシャン卿に欠けているものは一つもない」

「ふふ。みんなありがとう。そうだね……こんなに親しく、心地よい関係でいてくれる人がいるのだから、僕の心配は杞憂だったかもしれない」

 そうであれば、どんなに良かったか。

 そう思いながら浮かべた笑顔も、彼らは麗しいと口を揃えるのだろう。


 サロンを出て、皆が各々の部屋に戻るのを見届け、一人廊下を歩く時、近くに誰の気配もないと少しだけ肩の力が抜ける。

 ――彼は常に肩の力が抜けているんだろうな。

 羨ましい、とは思わない。

 皆から寄ってたかって馬鹿にされ、疎まれ、愛されることも理解されることもない人生。

 そんなの耐えられない。

 だが。

 ――僕を本当に理解して愛している人なんて、もうこの世にいないじゃないか。

 ほとほと生きるのにうんざりする。

 これから何百年も生きなくてはならないのに。


「こんばんは」

 不意に背後から声をかけられ、アルセールは自分が思ったより疲れていることを自覚した。

 内向的な物思いが深すぎて近付く気配に気付かなかった。

「こんばんは」

 応えてから慌てて笑顔を作り、振り返る。

 そこにいたのはなんと、ジュリア・ソロワロットだった。

「大丈夫? えーと、アルセールだったっけか」

「うん? いかにも僕はアルセール・セシャンだけど。大丈夫、とはどういう意味だい?」

「いや、後ろ姿元気ないなと思って。違った? それが通常営業?」

 猫背になっていただろうか。歩くペースが遅かっただろうか。みっともない歩き方をしてしまっていたのだろうか。

 不安になるが表情には出さないように留める。

「そう見えたかい? 心配してくれてありがとう。そう言われてみると少し睡眠不足だったかもしれないな。部屋に戻ったらすぐ休むことにするよ」

「ふーん……」

「それでは。失礼するね」

「あー」

 ジュリアが何か物言いたげに声を出したので振り返ってから、一拍おいて「なんだい?」と尋ねる。

「や、もしかしたら失礼かもと思ったから、いいや」

「何故そんなことを思うのかな?」

「オレ、見下されてるからさー」

「なっ……そんなこと」

「格下中の格下だから、友だちになろうなんて言ったら失礼にならない? 友だちって対等なわけだし」

 アルセールはジュリアの意図が全く読めずに固まってしまった。

 どんな顔をしていたかなんて想像もしたくない。

 考え込むあまり、言うべき言葉が出てこないし、自分の感情すら測りかねている。

「やっぱ失礼だったよな。ごめんなさい。オレ、いまいちわかんないんだよ、元人間だからなのかな。血の格? とかいうやつ……」

 血の格は、相手と自分のどちらが上なのかを考える時に感じる、吸血種族独特の感覚である。

 匂いがあるわけでもないし、はっきりとした指針があるものではないし、誰が見ても同じく感じるような絶対的な値ではない。勿論、吸血をしない人間には全くわからない感覚である。ただ、例えて言うなら肉を見て、食べる前から美味しそうと思ったり、人の顔を見て性格が悪そうだと思ったり。そういう感覚に近い。

 家柄、思慮深さ、魔術の力の多寡、肉体の頑健さ、カリスマ性など……他にも要素はたくさんあるが、各人の持てる“力”と呼べるものが血の格を高める。

 数字で表されるものではないので、自他の差が些細な場合は互いに自分のほうが上だと感じる場合もあるし、客観的に見て二人の人物の格がほぼ同じでどちらが上か判じにくく感じる場合もかなりある。

 ジュリアは血の格の感覚がわからないと言いながら自身を格下中の格下と評したが、アルセールも自身についてどん底の評価を下していた。

他人の血の格はわかるが、自分と比べてどうか、という点については全く感覚が当てにならなかったのだ。

「ほんとごめん。オレ馬鹿だから……許してくれる?」  

「許すも何も、君に悪気がないのだから、僕は気分を害していないよ。そんなことより、どうして突然、友だちになろう、だなんて」

「ならよかった。えーと、それはね……」

 ――友だちなら、悩みとか、困ってることとか、なんでも話せるだろ。

 ジュリアは笑いながら、そんな人間の少年のようなことを言った。

「え……」

「でも、やっぱそれも失礼だったよな。なんつーか、アルセールはちゃんと吸血鬼だし。オレみたいな半端者じゃ、きっとわかってやれないだろうし」

 それを言うジュリアの顔には言葉と裏腹に引け目も劣等感もなかった。

 自分と相手の価値観の違いがありそうだ、という憶測の壁にぶつかって元来た道に引き返すだけのことに、悔しさや惨めさなどはあるわけもない、といった風情。いっそ無邪気と言っていい。

「半端者だなんて。君も吸血鬼じゃないか」

「まぁ、そうなんだけど。ハハ……じゃあ……えっと、おやすみ。またな、アルセール。いい夢を」

 そうして廊下に一人取り残されたアルセールは、いい夢など見られよう筈もなかった。



 きっと、口ではああ言ってもジュリアは己に引け目など感じていない。

あんなに、誰も彼もからひどく謗られても。

 元人間で、貴族の社会に馴染んでいなくても。

 なにか突出した特技がなくても。

 美しくなくとも。

 笑みを浮かべて、何の見返りも求めずに弱った他人へ手を差し伸べられる。

 その厳然たる事実が眠れぬアルセールの胸にわだかまり続けていた。

 十九時の鐘が鳴り、ベッドから出なければ万端の準備で一限目の授業に出ることが出来なくなるタイムリミットを認識しても、指一本動かす事すら出来ない。

 苦しかった。

 何故自分だけがこんな思いをしなくてはならないのか、と、みっともなく喚き散らしたかった。

 みっともなさに窒息しそうだった。

 ――僕は、彼を下に見てはいけないなんて思っていた。

そんなことを思うのは既に下に見ていたからだ。

周りがちやほやするかどうかだけで。

 八十年も生きてきて。

 吸血鬼としてはまだ青臭いガキと言われる年齢だけれど。

 人間として生きていたら、とっくに寿命が来ていてもおかしくない年齢だ。

 ――なのに、僕と来たら。

 自己嫌悪のあまり、堂々と涼しい顔で講堂に行くことすら、出来ない。

 考えれば考えるだけ苦しい。

もう一度眠ってしまいたい。そして、もう二度と目が覚めなければいいのに。

 或いは、このままずっと部屋に引き込もって、何日も何日も。

 そうして親に連絡が行けば、退学ということになって、そうしたら――

 ――恥晒しの僕は、殺してもらえるだろうか。否、身内殺しは恥の上塗りか。

 あぁ、ただの穀潰しとして生かされるくらいなら、犯して血を吸って、吸い尽くして欲しい――  

 完全に光が入ってこない部屋で、真新しい匂いもしない。

 自身が身じろぎをしなければ音も立たない。

 時が止まったかのように感じるが、もう遅刻は免れないだろう。

 時計を見る気力もなく、そんな自分に心底嫌気がさす。

 血父はそんなアルセールを叱ることすらない。

 何も期待していないのだろう。

 せめて迷惑をかけまいと今日まで必死に生きてきたが、無能なアルセールにはそれすら無理難題だったようだ。


「あ~~~~ダルい。無理。しかも一限からとか。なんで~~~~~」

 空き講堂で机に突っ伏しているのは、ジュリアだった。

 教壇には監視役が誰もいないので、だらしのない態度をとっても誰も怒らないが、この部屋は外から厳重に鍵がかかっているので脱出は出来ない。

「ははは、なんでだと思う?」

「ええ……、知ってるの? デルフィーノ」

「そんなもの、これが罰だからに決まってるだろう」

「ええ~~~~~? ウルリヒにしてはひねりがないよ~~~~~」

 前日学園を抜け出してずぶ濡れで帰ってきた二人と、椅子を一脚壊したジュリアは罰として、校舎棟が開く時間に部屋から連行されて反省文を書かされていた。

「ひねり? 強いて言うなら、脱出して逃げる前に捕まえて確実に反省文を書かせるためじゃないのか」

「脱出するような気があるなら、私は昼間から逃げるがな。だがまぁ、ウルを置いて逃げるわけにもいくまい」 

「まぁ、オレも逃げようと思えば逃げられるけど……流石にそこまでやったらマズいでしょ……」

 脱走の常習犯二人とジュリアは、何度かこの反省文を書かされる罰で顔を合わせている。

 反省文の時にしか話したことがないが、ジュリアは二人に対し友情を感じていた。

 他の生徒ならそんな屈辱を受けるという時点で抑止力になる反省文だが、根っから問題児のこの三人はそんなものに恥を感じる価値観を持ち合わせていない。面倒だと思いこそすれ、避けるために大人しくしていようと思うには至らなかった。

