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Blue tail

挿絵(By みてみん)

-Blue tail-





 

 夜が満ちきった。

 夏も盛りのこの季節、あと数時間もすれば空が白んでくるだろう。

 この時間でも暑い。灯りに誘われ教室の窓に集まった虫が鳴き散らかしていてやかましい。

 音避けの結界を夜も張ったままにしておけばいいのに、と殆どの生徒が思っていることであろう。

 庭のはずれには蛙もいるから、外は更に大音量の筈だ。

だが、外に出たら恐らく今ほど気にならないに違いない。

 半端に室内にいるから鬱陶しいのだ。

「であるからして、人間などという下等生物の模倣ではあるが、各地に学園が築かれ、若者に知識や教養を身につける機会を増やしていったのである。そもそも教育とは――」

 つまらない授業は抜け出すに限る。

 そもそも、授業なんて無理に受けなくても親が許せば退学はいつだって出来る。

 大体、わざわざ一箇所に集まってする必要なんてないのだ、勉学なんて。

やろうと思えばどこでだっていつだって出来る。

 幸い時間はどれだけ無駄に食い潰そうと、必ず余る。

 それに、今この室内に朗々と響いているのは講義ではない、ただの説教だ――

「――アンドレオッリ君。どこへ行くのかね」

「体調が悪いわけではないので、私に構わず続けてください、先生」

 気まぐれに授業に出てみたが相変わらずつまらないので、教室を抜け出すことにした。


 デルフィーノ・アンドレオッリはこの学園に来ておよそ五十年。

 最初の十年くらいはまだまともに授業を受けていた気がする。

 興味のあるなしに関わらず、まずは基本的な語学、数学、それから貴族として恥ずかしくない程度の馬術、史学、芸術の分野など。社交に必要なダンスやパーティでの所作等も望めば授業が受けられるが、デルフィーノは学園に来る前に馬術とダンスは完璧にこなしていた。

 腐っても男爵家の嫡子である。

 端くれといえど貴族の生まれ、学園に来る前にそもそも最低限は躾けられている。

 元々デルフィーノは要領がいい男で、手先も口先も器用な方だった。

 大概のことはあっという間に基本分野を理解してしまうし、発展分野となると興味がわかない。

 早々に授業をサボるようになり、代わりに狩りの腕を磨いていった。

 狩りが好きなのは血の為せる業だ。アンドレオッリ家は元々猟師なのである。最早逃れようのない本能だ。

 一介の猟師でありながらもあまりに腕が立つので、毛皮を献上していくうちに貴族たちに気に入られ――ざっくり言えば毛皮と媚を売り爵位を買って貴族になったのが初代当主である。

 何代経てもその血は薄まることがなく、今も一族全員が狩りを得意としている。中には罠や毒に長けた者や鷹や犬を使う者もいるが、デルフィーノは、弓や銃が好きだった。

 腕を磨けば相手が死ぬその瞬間まで痛みも恐怖も与えず一瞬で仕留められる。

「Bang」

「っわ」

 狙い撃たれた白衣の後ろ姿はビクッと肩を上げて“人間のように”驚いた。

 優れた嗅覚・聴覚を持つ吸血鬼がこの距離で声をかけられて驚くなんて、知った周囲からは口を揃えて鈍くさいと言われるだろう。

 まともな吸血鬼なら、音もなく歩く相手と言えどドアがレールと擦れる音は聞こえて然るべきだし、いくつも置かれた水槽から放たれる川や湿地のような匂いや、排水口から立ち上る磯臭い死臭に混じっていても、ドアを開けた段階でよく鼻に馴染んだ吸血鬼の匂いが漂っているのを十分察せる筈だ。