「そんなに嫌なら、なんで椅子を壊したんだ。というか、どうやったら椅子が壊れるんだ?」

「どうやったら、なんて、休暇も近いのにわざわざ学園抜け出して水がダメなデルフィーノと海水浴してきたウルリヒに言われたくなーい」

「別に私は海に入るつもりは毛頭なかったんだが。ハハハ事故だ、事故」

「ええ~、生まれた時から吸血鬼でもそんな事故起こすんだ……? オレ、生まれた時は人間だったから吸血鬼はもっと卒なく生きてるもんだと思ってたー」

「なんだお前煽ってるのか? 流石の俺でもおまえになら呪いをかけられるぞ。急に吐き気を催させるとか……」

「カリカリすんなってウル。ジュリアスに悪気はないんだろうから。ホレ、見てみろ」

 デルフィーノがジュリアに書きかけの反省文を見せると、ウルリヒは不承不承矛を収めて反省文書きを再開した。

 反省文には、動機や理由、不祥事が起きた原因などを書き、反省している旨、再発防止のために具体的に何を行うか等を書かされる。

 ウルリヒとデルフィーノは口裏を合わせるために時々内容を確認し合っていたが、今回は「海洋棲下等生物の生態研究のため、臨時で採集を行うために海に行ったが、足元が崩れて海に転落した。具合が悪くなったのでしばらく休憩していたので寮棟の門限にも間に合わなかった」ということにしたらしい。

 それを読んだジュリアは少し釈然としない。

 反省文の性質上、嘘や誤魔化しがあろうことは間違いないし、それが当然だとは思うが。

「オレ、水ダメな感覚よくわかんないけど吸血鬼が動けなくなるほど具合悪くなるって相当だな?」

「なんだジュリアス……おまえも平気な口か……。そんなおまえにもわかりやすく喩えると、脳が幻覚作用のある磯臭いローションに浸けられてユラユラさせられてるような感覚だぞ」

「オエッ。無理。逆に吸血鬼じゃなきゃそんなの耐えらんないって。てかなんでそんなんなるのに海行くんだよ~~」

「七脚重ねた椅子の上で逆立ち……バランスを崩して転倒、自身の下敷きになった椅子が壊れてしまって……?」

「あっ!? 勝手に読むなよー!!」

 ジュリアは知らぬ間にデルフィーノに反省文を掠め取られていた。

デルフィーノの瞬発力や気配を消す能力は吸血鬼の中でもかなりのものだ。

ジュリアにはそんな芸当は出来ない。

「私のを読ませてやったんだからイーブンだろ? しかしなんでまたこんな、人間の曲芸みたいなことを」

 デルフィーノに呆れられて、流石にジュリアは恥ずかしくなり、その羞恥を苦笑いで誤魔化した。

 “人間の”という言葉に、彼らと自身の差を思い知る。

「オレ、元々人間だったからさ……」

「それと椅子とどういう関係が?」

 顔も上げないウルリヒだが、声は怪訝そうであった。

ジュリアも「無理もないか」と応じる。

「人間はさ、吸血鬼みたいに頑丈じゃないし、筋力もないし……だから出来ることが少ないし、怖いことも多いわけ。人間だったら絶対訓練もなしに椅子何個も重ねた上に上ろうなんて思わないんだけど」

「吸血鬼だってそんなこと思わんぞ」

「ウル。そりゃそうだが聞いてやろう、最後まで」

 デルフィーノの声が軽やかながらも真摯だったので、ウルリヒも少しバツが悪そうにしつつ黙ってジュリアに続きを促した。

 デルフィーノは不良と呼ばれているが紳士だ。

元人間でまだ五十過ぎのジュリアをよく思いやる。

「えっと。吸血鬼だったらそんなことやろうって思わないのはわかる。だって“怪我しないのが当たり前だから”。やる側も見る側も、スリルがないじゃん? でも人間だったら、あんなこと出来たら拍手喝采なんだ。元から吸血鬼の二人にわかるかどうかわからないけど、それくらい、危険なことなんだよな。だから、オレは“怖く感じなくなったのかどうか”試したかった。オレの感覚はずっと人間のままなのか……それとも知らないうちに感覚まで吸血鬼になってくものなのか」

「なるほど……」

 デルフィーノとウルリヒはジュリアの言わんとしていることを理解したようだった。

 ウルリヒはデルフィーノと違って気が回るタイプではないが、頭はすごく良いし、頭で理解すればそれに素直に感情もついてくるタイプなようで、ジュリアにとっては、吸血鬼の友人としてこの上ない二人だろう。

「それで、どうだったんだ?」

 ウルリヒがジュリアに顔を向けて尋ねてくる。

 書き終わったのか、中断したのか、ペンがインク壺に刺さっていた。 

「ん?」

「怖かったのか?」

「あー、怖かった。最初は。あの程度の高さでも人間の感覚のまま普通に怖くて手足が震えてたし、それで逆立ちしたらそりゃひっくり返るよな」

 ――でも。

 ジュリアはニカっと笑ってサムズ・アップして見せる。

「でも、一度落っこちたら怖くなくなった。椅子壊す勢いで落ちても、骨とか全然折れないんだもんな。すげーや、吸血鬼! つかそもそもオレ、人間だった頃に逆立ちとか出来たことなかったけど今腕だけで身体支えても身体すげー軽い」

「ジュリアス・ソロワロットは晴れて身も心も吸血鬼になったわけだ」

 デルフィーノが冗談めかして言うので、ジュリアは呆れられた恥ずかしさを忘れられた。

 この二人は差別をしないし、話せばわかってくれるし、ジュリアのことをジュリアスと男性風の名前で呼んでくる。

同性の友人らしい、親しみがこめられたニックネームが嬉しい。

「そ! まぁ、まだよくわかんないとこもいっぱいあるけどね~」

「良かったな。ただ、反省文が嫌ならそれを学園でやるのはどうかと思うぞ」

 ウルリヒの冷静な一言にも、ジュリアは上機嫌を引きずったまま笑顔で「そうなんだよね~」と応えた。

「でも、家でやると血父上に怒られちゃうから」

「どの道、学園からなんのかんのと事あるごとに手紙が行くからバレてるだろうけどな……私も休暇で家に帰る度にえらいことに」

「毎日怒られるよりは、まとめて一回怒られたほうがいいじゃんか~」

「一理ある」

 ウルリヒが真面目な顔で頷いたのでデルフィーノもジュリアも吹き出して笑った。

 三人共、なんだかんだ怒られるようなことをやめられる気がしていない。

「あー笑った。永遠に学園でダラダラしていたいな」

「脱走するくせに?」

「そうさ。私は家に戻ったらそう自由には出来ないからな」

「モラトリアムというやつだな。ここを出るということは、一人前の大人の貴族としての生活が始まる、ということだから……まぁ俺はそんなに責任のある立場ではないから、ここを出ても引き続き好き勝手するがな」

「あー。そういうことなら、オレもまだやったことないこと色々試したいかも。学園出るまでに」

「たとえば?」

「吸血、とか」

 ジュリアの一言で、デルフィーノとウルリヒの肩が一瞬変に強張った。

 流石に多方面に鈍いと言われるジュリアでもそれには気付く程に。

「えっ、何、意外と二人ともそういうネタ苦手?」

「別に苦手というわけでは……ただ、……人間でもそうかどうかわからないが、恋愛や快楽に関わる分野についての話は、あまりシラフでする話でもないというか」

「あー。ウルリヒは割と環境整ってないとそういう話はしない派かー。大丈夫大丈夫、人間でもそういう人は結構いた! 酒飲んだ途端に大声で告白する人とか」

「試したい、ってジュリアス、吸血したことがないのか」

「ゼロではないよ。けど、まだ味の好みとかわかる程じゃない、かな。なんか処女が美味いみたいなイメージあって飲んでみたけどよくわかんなかったな……普段はいつもパックのヤツ……エッチな意味での吸血はまだドーテーでっす! てへへ。デルフィーノは経験多そー」