「何をしてくれる!! 危うく割るところだった!」

「悪い悪い。割れたのか?」

「割るか! そのために集中していたからおまえに気付かなかった」

「いやはや。その集中力には恐れ入る。私もスコープを覗いている時はそれなりに集中しているが、顕微鏡を覗いているおまえには及ばないな」

 白衣を着た男は「当然だ」等と傲慢に鼻を鳴らし、顕微鏡に何やら薄いガラスの板を震える指先でセットした。

 あんな薄くて脆いものをよく自分の手先で持つな、と感心する。

 デルフィーノとて、本気で握ればへし折れる銃をその手で手入れするのだが。

 人間用に作られた道具は脆くて仕方ないが、この学園にある備品の殆どが人間に作らせたものだ。

 文句を言っても始まらない。

「今日は何を見ているんだ?」

「おまえは今日もサボりか」

「そうだが? 悪いか」 

「別に。ここにいてもいいが、邪魔はしないでくれ」

「しないよ」

「今日見ているのは解剖したニシウツロハナダイの体内にいた寄生虫だ」

「寄生虫」

「特に珍しくもないがな。この寄生虫の生育分布と地域による個体差の出方、それから宿主の種類から海洋環境にアプローチした論文を読んだ」

「筆者は吸血鬼か? だとしたらド変態だな。で、実物を見てみたくなった?」

「確かに一般的に見て気が狂っているのでは? という感は否めない。が、まぁそんなところだ。いずれは俺もあんな美しい論文を書きたい」

「おまえは魚と虫が好きだな」

「鳥も蛙も好きだし、この寄生虫は厳密には虫ではない」

「猫は?」

「生物学上は分け隔てない」

 デルフィーノはフ、と笑って手近な椅子に腰掛けた。

 狭い実験室だ。部屋の真ん中に大きなテーブルとシンクが二つ、窓際に足元が戸棚になっているテーブルがあり、そこにもシンクが一つ。

 白衣の男はその窓際のテーブルで顕微鏡を覗いている。

 両脇の壁は実験用具や本が詰まったガラス戸の棚で覆われて全く見えない。

 テーブルに置かれた水槽に目をやると、小指の爪の先程もない小さな虫だかエビだかわからないような生き物が水草にくっついていた。

 デルフィーノはその生き物には毛程も興味を持てない。

 というよりは、その中に生きている生物に構う余裕がない、というのが正しいだろう。

その程度の量の水でもポンプで流れが作られていると少々忌避感を得る。

 多くの吸血鬼は先天的体質として流れ水に不快を感じる。

(生物学上は、ねぇ)

 生物学は貴族の社会で禁忌視されている。

 研究を進めれば、いずれ吸血鬼を生物として分類する結果になりかねないからだ。

 吸血鬼は大真祖が降臨する形でこの世界に生まれた。

 全ての吸血鬼はその血脈の末端で、大真祖に近ければ近い程尊い血筋であり、貴族を名乗ることが出来る。

 その思想を裏切りかねない、それどころか姿形が似ているが吸血鬼が主食としている“人間”との関連性が明るみになれば、吸血鬼社会全体を倫理的問題で激しく揺るがす大事件になる。

だから生物学という学問に没頭するなんていうのは、控えめに言って変人だし、長老と呼ばれるような古い貴族には唾棄すべき異端児、矯正が必要な社会不適合、貴族の名を汚す恥晒し、こんな若者を野放図にしている家との婚姻は絶対にすべきではない、くらいのことは確実に言われる。

むしろその程度で済むかどうかもわからない。

若者ばかりを集めた学園という環境でさえ、ウルリヒは変人と見做され、大貴族と呼ばれるような家柄の子息、例えば氷白のアウリーンと呼ばれる公爵家の子息であるヴィリアムなどには明らかに軽蔑の目で見られている。

 だがデルフィーノにはそんなことはどうでもいい。

 ウルリヒが何に夢中になっていようと関係ない。

それよりも、熱心に顕微鏡を覗いてはノートに何か書き込んで、を繰り返す後ろ姿、そう、その後ろ姿にこそ興味関心が向けられている。

 猫背気味の背中。白衣の裾は腰上までスリットが入っていて、その間――尻とも腰とも言える辺り――からは、二メートル近い長さの、細かな鱗に覆われてなめらかな曲線を描いた尻尾が生えていた。

 彼の瞳と同じ、うっすら緑がかかった青に煌めく色の尻尾。ただし、先端五十センチ程はくすんだような少々鈍い色に変色している。

 大きなトカゲ状の尾を持つ彼の名は、ウルリヒ。

 ウルリヒ・フォン・ディトイェンス。

「なぁ、行かないか」

「行く可能性は低いが一応訊いておく。どこへ」

「さぁな。学園ここじゃないどこかへ」

「無計画なサボタージュに付き合え、と」

「そうさ。幸い今夜は乾いた風が吹いている。虫も鳴き放題だ。天気は崩れない」

「一人でシャワーも浴びられないおまえの髪がベタベタギシギシになって洗うのを手伝えと言われるリスクがないのは確かに悪くない」

 どこでどう方針を変えたのか、急に振り返り、眼鏡の奥でにぃと笑うウルリヒは、後ろ姿ほど辛気臭くない。



 デルフィーノは一人でシャワーを浴びられないが、ウルリヒは一人で馬に乗れない。

 老廃物や排泄物が殆ど出ない、体表が汚れても魔法で揮発させる等の手段が取れる吸血鬼にとって入浴は人生に不可欠なものではないが、馬は移動手段として一般的である。

 移動するだけなら馬車を使えばことが足りるし、軍は大昔の機械を発掘・修理して自動車を所有したりしているが、一人で気軽に遠出をするメリットは馬にしかない。

「尻尾だけで何キロあるんだったか」

「およそ二十二キログラム」

「肩が凝ってきた」

「俺の腰痛は一生治らない」

 ウルリヒの尻尾は長く、体に対して重すぎる所為で多少動かすことは出来ても「持ち上げ続ける」ことが出来ない。

 仮に鞭のようにしならせて振り回したとしても、本人が重心を維持出来ずに転ぶ。

 それくらい、本人の体格に不相応な尻尾なのだ。

 馬にまたがると次第に垂れ下がり、馬の脚にかかって邪魔。というか、かなり危険である。

 そのため、自分で馬に乗って馬を操った経験がない。

 デルフィーノは子供の頃からそんなウルリヒを前に乗せて、その太くて長い尻尾を肩に担いで手綱を握っている。

「馬も可哀想に。大の大人二人乗せて、その上片方はこんなに重い」

「俺本体の体重が軽いから、体格の良い男と変わらない。鉄の甲冑を着込んで長槍を振り回す、戦時の運用を思えばそこまで不当な重さじゃない」

「確かに、ウルは背も低いし痩せてるが。なんだったら、私にその尻尾が生えていたとして、私の筋力ならそこまで不自由しないんじゃないか?」

「平均身長マイナス二センチメートルは低身長の内に入らない。痩身は間違いないが、筋力が増したところで二足歩行のために発達した体型の生物に尻尾がある時点で負担が大きいのは明らか。うちの他の親族のような、骨しかない状態ならまだしも」

「猫背だからかもっと低いと感じていたな。おかげさまで今も前方の視界が良好だ」

「一体何回このやりとりをするつもりだ。これから何百年生きると思っている?」

「仕方ない。今後は怒られないようミリ単位まで覚えておこう。体重も変化があったらその都度教えてくれ」

「阿呆か」

 体格に恵まれないウルリヒをからかっても、何十年と一緒に過ごしているデルフィーノは本気では怒られない。

 ちなみに怒ったところで、本人は爵位も持たず、魔術も微妙、肉体的な素養も全体的に事を欠く、おまけに生物学を専攻し、人間関係も極端に狭いので頼れる仲間もいない。そんなウルリヒの報復は大したことにならないだろう。

 それに引き換え、人生の半分を猫として暮らすアンドレオッリ家の中でも特に群を抜いた瞬発力、平衡感覚、聴力、視力に恵まれ、弓や銃の扱いにも長けたデルフィーノ。

 いずれ爵位を継ぐ嫡子として育てられているから、ダンス、音楽、詩歌、何にしても一応それなりには出来るし、お蔭で一つ一つの所作に自信が滲む。

おまけに口先もよく滑るので学園の外にはそれなりのコネクションがある。

 子供の頃から、喧嘩になってもウルリヒはデルフィーノに勝てなかった。

 だから怒らないのは諦めもあるのだろう、そういう面ではウルリヒの方が大人かもしれない、とデルフィーノは判断している。それでも懲りずにウルリヒをからかってしまうのは最早悪癖だと自覚していた。

「そろそろ海が見えてくる筈だぞ。鼻の中が海の匂いでいっぱいだ……」

「俺だってとっくに潮の匂いを嗅ぎ取っている」

「せっかく渇いた風が吹いてていい夜だってのに、まさか海に来たがるなんて」

「嫌ならおまえはここで待っていても良いぞ。あとの距離は俺の脚で走ってもすぐだ」

「馬で行った方が早いし、時間も勿体無い。門限なんか私は知ったことじゃないが、流石に帰り道の途中でおまえが日光に焼かれるのは避けたい」

 夏の夜は短い。

 純血の吸血鬼の殆どが苦手としている、日光。その強すぎる光が支配する時間が長い。

 アンドレオッリ家は日光を克服するために吸血鬼ではない存在に完全に化けるという妙手を勝ち得た数少ない一族だが、普通一般的には魔法で変身したところで吸血鬼であることまでやめられるものではない。

 ウルリヒは一瞬にして灰になる程耐性がないわけではないが、三十分も浴びれば治癒に何ヶ月もかかる重篤な火傷を免れないだろう。

「おまえの髪を洗うのは面倒だ、デッロ」

「仕方ない。海風が強いようなら絡まらないように編んで束ねておくさ。束ねてしまうとそれこそ神経の通っていない尻尾のようで無駄に重心を揺らしてバランスが取りにくくなるから嫌なんだが」

「ならばそんなに伸ばさなければいいだろう。おまえの口からは不便な点しか聞かんぞ」

「長い方が美しいだろうが。猫の姿になった私を見て思わないか?」

「毛の手入れが面倒そうな長毛の猫だな、としか」

「それだけか!」

「あとは、毛玉をよく吐きそうだ、とも」

「あっはっはっは! かなわんな」

 

 髪についてのやりとりから十分ほどまっすぐ馬を駆り、岸壁まで辿り着いた時、時刻は二時半を回っていた。

 学園から海までの間、街も道もないので所要時間は馬で四十分程。

 半数以上の吸血鬼が水の流れに不快を感じる体質なので、欧州の海辺にはまともな街が殆ど無い。

 星明りで十分目が利く吸血鬼には全く問題ないが、人間の目では真の闇に感じるような海辺だ。

 岸壁にぶつかる波の音と、岸壁の中腹に生えた植物の葉擦れの音、それから岩の隙間で小動物のうごめく音、それらがざわざわとデルフィーノの神経を逆撫でる。

 ウルリヒは平然と馬を降りて岸壁の縁へ近付いていくが、デルフィーノは馬から降りたところで足を止めた。

「髪を編んで、それから気が向いたら姿が見えるところまでは行く」

「なんだ今日は急に。いつも通り待っていればいいじゃないか。無理に来なくても良いぞ。既に気分が優れないんだろう?」

「おまえはよく平気だな……」

「よく平気だな、だと? 健康な状態で水の流れに船酔い様の症状や酩酊や悪寒を感じると確認されているのは、吸血鬼だけだ。現在一千万種ほどいると言われる世界中の生き物の中で、たったの一種。吸血鬼だけ。つまり、かなり特殊な脆弱性だ」

「猫は水が嫌いだ」

「被毛の表面に油分が少ないから、一度濡れたら乾くまで時間がかかってしまい、体力を奪われ病に罹るリスクが高いからな。だがおまえは自分で自分の髪を乾かせるだろう。猫の所為にするな」