「どうだかな? ちなみに貴族はあんまり咬んだ人間の話は下品だからしたがらないぞ、という前提は一応教えておいてやろう」

「まじ? あぁ、でもまぁ、そうか……確かに上品な話じゃないね! でもオレ、デルフィーノがそんなお上品なヤツだとも思ってないよ」

「デッロはそれなりに老化した男ばかり好む馬鹿舌だから人に話したくないんだ」

「あ!? 馬鹿舌じゃない、言っておくが雑味があるのも華やかな味じゃないのもわかった上での好みだからな!? 若けりゃそりゃ、大体それなりに夢や希望に満ちて、飲み口は甘くなるだろうが……」

「夢とか希望が味に関係してくる……?」

 ジュリアはそんな話は初耳だった。

 人間だった頃、人間を襲う吸血鬼は女子供が好きで、とりわけ美人や処女がもてはやされるのだと、村の誰もが思っていた。

だからジュリアと名付けられた。髪も伸ばして、切ることを許されなかった。大人たちが「男のようにガサツではしたない女だと思われれば襲われまい」と考えたからだ。

姉は逆に男性名で育てられ、髪を伸ばしたり、外で華やかな格好をすることが許されていなかった。

ジュリアの生まれ育った村ではそれが当たり前だった。

 だが、思えば牛や豚だって自身が美味いかどうかなんて考えて生きていないだろうし、人間が牛や豚にそれを理解させることにも意味がないだろう。

かつて捕食される側であったジュリアの認識が捕食する側とずれていてもなんらおかしいことはない。

 そう考えると、食事の話はあまり他人に聞かせないのが吸血鬼のモラルだというのもある程度はそうなのだろうが、ジュリアが元人間、つまり捕食される側だったということに気を遣って誰も話さなかったとも考えられる。

 転化者を差別する風潮は当たり前のように存在しているが、不快を催すだろうと考えて、わざわざ転化者を捕まえて敢えて話そうものなら、流石に下品どころか極めて卑劣な性格と言わざるを得ない。

「そうだ、魂を食うのだからな。死にかかっているよりは元気な方が味が豊かになるし、悪辣な生き様で汚れたものより汚れを被る前の方が臭みがない。諦観や鬱屈も味を落とす原因になるし……まぁ、好みは人それぞれだけどな」

 ウルリヒの説明はまるで教科書の音読のようで、本人の感情や嗜好は混ざっていないようだった。

 ジュリアはウルリヒの好みも聞いてみたいと思ったが、本人が話したくないなら仕方ない、とすぐに好奇心を胸にしまう。

 元人間のジュリアに話しにくいことを話してくれただけでも、十分ありがたい。

「じゃあ、処女で美人でもろくな生き方してないと不味くなるし、性別とか見た目とかはあんまり関係ないんだな」

「そうだ。容れ物をどう取り繕っても、血は嘘をつかない」

 それを聞いたジュリアは、吸血鬼として血を吸う相手を選ぶ意味、指針が見えた気がした。

 上っ面ではなく、心を見て、そして美しいと思ったものの血を吸ってみたい。

 デルフィーノとウルリヒは、そんな美味なる血の味を知っているのだろうか。

 血の味を知ったら、自分はもっと吸血鬼らしくなれるのだろうか――



 結局講義を無断で欠席したアルセールは、自己嫌悪にまみれつつも諦観に手を伸ばし始めていた。

 自分はこの程度なのだ、所詮。

 そう考えるのはとても楽だった。

 普段はにこやかに会話をしている彼らだって、アルセールが顔を出さないからと言って心配などしていないだろう。

 気付いてすらいないのではないか。そうであってくれるとむしろ、安心出来る。

 もし誰か尋ねてくるとしても、今日はあまり応対したくない。笑顔を作れる自信がないのだ。

 弱くて暗くて惨めな姿を見せる勇気も余裕もない。

 美しくて、柔和で、誰にでも笑顔を見せる麗しの金髪紅眼だから、取り立てて才能のない、元々は高貴な血筋でもないアルセールに微笑みかける者がいるのであって。

 そうでないアルセールなど、誰も愛さない。

 わかっている。

(もしジュリアが尋ねてきたら、彼の慈愛の心は本物で、尚更僕は下になど見てはいけない相手だった、と痛感させられてしまうな)

 そんなことを思った所為だろうか。

 ドアのノックが聞こえた。

(眠っているふりをしようか)

 ノックだけで、声をかけてこないので誰だかわからない。

 もし教官か寮監だったら出た方が良いかも知れないとも思ったが、ノックの主はもう一度ノックをするだけで、それ以外の音を立てない。

 気配に神経を研ぎ澄ましてみる。

しかし、既に立ち去ってしまったのか、魔法を使って相手が気配を消しているのか、そこに立っているかどうかさえわからなかった。

 しかし、ノックは繰り返された。

 こちらが起きているのが悟られているのだな、と判断して、渋々ベッドから下りてガウンを羽織る。

「どちら様?」

 答えはない。が、立ち去る気配もない。

 誰だかわからないが、悪戯のつもりだろうか。

「……」

 当ててみせろとでも言うのか、と思ったが、そんなことをする人物に思い当たりがない。

そのまま居座られても困るので、訝しみながらも鍵を開けながらダメ元で「ジュリアかい?」と声をかけた。

 しかし返事はなく乱暴にドアが開けられ、押し入って来た男はジュリアではなかった。

 驚くアルセールをよそに、男は後ろ手に鍵をかけて、責めるような口調で「違うよ」とようやく答える。

「どうして……ダリエンツォ卿……」

「驚いたかい? ソロワロットじゃなくて」 

 ダリエンツォはアルセールに特に懇意にしている男たち、周囲が取り巻きと呼んでいるグループの内の一人である。

 最も年上で、侯爵家の長男ということもあって彼らの中で唯一上から目線で語りかけてくる男。

 アルセールからすれば敬語で対応したい立場の相手なのだが、相手がよそよそしいからよしてくれと言うので渋々対等な言葉遣いを心がけている相手。

「いや、その、昨日最後に会話したのが彼だっただけで、別に訪ねてくると思っていたわけではないんだけれど」

「そうかい? ならよかった。あんなのを部屋に入れたりしたら、口さがない者は転化者同士お似合いだなどと陰口を叩くだろうからね。本当は口をきいてやることもないさ」

 常々彼が第三者をこき下ろしながら「おまえだけは特別に構ってやるのを感謝しろ」と言っているのはわかっているが、今日はそれが一段ときつく響いてくる。

「それで、今日はどうしたんだ? 講義に出てこないから心配して来てみたんだが」

「少し、気分が乗らなくて……」

「具合が悪いわけではないなら良かった。……でも勉学に熱心な君がそんな事を言うなんて。まさかソロワロットになにかされたのかい?」

「まさか。なにもされていないよ」

「本当に?」

 ダリエンツォが一歩前に出て距離を詰めてきたので、アルセールは反射的に一歩後退った。

 なんて下衆な勘ぐりを、と思っても言葉には出来ないし、顔にも出す訳にはいかない。

「本当だよ。挨拶をして、少し話をしただけ」

「普段挨拶もしないのに一体何の話を?」

「それは……」

 大したことを言われたわけではないが、ダリエンツォの機嫌を損ねない答えは何だ、どう表現すれば己の評価が下がらずに済むのか、と思い悩んで口ごもる。

 その様子にダリエンツォが苛立つのがわかって、逃げ出したくなる。

 逃げ出すにはダリエンツォを躱して鍵を開けなくてはならないので、既に積んでいるのだが。

「私に言えないようなことを?」

「いや、なんて言ったら良いのか。彼の真意がわからなくて……ただ、友だちになろうと彼が言って、それから、すぐに……彼が、やっぱり自分は僕に釣り合わないからやめておく、と訂正して……そういう趣旨のことを言われただけなんだけれど」