「はいはい、認めれば良いんだろう? 私は水が大嫌いだ」

「そうだな。俺には全く未知の感覚だから、興味深いが真の意味での理解は不可能だろうがな。無理せず酔わないでいられる距離で待っていると良い。なるべく手短に済ませて戻る」

 なんでもないような顔で岸壁を降り始めるウルリヒに、今までデルフィーノは幾度となく置き去りにされていた。

 ウルリヒが本格的に生物学に熱中して、七十年は経つ。

 特に自身と同じように鱗と尻尾がある生き物への興味は深く、どこでも良いから出かけようと誘えば半分以上は水辺だった。

 デルフィーノが水辺を忌避する体質を持っていると知った上で嫌がらせをしているのではないかと思われがちだが、ウルリヒは何の意図も気兼ねもないような顔でデルフィーノを安全圏に置き去りにする。

「私はおまえの馬番か、ウル」

 やれやれ、と肩をすくめながら髪を結い、馬番等と自嘲したものの、馬を近くに生えていた樹木に繋いだ。

海へ向かって数歩前へ足を進めてみる。

 なんとなく気が向いたのだ。今夜は。

 しかし気乗りしたと言っても、海に近付いてまずデルフィーノの脳裏に降ってきたのは「自分は今たった一人」という不安だった。

 突然湧いた孤独感。

 聴覚を潮騒が支配している所為に違いない。

 水の塊が押し寄せ、岩にぶつかって粉々になり、それがまた岩にぶつかる音。

 泡の弾ける音。

 それらがどうにも耳障りで、不安を掻き立てられる。

 孤独感、無力感、心細さで脈が早くなっていく。

 ウルリヒは平然としていたが、不快極まりない感覚に襲われているデルフィーノは心配になる。

 ――本当にウルは大丈夫なんだろうか?

「うっ……。おーいウル、捜し物は見つかりそうかー?」

 冷静に考えれば、大丈夫に決まっているのだ。

 子供の頃からウルリヒは平然と水に入っていたし、なんなら浮力のお陰で地上ほど尻尾を重く感じないから快適だと言う。尻尾を上手く使って泳ぐのも得意なのだそうだ。

デルフィーノはそこまで水辺に近付けないのでウルリヒが泳いでいるところを実際に見たことはなかったが。

「ウル―っ」

 呼び直しても、返事はなかった。

 好きなものに集中しているウルリヒの耳には、声は届きにくい。

 或いは波の音にかき消されて聞こえないのかもしれない。

それに、崖を駆け上がってくる潮風が分厚く、風下から声を張り上げても半分くらいは押し戻されていそうだ。

 デルフィーノが黙るとまた波の音しか聞こえなくなる。

 波も風もなければまだ互いに気配を感じられる距離である筈だ、と思われるが、目を閉じて耳を澄ませてもウルリヒの気配が見つからない。

 自然と、デルフィーノの足がまた一歩前に出た。

 岸壁の突端まであと三メートル程はあるのに、足元の地面が水を含んで柔らかくなったような錯覚を覚えた。

 首を振って嫌な妄想を振り払う。平衡感覚を取り戻そうと、一旦目を閉じてその場にしゃがみこんだ。

 流れ水の近くでなければ、なんだって上回って、いつだってリードしているのはデルフィーノだというのに。

 水に入るわけではない、見るだけだ、と己に言い聞かせ、額に吹き出た嫌な汗を拭って目を開けると、またなんとか立ち上がれた。

 そのまま四歩歩けば岸壁の真下が見える。

 平然としているウルの姿を見れば、気が楽になるかもしれない。そう思った。

 ふらつきはしたが、一歩。吐き気を感じるも、二歩。頭痛と耳鳴りがする、三歩。

「ウル―っ?」

「うわッ!?」

 突然、目の前にウルが現れた、ように感じた。

 肝心の聴覚と嗅覚が利かず、遅い来る不快感に流されてまともな判断能力がなかったデルフィーノは、岸壁をよじ登って戻ってくるウルリヒに気付かなかった。

 ウルリヒはデルフィーノの存在には気付いていたが、急に目の前で大声で呼ばれたことには驚いたのだろう。

 驚いて声を上げ、その声がデルフィーノの脳を揺らした。

「……!!」

 ぐわんぐわんと大きな目眩と頭痛がして、体の中で骨が全て崩れてしまったような感覚があった。

 腰が抜けて踏ん張れなくなり急に前につんのめったデルフィーノは、束ねた髪に振り回され、岸壁の向こう側へ。

「……っ、デッロォーーーーッ!!」

 ウルリヒの声を最後まで聞かないうちに、デルフィーノは絶望の坩堝に頭から飲み込まれていた。


 暗く、ひどく重い。全身、爪や髪の毛の先まで悪意の粒子にまとわりつかれている。

 毛穴という毛穴が犯されまいと縮み上がるが、耳や鼻は為す術もなく、無抵抗に侵入を許した。

 夏だというのに容赦なく熱を奪われ、右も左も天も地もわからぬまま揺らされ、死を覚悟した。

 流れ水を忌避する吸血鬼は多いが、忌避感は直接の死因にはならないし、忌避するが故に水死は極めて稀だ。

 戦死以外の若死にはまず全くあり得ない。

 この歳で死んだら笑いものになるだろう。

 一族に不名誉を残してあっという間に死ぬなんて、あまりにもひどく不出来な一生じゃないか。

 あぁ。でも。そんな風に今まで生きた時間を否定したくないな、楽しかったし――

 死を覚悟した途端に急に水への恐怖や不安の感覚が遠のき、そんなことを悠長に考えた。

 死に近付いて意識が遠のいたからだろうか――



 今日のデルフィーノはなんだか様子がおかしかった。

 何故海に近付いたのだろうか。

 近付いただけで具合が悪くなるのは本人が一番良くわかっているだろうに。

「馬鹿野郎ッ!」

 意識のない相手を罵倒したところで無意味なのはわかっていたが、あまりに不安と焦燥に駆られて、それを紛らわすのに罵らずにはいられなかった。

 罵りながらも呼吸を確かめ、脈をとる。 

 生きている。

 肺に多少水が入ったところで、吸血鬼の回復力があれば肺炎なんぞに気を遣う必要はない。

 そう簡単に窒息もしない。脳であろうと何であろうと、多少の損傷ならばすぐに元通りになる。

 では何故意識を取り戻さないのか。

「考えろ、考えろ、この衰弱の原因はなんだ? 外傷はない、ようだが、じゃあ、まさか流れ水……?」

 デルフィーノは頭から真っ逆さまに落ちていったが、海面までの高さを考えれば吸血鬼がすぐ治癒出来ない傷を負う程の衝撃はなかった筈だ。

 追いかけて飛び込んだウルリヒがなんともなかったのだから、そう考えて問題はないだろう。 

 すぐに抱きかかえて水から出たし、溺れる程の時間があったようには思えないが既に意識がなく、頬を軽く叩いて声をかけても反応がない。

「まさかもっと水から遠ざけなければならないのか? おまえはそんなに厄介な生き物なのか!」

 ウルリヒは岸壁を見上げる。意識のないデルフィーノを背負ったまま登れそうなルートは見当たらない。

 デルフィーノならウルリヒを抱えて跳躍、岸壁の途中で一蹴り、それで上まで上がれてしまうだろうが。

 出来ないことを嘆いても仕方ない。背負って磯の岩場を走り出す。

 片手で登れそうな所、掴まれそうな所を探して右往左往するが、夜明けまでの時間を考えたら全く猶予がない。

 ――せめて両手が空けば。或いは尻尾が猿のように器用であれば。

 ウルリヒの尻尾は自切が出来る構造になっている。自切は所謂トカゲの尻尾切りだ。

 尻尾に負荷をかければ根本から切れてしまうだろう。

 何の役にも立たない。

「畜生……」

 ――全く吸血鬼に生まれた甲斐のない、なんて貧弱で鈍重な身体だ。

 悔しさと忌々しさで歯噛みする。

 そこではたと気付いた。

 歯なら食いしばれる。

 

 なんとか岸壁の上に上がり、馬を繋いだ木の陰にデルフィーノを横たえ、ウルリヒは口の中に残った数本の黒い髪を吐き出した。

 やり方は無様極まりないが、目的は達成出来たのでよしとする。

「デッロ、いい加減目を覚ませ」

 軽く頬を叩くと眉を寄せて顔を顰めた。

 反応。

 ウルリヒの胸に安堵と歓喜がこみ上げてくる。

「おい! 起きろ! 駄猫が!!」

「……っ、う」

「デッロ!」

 水を吐いてむせながら、うなされるように呻きながらではあるが僅かずつ意識が戻ってくる様子が見て取れた。

 デルフィーノはひとしきり水を吐き終わると朦朧としたまま起き上がろうとした。それを支えたウルリヒはその肩が震えているのに気付く。

「デッロ……? 体が冷えるのか?」

「……っ、さ、さむい。こわい。みず、水が、水が!!」

 意識が戻るに連れ、まだ聞こえてくる潮騒や体中から漂う潮の香り、濡れた感触が水への恐怖を思い出させてしまうのだろう。

 震え、目が泳ぎ、目眩があるらしく上体が揺れて、自分自身で身体を支えることが困難になったらしく、倒れかかり、それを支えたウルリヒにしがみついてきた。

「もう水からはあがった。濡れたままだし全身磯臭いが、海からは離れている。安心しろ」

「あぁ、ウル、ウルか、海が、水がっ」

「大丈夫だ、デッロ。もうここは土の上だ」

 デルフィーノは空気を求めて喘ぐように荒く呼吸しながら、ウルリヒの言葉を聞いて次第に落ち着いていった。  

「ウル、あぁ……ウル……」

「わかったか? 俺がお前を運んだ。もう大丈夫だ」

「ウル……すまない、私のせいで。あぁくそ、まだ頭の中がグラグラする……」

「立てそうにないか」

「大麻を半日くらい吸い続けた翌日と同じくらい目眩と頭痛と吐き気がする」

「ひどい二日酔いだな……」

「あぁ、でも……そうだ、朝が来る前に帰らないと」

 思考が明瞭になってきたデルフィーノは、ウルリヒが屋外にいられるタイムリミットに思い至り、ウルリヒから身を離し、なんとか立ち上がろうとしてふらついた。

「そんな有様では、馬には乗れまい」

「乗れまいと言われても、乗らないことには。私は猫になればいいがおまえは……徒歩で間に合うのか?」

「最悪の場合は土に埋めてくれ。一日くらい無断外泊したところで今更だ。だが、それはあくまで最悪の場合だ。帰った時の格好を見た寮監が悲鳴を上げて実家に伝書を飛ばすだろうからな。まだ、最悪でない選択肢が残っている」