「は?」

 ダリエンツォが一音吐くと同時に一歩踏み込む。

アルセールはその怒気に足が竦んで、一歩後退ろうとしてたたらを踏んでしまった。

「えっ、な、何を」

「君はあんな奴に、そんな軽率に、中途半端に口説かれて、それをそんなに気に病んでいるのか?」

「口説かれてなんか……」

「困るな。もっと自覚してくれないと。私を含め、君を愛する男はいくらでもいるのに、転化者なんかに気を取られないでくれないか」

 ダリエンツォが怒っている理由がわかり、その怒りを鎮める効果的な方法が思いつかず絶望する。

 勝手な思い込みにせよ、潰されたメンツを穏便に元通りにする方法などあるだろうか。

「違うんだよ、本当に、彼が変わり者なのは知っているだろう? あれは口説いてなんかいなかった。それに……それを気にして休んでいたわけでもないんだ。信じてくれないか」

「そうだろうか? まぁ、君がそう言うのなら信じよう。ただ、君はとても美しいから……その美しさに相応しくない男は遠ざけるに限る」

 ダリエンツォが発した不穏な言葉に、アルセールは一層恐怖を感じる。

 吸血鬼になって何十年も経つが、自他を未だに同じ生き物と思えない。まるで蛇に睨まれた蛙の心地だ。

 こういった感覚が抜けきらないから、元人間、転化者、と侮られ、蔑まれるのかもしれない。

「……遠ざける、って?」

「なに、学園からいなくなってもらうだけさ。彼はまだ若いし、どうしても学園に在籍したいなら私達が卒業してからまた入ってくればいい」

「そんな……」

「なんだ? 別段親しいわけでもない、一言二言会話しただけなんだろう? それとも……彼に情けをかけたいというのかい?」

「いや、情けだなんて……ただ、彼相手にそこまでしなくても良いんじゃないかな、というか……、ヒッ」

 つい反射的に庇ってしまったが、完全に悪手だった、

 逆上したダリエンツォが詰め寄って、意識せずとも勝手に足が震えながら後退り、アルセールは踵にベッドの脚が当たるのを感じた。

「やはり……あの男に気があると見える」

「ちがっ、違う、やめてくれないか、そんな事を言うのは。昨日初めて言葉を交わしたんだよ、それも偶然。そんな気があるわけがないよ」

「では、何年も共に過ごしている私にはかなり分がある、と考えていいんだろうね?」

 ダリエンツォが笑顔を見せ、声音は柔らかくなったが、怒りが引いたわけではないのは明白だ。

 その証拠にアルセールはベッドに突き倒された。

「下手に抜け駆けをすれば面倒なことになると思っていたが……ふふ、心配して訪ねてきたのは私だけということを改めて考えてみるがいい、アルセール」

 考えるまでもない。毎日会話を重ねていて、どれだけ称賛や甘い言葉を浴びせてきても、彼らが心の底からアルセールを慕っているわけではないことなど。

 そして、ダリエンツォが頭一つ抜きん出て下心を持っていたということも。

 こういう事態を避けるために、誰に対しても満遍なく笑顔を向けてきたのだ。どうせ愛されはしないのだから、勝手に牽制し合ってくれと考えて必死に均衡を取ってきた。

 いざとなった時に身を守る手段がないのは、アルセール自身が一番良くわかっている。

「やめて、僕は」

「血父上に操立てしているのか?」

「……ッ、お血父様は……僕を抱いたりしないっ!」

 咄嗟に声を荒げてしまった。

 大声を出すアルセールを押さえつけようとダリエンツォが乗り上げてくる。

 怖くて、情けなくて、泣き出しそうになった。

「そんな顔はよせ、悪いようにはしないよアルセール。君から血を吸えば、私の血に染まってしまってせっかくの金髪が失われてしまうし」

 耳元に手をかざされて、アルセールの肩が震える。髪を耳にかけながらくすぐるように撫でられ、アルセールは恐怖と緊張のあまり現実感を失い始める。

(いっそ噛まれてこの髪この瞳を失ったら、静かに暮らせるだろうか)

「転化者は吸血鬼に対する恐怖が抜けきらないことがあると聞いたが、君もそうなんだな。大丈夫さ、噛んだりしないし、セックスなら人間同士でもするだろう? 何も怖いことはない。もう怒っていないし、優しくしよう」

 キスをするつもりなのだろうが、牙の見える口が近付いてくるのが怖くて反射的に目を瞑った。



 このまま黙って犯されれば、命まではとられないし、最悪ダリエンツォの恋人になったということにしてしまえばそれはそれで立場が安定するかもしれない。

 勿論、苦痛は苦痛だ。

 だが、弱くて、賢くもなく、周囲に怯え、ただ美しいとちやほやされることしか能のないアルセールには、遠からず訪れる未来の形だったかもしれない。

 唇、耳、首筋、鎖骨、胸、と唇が触れる度、諦めが広がり、現状を受け入れて、笑顔を浮かべて仮初でも愛を乞うポーズが出来るようになっていく。

 これまでそうして来たのだから、これからもそうして生きていくのだろう。

 上手くなったら、他の男とも寝たりして。

 より大きな傘へと持ち替えて、降りかかるものを避けて生きていく。

 それがアルセール・ダニエル・セシャンの大人になる手段なのかもしれない。

 そう、そこまで思えたのに。

「アルセーーール!!」

 防音結界が仕込まれた扉を越えて、というよりぶち破りながら怒鳴り込んできた闖入者が、アルセールの後ろ向きな覚悟も、怠く淫らな空気も、全てを台無しにしてくれた。

「やっと壊れた! アルセール!」

「貴様……ッ、ソロワロット……!」

 ダリエンツォが怒気を膨らませて立ち上がる。

 アルセールは唖然として、ベッドに倒されたまま、天井を見つめてジュリアの方を見ることすら出来ない。

「友達じゃないのにこんなこと、お節介だと思うけど、オレはそういうのダメだと思う!」

「友ですらない貴様が何を言う? アルセールは貴様のことなんぞ、同じ転化者同士とも思っていないぞ!」

 ダリエンツォの言葉で、首が絞められたような苦しさを感じる。違う、などと言えない。実際彼を見下していた。

 だが今は逆だ。

 強姦に抵抗するどころか、売春にしてしまおうと企むような卑しい血を、彼の闊達な在り方と、比べるべくもない。

 どうして同じ立場などと思えようか。

「別に? だからなんだよ。それこそ、アルセールはアンタのしようとしてること、心の底じゃ受け入れてないってわかってるのか? オレ耳だけは良いからな、防音結界越しでも聞こえるんだ。大して縁もないオレを庇ったのも、根も葉もない噂を、本当は否定したいけど普段から黙って耐えてるのも。アルセールは、自分さえ耐えれば、って思う性格なだけだ。アンタの性根が腐ってて、やめてって言っても絶対やめないのがわかってるから諦めただけだ!」

「なんだ? 自分の方がアルセールに相応しいとでも言いたげだな? 馬鹿め、我々の世界を未だ何も知らないと見える。貴様のような貴族と名乗るのも烏滸がましい下賤の分際で、その声が誰かの耳に届くと思っているのか」

「声なんて届かなくたって良い。オレは馬鹿だから、別に理屈が通る方法じゃなくたって全然構わないからな!」

「は!? 何をする気だ!?」

 ダリエンツォが狼狽した声を上げたので、ようやくアルセールは目を開けて顔を起こした。

 なんとジュリアがぶち破った扉を振りかぶっている。

「布団かぶってろアルセール!」

 そう怒鳴ると、ジュリアはアルセールが動く前に振りかぶった扉を窓に投げつけた。


 窓が割れ、アルセールの部屋の防音結界は二箇所が破れる事態となり、流石に何事だと庭から様子を見に見上げる者が現れた。

 講義が開かれている時間帯なので寮には殆ど生徒がいないが、職員はゼロではない。彼らが駆けつけてくる前に、とダリエンツォはすぐさま部屋を出て行った。

 恐らく先手を打って寮監や教官に事情を話しに行ったのだろう。ジュリアが悪者にされ、一方的に罰されるように。

「ジュリア……?」

「悪い、アルセール。ドアも窓も壊しちまって。どうせ後で怒られるのはオレだから、ちょっとオレに付き合ってくれよ。壊しといてなんだけど、ここ、落ち着かないだろ」

「え、う……うん」

「それから、服。着て。オレも落ち着かない」

「!」

 アルセールは自らがかなりあられもない格好に乱されていたことを思い出し、ジュリアにシーツを持って廊下を向いて立たせて服を着替えた。

 

身支度を整えたアルセールは、ジュリアに連れられて彼の部屋を訪れた。

本人のやんちゃで洒落っ気のない印象に反し、部屋の調度品は適度に品が良く、貴族然とした佇まいの部屋だった。

 あまりまじまじと見たことがなかったが、よく見れば衣服やアクセサリーもどこかオリエンタルな雰囲気で独特な形だが品が良い。

 ソロワロット家の新しさから、それだけで侮蔑する貴族もいるが、調度や装身のセンスは一流と言って差し支えあるまい。

「ソファ、好きな方座って」

「ありがとう」

 ジュリアに進められるまま一人掛けのソファの一つに腰を下ろすと、ジュリアもソファを動かしてアルセールの左斜め前に座った。

「アルセール、改めて部屋めちゃくちゃにしてごめんな……他に方法が思いつかなくって……」

「いいよ。僕も……君が来てくれてよかったって、思っているから」

「聞こえちゃったら黙ってらんなかったんだよなぁ。昨日元気なかったし、いつも一緒にいる奴らを見かけたのに、アルセールがいなかったから気になって、部屋この辺だったよな~、と思って見に来たんだけど」

「……恥ずかしいことを聞かれてしまったな」

「悪い。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、オレの耳。ほら、尖ってて長いだろ? 聞こえちゃうんだよ、この程度の防音結界だと」

「ちなみに、どこから聞こえていたのかな」

「オレを学園から追い出そうって言ってた辺りから。そういや、あいつなんでオレにあんな敵意あんの? いや、嫌われてても不思議はないけどなんであんな」

「……、知らない方が良いと思うよ」

「オレ、なんか悪いことした?」

「誓ってしていないね。彼の誤解で、逆恨みだ」

「ふぅん……」

 ジュリアは内容を誤魔化されても、深く追求しなかった。

 アルセールはホッとする反面、少し晴れきらない思いを抱える。

 だが、ダリエンツォが嫉妬した経緯を説明するのはあまりにも気まずかった。

「僕の方こそすまない、僕と彼らの問題に君を巻き込んでしまって」

「んや、オレが自分から声かけたんだし。別に助けて欲しいとも言われてないのに突撃したのはオレだからさ」

「でも……」

「オレは怒られても平気だから。反省文書くのは慣れてるから心配要らない。どうせ多分、デルフィーノとウルリヒもまた近いうちに反省文書かされるから仲良くやるよ」

「……アンドレオッリ卿とディトイェンス卿?」

「そう。さっきまで一緒に反省文書いてたんだけど、なんだか挙動不審だったからな~。あれは余罪を隠してる態度だと思う。しかもすぐバレるやつね」

「彼らと仲がいいのかい?」

「まぁ、悪くはないんじゃない? 反省文書くのが被った時くらいしか話さないけど、それでも何度か話してるから、ジュリアス、ってあだ名で呼ばれるし」

「男性名?」

「そう。村に伝わる吸血鬼避けのまじないみたいなもんで女性名つけられたんだけど、もう吸血鬼を恐れる必要がなくなったんだから男性名で呼んだって構わないだろ、って」

「僕もそう呼んだほうが良いかい?」

「いや? どっちでも。ジュリアって名前も別に嫌いじゃないし、純血の人が気になるんだったらジュリアスでも全然構わないし、って感じ」

「本当に気兼ねしない友達なんだね。……そして、それだけ親しくなるくらい、君も彼らも何度も反省文を書いてる、と……」

「オレはそんなでもないよ! ウルリヒはデルフィーノに付き合って書いてること結構多いって言ってたけどね」

 アルセールはため息をついたが、内心「そんな生き方も許されるのか」となんだか目から鱗が落ちるような気付きがあった。

 彼らが破天荒なのは勿論だが、アルセールもかなり視野が狭かったのかもしれない。

 臆病者は、隠れているものがなんだか知れぬうちはカーテンの向こうを見ることも出来ないのだと思い知る。

「まぁ、そんな感じだからほんとにオレの心配はしなくていいから。そんなことよりさ」

「……なんだい?」

 ジュリアがそこで一旦口をつぐんだので、アルセールは続きを促したが、それでもすんなり続きは語られなかった。

 ジュリアはどこかバツが悪そうにしているように見え、また何から話せば良いのか迷っているようでもあって、アルセールは一体何が語られるのか、少し怖くもあった。

「えーと……アルセール、怒らないで聞いてくれよ?」

「つとめて冷静に聞くつもりだけど、僕が怒るようなことなのかい?」

「うーん。オレ、悪気なくても結構怒らせるから……吸血鬼とか貴族とか言われても、やっぱり元がそうじゃないからわかんないんだよな」

 ジュリアがそのことを口にするのは二回目だった。

 感じなくても良い引け目だと思う。

 ジュリアはアルセールをまっとうな吸血鬼貴族だと認識しているようだが、それも誤りだ。

 最初に言われた時は体裁を気にして言えなかった、自らの柔らかいところにしまってあった言葉を口にした。

「……大丈夫、僕も元は人間だよ。僕だって、本当は全然馴染めていないんだ。この暮らしに」

 言ってしまうと、少し胸のつかえが取れた気がした。

 ジュリアの表情にも安堵が見える。

「アルセールも……そっか、そうだよな。オレもあと三、四十年程度じゃそんなに変わる気もしないし、産んで育ててくれた両親の存在が、ゼロになる日は来ないもんな……」

「僕は孤児院で育ったから本当の両親を知らないし、元々社交的な性格じゃないから、人間社会で育ったとしても馴染めなかったかもしれないけど、それでも……血父を心の底から親と思えたことは、まだないからね」

 自分の口を動かして言ったのに、アルセールは自らの言葉に驚いた。

初めて口にした。自分の出自も、血父への思いも。

言葉にしてみると、それに触発されて押し殺されていた感情が溢れてくる。

「なんで……?」

「血父は実子に恵まれず、最愛の奥さんに先立たれてしまった。奥さんのことを心の底から愛していたんだろうね、再婚を考えることは出来なかったらしい。それでも自分で育てる後継者が欲しくて身寄りがない人間の子供を養子にしたんだと聞いたけど、僕が最初の子だったとも思えない。だって、上手く転化出来ずに死ぬ可能性だって少なくないからね。もしかしたら上手く転化したけど選ばれなかった子もいたんじゃないかな、とも思うし」

「犠牲になった子のことが気になる?」

「気にならないわけがないじゃないか。生まれつき吸血鬼だったら死んだ人間のことなんて気にならないだろうけど、僕は違うから……」

「……そう、だよな……」

「だから、ジュリア。君だけが元人間と思うのは大きな間違いさ。僕は君が思うほど、れっきとした吸血鬼貴族ではないんだよ」

 こんなに気を許してしまって良いのだろうか、と不安を感じる部分がなくはない。

 純血の吸血鬼に聞かれたら何を言われるかわかったものではない内容だ。

 自分はあなたたち吸血鬼を人殺しだと思っています、と触れ回るようなもの。

 人間だって他の生き物を殺して食べるのだから、殊更吸血鬼を責めるのは理屈に合わない。そう思っているし、今は自身も血を飲んで生きている。あれから何十年も掛けて自分なりの一つの納得は得られているが、元人間のアルセールがそんな事を言っても純血たちは信じないだろう。