「それはどんなナイスアイディアなんだ?」

「俺の血を吸え、デッロ」

 デルフィーノが声も出ない程驚いているのが表情でわかった。

「俺もおまえも吸血鬼だ。そこだけは一緒だろう。多少でも血を吸えば、体力が取り戻せるんじゃないか」

「いや……それは、そうだが」

「俺は人間じゃないから、吸われてもそう簡単に死なない。吸血鬼が無為に殖えることもない。おまえの血に染まってしまったとしても、俺は跡取りじゃないから問題はさほど大きくない」

「問題はそこじゃないだろう!?」

 先程までパニックを起こしかけて震えていたデルフィーノでさえまともに血相を変えて反対する理由は、ウルリヒにも勿論わかる。わかるが、意識を失った親友を見て、その時感じた悪寒や恐怖を拭うためなら躊躇する程の理由ではないと思った。

「俺は治療行為としか思っていない。それに」

「だからって」

「いいさ、おまえなら」

 狼狽するデルフィーノに本気を伝えてやるつもりで目を合わせた。

 デルフィーノはそれ以上何も言わなかった。

 何を考えている表情なのか、ウルリヒには全く見当がつかない。ただ、色男が台無しであることは間違いなかった。

 目を合わせたまま、シャツのボタンを外して襟を寛げる。

 少し気恥ずかしさがあったが、それでも目をそらさず首を傾けて首筋を見せつけた。 

「ウル……」

「早くしろ。恥ずかしくなってきた」

「悪い」

 その謝罪は一体何に対するものなのか――などと考えている間にデルフィーノが肩に手を添えて顔を近付けてきた。

 なるべく緊張も動揺も悟られまいと呼吸に気を遣うが、鼓動は聞こえていそうだ。

 首筋にチクリと甘い痛み。

 それから、ずぶりと皮膚を食い破られ、身体の、己の境界を犯される感触。

 痛みは痛みとして正常に感じているが、牙が触れた箇所からじわじわと、痺れるような心地よさが広がっていく。

肌に唇と舌が触れるとその柔らかく濡れた感触が酷く淫靡に感じられ、身体の芯が熱くなるようで、血が吸い上げられるとゾクゾクと背筋が震えそうになる。

 百年以上生きてきて初めての快感にあらゆる情緒が押し流されそうだ。

「は……、ん、うっ」

 変に呼吸が整わず、淀むタイミングで声のようなものが漏れてしまう。

 妙に淫らな感じがして自分自身に対して顔を顰めた。

 吸血鬼の牙が齎す快感は誰であろうと感じるものだ。恥ずかしがる必要はない。そう自分の心に言い聞かせる。

 獲物に抵抗されないように吸血鬼が種として進化してきた結果なのだ。

 身体に力が入らないのは流石に人間でもないのに情けないと思うが、デルフィーノの手が肩から背中に伸ばされると諦めて身体を預けてしまった。

 いつの間にか目を閉じていて、体中の細胞が抱かれているような安心感があった。

 一生このままでもいい、むしろ終わらせないでくれ――

 そんなことを思ってしまうくらい、牙と血で繋がる感覚が名残惜しかった。

「ありがとう、ウル」

 耳元に囁かれたデルフィーノの声が、自身の血で湿っているように感じた。

 耳に当たった吐息の温度さえ、一生忘れられない気さえする。

「デッロ……」

 自身の声の甘さにハッとして身体を離そうとしたが、デルフィーノに抱き留められてしまった。

「……デッロ?」

「……あ、あぁ、すまない。帰らないとな」

「いや……、まぁ、そうだが」

「おまえのお陰で、酔いがすっかり覚めた。それどころか若干ハイかもな。かっ飛ばせば夜明けに間に合うだろう」

「それは、何よりだ。土に埋まらなくて済む」

 学園を抜け出して二人して海に落っこちた時点で、寮監の怒りが天を突くのは確定しているが、泥だらけで帰れば清掃やクリーニングの人間共にも相当嫌な顔をされる。

 そんなことは、些末だが……

「さて。立てるか」

「あぁ」

 デルフィーノが立ち上がり、手を貸されてウルリヒも立ち上がった。

 びしょびしょに濡れたまま地面に座り込んでいたので尻尾が泥だらけだ。

 デルフィーノの髪も大変な有様かと思えば、解いて風に流すといつも通りの美しさだった。

「多く貰いすぎてしまった。おかげさまで水も汚れも全て魔力で蒸発させられたが。すまない」

「それは構わないが。俺はどうにもならんから一緒に罰を受けてくれ」

「そうだな。おまえの首に噛み痕があれば私も叱責を免れまい」

「!!」

 やはり、と思ったウルリヒは慌てて首筋に手を当てるが、傷らしき感触は見つからなかった。

「もう傷はないが、襟を汚してしまったんだ。学園に着く前にうまい言い訳を考えないとな」

「要らぬ冷や汗をかかされた。怪しまれた際には無理矢理噛まれたと恥を忍んで証言しよう」

 勘弁してくれよ、などと笑いながらデルフィーノが手綱を木から解いて馬に乗る。

 いつも通りひらりと猫のように身軽な様子を見て、ウルリヒはシャツのボタンを留めながら「叱責を食らう程度は仕方あるまい」と答えた。



かつて。

 吸血鬼含む同盟軍と人間が衝突した、かの大戦が起こるよりも前の遥かな大昔には、人間の文化に引きずられ、吸血鬼たちも同性愛を忌避していた歴史があるらしい。

 今は「生殖が出来るかどうかと愛は関係ない」という意見が一般的だし、いくら人口が減少傾向にあるからと言って生殖にのみ集中せよという考えは下等生物のようだと、却って同性愛忌避を忌避しているような状況だ。