 だが、ジュリアは。

 この闊達な男は、たとえ仮に純血だったとしても、アルセールの迷いや劣等感を受け入れてくれるような気がした。

「オレ、もしかしたらアルセールより人間じゃなくなってるかもしんない。そんなんじゃアルセール、今まで辛かったんじゃないか? まだ怖いんだな、吸血鬼のこと」

「……そう、だね。違うと言ったら、嘘になるかな。必要以上に怯えているかも知れない。確かに君には友人もいて、僕と違って順調そうだ」

「いや、そうじゃなくて。あ、友人を怖いと思わないのは違わないけど、でも、そうじゃなくて……。オレ……実はその……吸血してみたくって」

 吸血。

 その言葉に一瞬喉がキュッと締まるような感覚があった。

 アルセールは今まで一度もしたことがない。

 したいと思ったことがないし、性交のような意味合いもあると聞いて、尚更避けてきた。

「そ、っか。僕は今の所パックで十分だけど……」

「うん……それも食欲って意味じゃなくて。多分、好きな人噛みたいんだと思う。普通、人間だったらさ。好きな人に痛い思いさせたいってのは……少数派だし。変かなって思うけど吸血鬼だったら当たり前なのかな……」

 ジュリアは、アルセールよりかなり若いのに随分と吸血鬼の肉体に馴染んでいるのだな、と驚く。

 本人が強く謙遜する所為で、もっと人間らしい感覚を残しているのだろうと勝手に思い込んでいたアルセールは面食らってしまった。

 それでも、アルセールを否定したり卑下したりしそうにないジュリアのように、アルセールも相手を受けとめてやりたい、となるべく顔に出さないよう努める。

「……引いた?」

「いや、そんなことはないよ。確かに君の方がよっぽどちゃんと吸血鬼になれてる、と思って」

「それはどうかわかんないけどね。ちょうど今日ウルリヒとデルフィーノに聞いてさ。吸血してみたいって言ったら色々教えてくれて。どれだけ器を取り繕っても血は嘘をつかない、だってさ。かっこつけちゃって。でもそれ聞いたら、すげー好きって思える人の血って美味しいんだろうな、って思って」

 吸血への憧れを語るジュリアの表情はどこか爽やかで、恍惚の色が混ざってもいやらしくなく、羨望と少しの嫉妬、なにより強い劣等感がアルセールの胸を焼く。

 少し苦しい。

「アルセール? あ、ごめん、流石に人の血吸いたい話なんて、聞きたくないよな。オレ本当無神経で……」

 優しく気遣われることで、劣等感が尚更加速する。

 どうしてこの男は、こんなに素直に生きられるのだろう。

 どうして自分は、いつだって惨めなのだろう。

 ジュリアを安心させたいのに、笑顔を作るのが難しい。

「違うよ、それは、大丈夫……ただ、ちゃんと吸血鬼になれている君が羨ましくて……」

「アルセール……」

「僕は、器を取り繕うことしか出来なくて……本当に見た目と振る舞いだけなんだ。気高くなんてなれないし、強くもなれない……いつまでも、いつまでも。だからあんな目に遭うんだ。君が助けてくれなかったら、僕はダリエンツォ卿の愛人になっていたよ。裏で蔑まれているのも当たり前。狩られる側から一歩も動けていないんだから」

「それは違う」

「違わないよ、この髪と目がなかったら、きっと血父も僕を選ばなかったさ。周りもみんなそう思っているから、僕が血父と寝ていると思うんだろうし、無理もないと思うよ」

「……」

 ジュリアが何も言わないので、アルセールは自分がみっともなく自虐を言い過ぎたと気付いて恥ずかしくなった。

 泣きたくなったが泣いているところなんて見せたくない。

 いっそ霧のように消えてしまいたい。

「すまない、聞き苦しい話をしすぎたね。でも……これでもう、君は僕に引け目を感じる必要はなくなっただろう。あぁ、でも。だからと言ってあまり気軽に話しかないでくれるかな。君に罪は無いけど、もう今日みたいなことに君を巻き込みたくないから」

 精一杯それだけ言って、その場から消えたいくらいのアルセールは立ち上がろうとした。

 その手を、ジュリアが掴んで引き止める。

「アルセール、やっぱりそういうとこあるんだな。そういう気がしたからオレの部屋に来てもらったんだぞ? それすげー悪い癖だ……」

「離して」

「どうして」

「……、恥ずかしくて! 苦しいんだ、自分がみっともなくて! 君の前じゃ、この髪と目もなんの意味もない」

 それだけ言っても、ジュリアは手を離さなかった。

「これ以上君に僕の弱いところを見られたくない。耐えられないよ。君が優しいからついつい話してしまったけれど」

「オレは優しくなんかない。アルセール、アンタにばっかり話させて悪かったよ」

 言葉を一旦途切れさせたジュリアの手に、僅かに力が入った。アルセールは唇を噛む。

「そもそも、オレの話を聞いて欲しくて部屋に誘ったんだ。話しても良いか確認したくて……、話したくないことまで話させてごめん。オレ本当バカだから……」

「離して……」

「離さない。……アルセール、オレ、アンタの血が欲しい」

 驚いて振り向くと、ジュリアの刃のような色の瞳が、まっすぐアルセールを貫いていた。



 ジュリアはあの日、隣の村を訪ねていた。

 亡くなった祖母の実家があったので、家族で赴くことが何度かあった村だ。祖母が亡くなった今、その村に親戚はいなくなったが、ジュリアはその村に住む少女に片恋をしていた。

 名前も知らない。栗色の髪を二つお下げにしたそばかすのある少女。いつも母親のお下がりの丈を詰めたであろう地味な色の服を着ていて素朴な雰囲気だが、声が可愛くて、笑顔が明るい。

 父と花屋を営んでいて、病弱な母を助ける働き者らしい。

 祖母の弔いに行った時、花を配達しにきて一目惚れした。

 ジュリアの村にはそんな格好の少女はいなかったから、というのも要因だったろうが、当時はそんな自覚はなく、ただただその少女に憧れのような恋心を抱いていた。

 直接言葉を交わしたこともない少女だったが、どうしても姿を見たくて、農作業の手伝いの合間にこっそり隣の村に行っていたのだ。

 厳格な父にバレたら怒られると思って家族全員に黙っていたが、年頃で恋愛に目敏い姉にはバレていたように思う。

 姉はマセた弟の初恋を微笑ましく見守っていたのだろう、誰にも話さず黙っていてくれたようだ。

 知ればお節介な母はきっと余計な手助けをしようとしただろうし、老いた祖父はうっかり口を滑らせただろうから。

 だから、あの日もジュリアは、誰にも告げずに村を出た。

 別れの言葉も、再会のおまじないも言わなかった。

 だから二度と会えなくなったのだと思い、激しい後悔に悩んだ時期もあった。

 あの日、ジュリアの村ははぐれ吸血鬼の集団に襲われた。

 日没と同時に襲撃され、村人は一人残らず殺された。

 少女の店で花を買おうか、今日こそ名前を聞こうか、と店が閉まるまで悩んでいたジュリアだけが生き残った。

 すっかり日が暮れてから隣村を出、静まり返った村に帰ったジュリアは残された陰惨な景色に出迎えられ、自らが全てを失ったと悟った。

 厳格な父のズボンが尿と精でぐっしょり濡れていた。

 お節介な母は四肢と胴と首がバラバラにされていた。

 年若い姉は散々犯され、脚が変な方向を向いていた。

 祖父の血液すら、一滴たりとも残されていなかった。

 吐いた。泣いた。叫んだ。頭がおかしくなりそうだった。

 どうして自分だけが生き残ってしまったのかと嘆き、自死を考えた。到底生きていけない。生きていく術も無ければ、縋るべき希望も、頼るべき家族も、全て失ったのだ。

 しかし、村にある刃物も銃も、武器になりそうなものは全て、吸血鬼との戦闘で破壊されていた。

 嬲られたのだ。奴らは、人間たちにあらゆる抵抗の手を尽くさせて弄んで殺したのだ。

 かくなる上は、とジュリアは教会の屋根に登った。

 高くて、怖くて、脚が震えた。

 村で一番背の高い建物だ。

きっとここから落ちれば死ねる。そう思った。

 だが、その姿は村の外からでも月を浴びて目立ってしまい、飛び降りる決心がつく前に旅の途中だったソロワロット伯爵の目に留まった。

 かくして、ジュリアは吸血鬼となった。


「オレは、盗賊みたいなはぐれ吸血鬼に家族を殺された。その遺体を見た。それなのに今、人の血を吸いたいと思う。狂ってるのかな、と思う」

 ジュリアの独白に、アルセールは言葉を失っていた。

 転化者の過去にはそういった悲劇がある可能性が高いとわかっていたのに、ジュリアの屈託のない社交的な振る舞いを見て楽観視していた。

「血父上は、優しくて、正しくて、オレに何でも与えてくれた……名前も、吸血鬼避けにつけられたのに、両親との絆だからそのままで良いって言ってくれた。その上、跡を取ることは考えなくていいとまで……。元々絶やしても構わないと思っていたから、オレを助けたのはオレがひとりぼっちだったから、それだけだって言ってくれた。だからオレはちゃんとした貴族になって、ソロワロット家を継ぎたいと思えた。貴族でいれば、家族を殺した吸血鬼とオレは違うと胸を張れる気もして」