 元々生殖能力が低い種であり、世代を経るにつれてその傾向が強くなっていく中でもそういった誇りを頑なに守ってきた結果、貴族たちは軒並み後継者の確保に苦しむ羽目になった。

かつては正妻が産んだ長男が家を継ぐべきだという考えが主流だったが、今は長子でなくてはならないと言う家はまだあれど、養子を取る家はどんどん増えているし、当主は男子でなければならないと言う家は殆どなくなった。

 とは言え。

 吸血鬼に生殖能力が全く無いわけではない。

 相手が人間や転化者ならあっさり妊娠することがある。

 貴族にとって、血の貴さを守ること以上に神経質になる問題はないので、そういった過ちが起きないよう、我が子がまともな判断を下せる大人になるまで街から遠く離れた全寮制の男子校・女子校に閉じ込めるのだ。

 しかしそうして子どもたちを意図しない生殖から遠ざける一方、生殖の難しさから、少しでも妊娠・出産の可能性を広げるために早い結婚を望み、幼いうちから多産の血筋と婚約させるケースも少なくない。

そこまで生殖を優先して結婚しても夫婦の相性が悪い、結婚してみたら嫁・婿の生殖能力が絶望的だった、という場合も当然ある。

そういった場合、子供が出来ないから離婚してやり直すという手段も考えられるが、先述の通り「生殖にのみ注力するのは吸血鬼の誇りに反する」ことから批難の的になるのも避けがたく、そういった事情から近年、多重婚が許される風潮がある。

 そのくらい、吸血鬼の貴族たちは子孫を残すことに逼迫した問題を抱えている。

 故に、きちんとした血筋の相手との間に子供を作りさえすれば、あとは誰をどう愛してもいい、大きな家の跡取りを横取りして揉めさえしなければ、とすら考える親も少なくなくなってきた。

 そういう事情があり、社会に許されるとしても。

(相手を純粋に友と思っていたら、それがなによりも大きな障害だろう) 

 寮の自室に戻り眼鏡を外してすぐベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めてウルリヒはわかりやすく思い悩んでいた。

 あれから、びしょ濡れで学園に戻って怒られ、体を洗って着替え、眠り、反省文を書かされ、食事をとり、適当に講義を受けた。研究室で採集物の解剖、観察をしながら、雑談、他愛もないやりとりをした。何の特別さもない表情、声、いつもと何も変わらなかった。

 そこまで徹底的に日常に戻られると逆に違和感があるというもの。

 ウルリヒ自身も変に意識しまい、と敢えてそのように振る舞ってしまった自覚があるから尚更煩悶する。

 昨夜は緊急事態で、余計なことは何も考えなかったし、噛まれるまでは本気で献血や点滴のような感覚でいた。

噛まれている間は夢心地だったし、その後もしばらく興奮状態だったために特になにか疑問に思うこともなく、ウルリヒが事前に治療行為としか認識していないと宣言してしまっていた所為もあるのだろう、デルフィーノも行為についてなにか言うこともなかった。

しかし睡眠を摂り、他の者も交えて日常生活に戻るに連れて落ち着いてくると感覚が現実に戻ってきた。

その冷静な状態で改めて吸血の記憶が蘇ると羞恥や困惑が湧いてきた。思っていた以上に淫らな行為であったと。

その所為で、考えても詮無いことを悶々と考え始めてしまったのだ。

 さっき廊下で別れて部屋に戻ったデルフィーノは、今何を思っているのか。

 考えたところで目の前にいない他人の思考などわかる筈もないが気になって仕方ない。

(俺の血は……どんな味がしたのだろう)

 血の味は人生や魂の通信簿であり、血に対する味覚は血の持ち主をどう思っているかの試験紙だ。

 気になって気になって、本当は講義どころではなかった。

 だからと言って不自然な行動をとれば、デルフィーノにどう思われるか。

 苛立っていると思わせて変に気を遣わせるのも嫌だし、傷ついていると思わせて罪悪感を与えたくもない。

 何より一度噛まれたくらいで過剰に気にする、艶事に不慣れなみっともない男と思われるのは最も避けたかった。

 すぐ部屋に戻って一人になりたいと思っても、研究室に行かないなんていう普段にない行動をとれば怪しまれかねない。

 デルフィーノの髪がサラサラとたてる音にすらそわそわしてたまらなかったが、なんとか平静を装ってひたすら耐えていた。もちろん研究ノートはろくに進む筈もない。

(未だに首筋が感触を生々しく覚えている……)

 少し気にしただけでそこが火照る気がする。

 噛ませるまでは「聞くところによると強い性感があるらしいが、命の危険があるわけでもなし、親友の窮地に躊躇う程のものではあるまい」とたかを括っていたが、無知とは恐ろしいとしか言いようがない。

 彼の唇、舌、牙の感触が忘れられない。

 そしてつい、自分を噛んだデルフィーノもそうであったらいいのに。この血の味の虜になってくれていれば。と願ってしまう。

 そんな自分が恥ずかしい。

 昨日までは、何一つ混じりけのない純粋な友だったのだ。それ以外のなにものでもなかった。

 吸血一つでこんな心理状態になってしまう自分を信じられない。

 自覚していなかっただけで潜在的に彼のことを愛していたのだろうか?