 アルセールは、ジュリアが何を思ってそこまで打ち明けてくるのかが理解出来ていない。

 こんなのは秘部だ。人に見せるものではない。

 元々孤児の自分の過去とは比べるべくもない。

 決してつけいられてはいけない急所。

 裸になるより無防備になる行為。

「オレは、いつか完全に人間じゃなくなるんだと思う。それは、多分黙っていてもそうなる……けど、アンタみたいに、優雅な振る舞いをしたり、嫌なこと言われてもぐっとこらえて争いを避けたり、人間関係のバランスだけで勝負してくのは……出来ない。アルセール、アンタのことがすごく綺麗で羨ましかった。全部自然に出来てるんだと思ってたから」

「そんなこと……」

「そう。そんなことないんだよね。自然でもなんでもないって気付いて、余計に気になったんだよ。オレみたいに人間じゃなくなった人生に悩んで、吸血鬼になった自分を許す方法考えて、すぐに出来ないって投げ出したオレと違ってアンタ、貴族になる努力してるんだってわかって」

 ジュリアが腕を引く。アルセールは抵抗を考える前に抱き寄せられ、ソファに座ったジュリアの膝に乗りかかってしまう。慌てて退こうとしたが、背に手が回されて後退れなかった。

 目が熱くなってくる。鼻の奥がツンと痛い。

「アンタ、さんざん髪と目の色しかないって言ったけど、本当はその色が楔になってたんだよな。最も高貴な吸血鬼の色に恥じない振る舞いをしなきゃいけないって。その色の所為で周りの奴らに獲物を見るような目で見られ続けて、なのに怖がってないふりして、上手にあしらい続けて、ずっと闘ってきたんだよな」

 瞳を覆って溢れそうな涙が大きな粒になり、睫毛に乗って揺れている。

「アンタにとっちゃ、オレなんか無視するのが正解だったんだ。変に関われば純血のお坊ちゃんたちの機嫌を損ねるのが目に見えてたんだから。なのに、アンタ、オレの所為で詰られてんのにオレを庇って、犯されそうになって」

 ――オレ、期待しちゃうよ。

 ジュリアに抱きしめられ、アルセールの長い睫毛にひっかかっていた雫は頬を伝った。

 何も言葉が出てこなかった。

「扉越しにアンタがオレを庇うのが聞こえた時、アンタの血が欲しいって思った。別に庇わなくたってアンタに損はないし、オレだって庇われなきゃ学園を出てくの、そんなに未練もなかったよ。ほとぼりが冷めてから戻ればいいって思ったと思う。でもあの瞬間、アンタの貴族らしくない、いじらしいとこを初めて知って……アンタの血、美味いだろうなと思った。学園にいるうちになんとかして手に入れたくなった。それに……家族が全員死ぬのに居合わせられなかったオレが、初めて幸運にも居合わせられたんだ。誰かを助けられる機会に」

 やけどしそうだと思うくらい熱い涙が次々頬を伝う。

 冷え切った肌に、内側から出てくる熱を思い知らされる。

 ずっとアルセールが惨めだった理由がわかった気がした。

「オレ、仮にアンタ以外に血兄弟がいたとして……アンタが選ばれた理由は確かにその金髪と紅い瞳だと思うけど、アンタの考えとは逆だと思う。その色を持ってる転化者を貴族の手から手放せば、絶対ろくな目に遭わないから。はぐれ吸血鬼なんて人間のチンピラの何倍もひどい奴らだ。一番、守ってやらなきゃならないと思ったから、アンタを選んだんだと思う」

「そん、な」

「血父上はきっとアンタを愛してる。アンタだって、気付いてたんだ、本当は。血父上の愛に応えたいから、頑張ってたんだろ?」

 何か言おうとすると嗚咽が漏れそうになり、上手く喋れない。心の中の流れを堰き止めるように突き刺さっていた何かが溶けて、感情が一気に溢れ出してくるようだ。

「なぁ、オレに血を吸わせてくれよ。絶対オレなんかじゃアンタの血を染めたり出来ないから」


 弱ったところにつけいった自覚はある。

 話したくなかったであろう、己の弱さや吸血鬼に対する恐怖を語らせて、泣かせて。それで優しい言葉をかけたら、誰だって頷くだろう。頷いて当然だ。

 受け入れなければ、見せたばかりの秘部をズタズタに裂かれてもおかしくない、そういう思考をしかねない相手。

 わかっててやった。

「嬉しくないかもしれないけど、アンタ、綺麗だ。本当に」

「……っ、あ」

「血も甘くて、吸うの止まんない」

 この味に想像がついていたら、ジュリアはもっと酷いことをしていたかも知れない。

 アルセールの取り巻きたちはきっと、この血欲しさに転化者を持て囃していたんだろう。

 だが無理に噛めば、格が低い転化者は確実に染まる。

折角の美しさが失われる。

それが盾になった。

彼らは穏便にグラスで血を飲める関係を作ろうとして、笑顔の裏で必死に抵抗するアルセールに苦戦し、何年も迂遠なことをしていたのだ。

「アルセール……」

「は、う。……」

 ウルリヒとデルフィーノが言うには、血を甘くするのは夢や希望らしい。

 諦観や鬱屈が味を悪くするというが、ジュリアはこんなに美味い血を飲んだのは生まれて初めてだ。

 今この瞬間、アルセールは何も諦めていないし、未来に希望を抱いている。純粋で、卑屈さのない、外見に見合った気高さを持っている。

(あんなに自己嫌悪して、すぐに貞操も諦めてしまうような性格だけど、やっぱり根本的には穢れてないんだ)

「も、やめて……」

「嫌?」

「おかしくなりそう……」

 とろけるような声だ。それを聞いてすんなりやめられるわけがない。

「牙は抜くから、舐めさせて」

「や、……、だめ……」

 美しいとか、魅力的とか、その程度の生半可な調和の良さではない。

 外見は言うまでもなく、声も、仕草も、心持ちすら、そのバランスに欠けるところがない。

ジュリアにとって理想の体現だ。

 許される限りずっと味わっていたいが、血液は有限だし、あんまりしつこくして嫌われても困る。

牙を抜くとみるみるうちに傷がふさがってしまい、白磁の肌にはキスマークすら残らない。

余韻を楽しむように名残惜しんで肌を舐めて、ようやく解放してやると、アルセールも恍惚の表情を隠す余裕もない程快楽を浴びたと見て取れた。

「アンタの血で、もう何も迷わず完璧な吸血鬼になれる気がする。なんだか大人になった気分。五十過ぎだけど」

「……」

 顔を背けて呼吸を整えながら乱れた着衣を直し、アルセールは何も言わずに聞いている。

 気分を害しただろうか。

「アンタのことが好きだ」

「……お世辞はやめて。恥ずかしいし、惨めになる」

「まだそんなコト言ってんの」

 切り替えが早いのか、賢者タイムのようなものなのか、急に夢から覚めてしまったような態度をとられ、あまりの落差に呆れそうになる。

「アンタのこと、ほんとに好きだよ。純真なとことか、いじらしいとことか。オレよりだいぶ年上なのにさ。善悪とか美醜の感覚とかがまとも過ぎて苦しんでるのも。幼稚とかそういう意味じゃなくて、まだ汚れてないって意味で子供みたい。あと、愛されたがりなのもね」

「やっ、やめて、本当に恥ずかしい。全部僕の悪いところじゃないか。そんな言い方したって可愛くもなんとも」

 本人が恥ずかしいと言う通り、顔が真っ赤だ。

 しかし羞恥に震えながらも、心当たりのある指摘はちゃんと心に届いていて、ちゃんと甘い波紋を残しているようで、表情はそれ程嫌がっていない。

「なんでか自覚出来てないみたいだけどさ、アンタ自分で思ってる以上にしたたかだし欲張りなんだよ。多分、今は裏目に出てるけど選民意識みたいな感覚が強いのも言っちゃえば貴族にめちゃくちゃ向いてる。無理に謙虚にしなくていい、誰かに怯えなくていい。人を傷つけていいし、誰かの上に立っていい。嘘ついて笑って後でメソメソ泣いてるのが一番、きれいな顔には似合わないから」

「……君が無意識に人を怒らせるっていうの、わかった気がするよ」

「気に触った? ごめん。でもアンタが本当にやりたい生き方出来てないのが気になっちゃって」

「君に対して怒りはない。自分の愚かさに嫌気が差しただけ。あまりにも臆病で、強引に奪われるまで自分では何も諦められない、ひどい強欲だった。それに引き換え、君は達観しているね……一体君はいくつなんだい?」

「まだ五十四だけど、単に他人のことだからよく見えるってだけだよ」

「五十四か。人間なら十分過ぎるくらい大人だ」

「そうだね。オレたち、人間と自分を比べるし、吸血鬼とも比べるから劣等感があるんだろうな。どちらとも比べるのをやめたら、実はもっと吸血鬼らしくなれるのかも」

「……そんなこと、出来るのかな」

 キスより深く繋がった後なのだから、本当は、もっと色っぽい話をすれば良かったのかも知れない。

 そう思いながらも、ジュリアは顔色の良いアルセールを見て満足だった。

「出来るだろうし、出来なくても良いよ。誰かと比べて惨めになったら、オレに教えて。そしたら、またアンタの血を吸って、誰より美味しいって言ってあげる」

「! きっ、君ね」

「ふふ。照れた? 可愛いね。……ところで、さっきのどうだった? 吸血童貞なもんで、血父上と比べたら上手じゃなかったかもだけど」

「何、吸血童貞って……! 血父と比べたりなんかしないよっ! 転化した時僕はまだ子供だったんだよ? あんないやらしい吸い方されてない!」

「いやらしかった? ごめんね」

「なんで謝るの!? 本当にそういう所ひどいな君は!」

「ふふ。本当はそういう性格なんだ、アルセール。わかったよ、今度はもっとアンタ好みの吸い方する」

「……っ!」

 そう言って首筋にキスした。

また噛まれると思っただろうに、アルセールは少し身を固くした程度で全く抵抗しなかった。

「……僕好みの吸い方してくれるんじゃないの?」

「焦んないで」

 最高だ。

 大声で叫びたいくらい、本当の本当に最高。

 焦って浮足立ってはならないのはジュリアの方だ。

 舌と唇で焦らしながら、ゆっくり牙を立てる。

 アルセールの喉の奥が震え、ため息のような喘ぎが漏れ、耳の奥が熱くなる。

 牙の先で滲んだ血は、先程のよりも更に甘く、より華やかで芳しい香りになっていた。



 結局その日は丸々講義をサボった。

 初めて言葉を交わして二日目だったのに、散々いちゃいちゃしてしまった。

 途中、寮監が訪れてジュリアが詰問された場面もあったが、アルセールが事情を説明し、またダリエンツォを責めるつもりもないと明言したことにより、報告書の提出で(反省文と大して変わらないと思われたが)事なきを得た。

 それ以外は誰も訪ねて来なかった。

「泊まっていくよね」

「窓もドアも壊れた部屋じゃ眠れないからね……」

 アルセールの部屋のドアと窓は、日中吸血鬼たちが眠っている間に人間の奴隷に直させることになったらしい。

 結界を張り直す関係もあり、工事と合わせて三十時間程部屋が使えないそうだ。

「血父上に怒られるかなー。でも今回のは怒られない気もするんだよなー」

「僕がソロワロット卿に手紙を書くよ」

「責任とって息子さんをくださいって?」

「君ね……」

 溜息を吐いてみせると、ジュリアは「今の所はまだ冗談だよ」と笑った。

「いくら君の血父君が、家を継がなくても良いと言っていてもね。そういうものじゃないよ」

「そーねぇ。まぁ、うちは初代様が人間と駆け落ちして失踪してるし……その時点でもう、どうかと……それにオレだって跡取りにするつもりで拾ったわけじゃないって言うの本当だと思うから。……でも、よそは当主同士ってどうなのかな……やっぱり禁断の恋?」

「有名な所だと、ヴィヴィアン・ブラックモア卿とか」

「ん! 聞いたことある。転化者の有名人」

 ヴィヴィアンはブラックモア家の先代当主である。

 没落の一途を辿っていたかつての大貴族、当時は田舎貴族とまで呼ばれるようになっていたドン底のブラックモア公爵家を一人で立て直した英雄だ。

 黒髪黒目に黒い翼を持つ家の純血を保とうと近親婚までしていた所為か、ブラックモア家は代を追うごとに魔法も生殖能力も弱まり、寿命まで短くなっていた。

そんなブラックモア家に養子として入り、やれ色のついた髪は汚いだの無翼の男を当主にするわけにはいかないだのという老害を武力と政才で蹴散らして、計五十人以上の妻と愛人を持ち、百人以上の子を成し一気に大貴族の座に返り咲かせた豪傑である。

 特にその武勇は、魔力で高速飛行しながら研ぎ澄まされた剣術を振るうことから翼なきドラゴンの異名をとる程で、領内にはびこった大型害獣や賊を一掃するだけにとどまらず、他家との衝突時には決闘を行い、完膚なきまでに叩きのめし、次代に当主の座を譲って隠居した今も恐らく彼に勝る武人はおるまい、と恐れられている。

「彼の隠居の一番の理由は、他家当主との愛人関係らしいと聞いたことがあるよ。まぁ、何百人も子孫を作って次代を任せられる黒翼の後継者がようやく育ったからっていう理由も勿論あるんだろうけど」

「当主としての役目が終われば、何しても良いってことか」

「隠居しようとしまいと、かのブラックモア卿に逆らえる者がいる気もしないし、彼の功績を考えたらようやく与えられた安息、という感じだと思うけどね」

「……なら、尚更立派な貴族にならなきゃいけないな」

「そう?」

「だって……オレの隠居、待ってられる?」

「何百年先の話?」

「こんな美人、横取りが怖くて何百年も待たせらんない」

 頬を撫でてくるジュリアに「もう二度とつけ入る隙を見せないから見損なわないで」と答える。

「ねぇ、ジュリア」

「なに?」

「君は僕の血を美味しいって言ったけどさ」

「うん。美味しかった」

「君が噛んだから、美味しくなったんだと思う」

 ――もう昨日までの僕とは違うよ。君に噛まれたからね。

 そう、少し躊躇ったが恥を忍んで言ってやった。

「まぁ、オレも他の奴じゃアルセールの琴線に触れないし無駄に劣等感煽りまくって、こうはいかなかっただろ、とは思うけど」

「君ね!」

 顔から火が出そうだが、震えて声が出ないよりはマシだ。

 明日から自分たちが貴族の子息ばかりのこの学園という狭い社会の中でどうなってしまうのか、想像もつかないが、ジュリアを見ているとどうなったっていい、特に、ジュリアには何を言ったところで効きやしないだろう、と思う。

「あぁ、怒ってても綺麗だな……」

「しみじみ言ったって誤魔化されないからね」

「アルセールってさ、薄々気付いてたけど、実は結構ナルシストだよね。綺麗って言っても全然効かない」

「!?」

「一皮むけたアルセールを見るみんなの反応が楽しみだ」

「明日も講義を休む!」

「良いよ? それはそれで。オレは反省文書いて来なきゃ。アルセールのこと根掘り葉掘り訊かれるだろうな~」

「ジュリア!」

「一緒に講義行こ」

「~~~~~~っ、わかったよっ」

 およそ貴族らしからぬことを言うジュリアの前では、アルセールも何一つ取り繕わずに済む。

 こんなに大きな声を出したのは何十年ぶりだろう。

 これからも他の者の前では、今まで通り上品に取り繕った貴族の顔をするとしても。

 アルセール・ダニエル・セシャンはもう、顔だけの男ではない。


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