 そんなまさか。

 自分は愛している相手を、水が苦手と知っていながら足として海に連れていくのか?

 勘弁してくれ。

 愛欲だけでこんなにも狂ってしまうのは経験が浅いからなのか。

 情けなくなる。

(気が狂いそうだ。情緒が安定しない。一人では過ごせない。いや、一人でいるべきだ。デッロの顔を、今はまともに見られない。第一、この状態をなんと説明するのだ。きっと顔は真っ赤だし、些細なきっかけで泣いてしまいそうだ。首筋に視線が向けられようものなら、きっと欲情してしまうだろう)

 そしてこういった衝動は、恐らく肉体が若い間は続くのだろう。

 忘れられない感覚を抱えたまま、いつ始まるともわからない老化の再開を待つしかない未来を憂い死にたくなった。

 それくらい、デルフィーノに吸血されて気持ちよかった。

(明日はどうしたらいい。今日と同じように、不自然に思われないように、なんでもないような顔をして講義に出ればいいのか。明後日も明々後日もそうして過ごしていれば、何も問題が起きずに過ごせるだろうか?)

 そう考え、それを遂行するために最も必要なことは何かを考え――睡眠をとり、少しでも情緒を安定させ、精神的な余裕を少しでも持つこと、と決断し、普段床につく時間まではまだ四時間もあるが、今現在ベッドに倒れ込んでいることもあり、そのまま目を閉じることにした。

 ただでさえいつもより早い時間で、尚且つ寝る前のルーティンを一つもやらずに、気が昂ぶり情緒不安定な状態ではなかなか寝付けなかったが、目を閉じ、じっとしているうちに脳が精神的な疲労を思い出したようだった。

 疲労困憊だ。

 親友が海に落ち、血を吸わせ、それなのに何でもなかったような顔をしてすぐそばで一日過ごしたのだ。

 疲れない筈がない。

 寝付いた途端に深い眠りに落ちていき、多少の物音には気付かなかった。

 そう、たとえばドアをノックした程度の音には。

 

 ウルリヒが聞き逃したノックの主はデルフィーノだった。

 デルフィーノがドアを叩いた回数は二×十二回。

 集中すると五感が鈍麻するウルリヒだから、夢中で読書でもしていたら十回くらいでようやく気付く可能性は十分にあったが、十二回ノックしても返事がないとなると、反応する気がないか出来ないか、どちらかだと判断して自室に戻った。

 もしウルリヒがドアを開けたとして、その後どうしようか考えがまとまっていたわけではなかったので、安堵した面もあるが、何故反応がなかったのか改めて考え始めるとソワソワと嫌な感じがした。

 無断外出し、一限目から一緒に反省文を書き、食事も共にし、ウルリヒが半ば私物化している研究室にも入り浸って過ごして、ようやく自室の前で別れたばかりだというのに部屋を尋ねてしまったのは流石に奇異に思われるだろう。

(もし私だと気付いて、それで無視したのだったら……思った以上に事態が深刻だ)

奇異に思われたとしても、ウルリヒに対する日頃からの認識が正しいなら、無視などしないだろうと判断しているが、今このタイミングということを考えると、つい嫌な心配をしてしまう。

 ウルリヒはそういう奴じゃない。

 そう己の心に言い聞かせ、ベッドに潜り込んだ。

 目を閉じると海での出来事が思い起こされる。

 何故昨日に限って海に近付いたのか、自問自答する。

 きっと、弱いと思われたくなかったのだ。

 体質は変えられないとわかっているし、それこそウルリヒはきっと誰よりもそう思っているのに、強がりたかった。

 ウルリヒは海に近付けないくらいでデルフィーノを弱いと思ったりしないとも思う。

 それでも助けたかった。

 だが、逆に助け出され目を醒ました時、脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたくらいのパニックだったのに、ウルリヒの腕の中は、ウルリヒの声は、心地よくて自然に気が収まっていくのがわかった。

 ウルリヒに頼り、助けられ、いつまでも年上風を吹かせる必要も、デルフィーノが一方的に守ってやる関係を保つ必要も、ないと思い知らされた。

それどころか。

(そうか……)

 きっと昔から好きだったのだ。

 それこそ、出会った日から。

 自分で自覚している以上に、いつでも彼の隣にいたかったし、格好良く見られたかったのだ。

 結果何度も情けないところを見せる羽目になったし、今回は心配させたしかなり疲労もしたと思う。迷惑をかけた。

 更によくよく考えてみれば、そういった自分の態度はウルリヒから見ると意味不明だったかも知れない。

 それこそ、海に近付いたことも、ウルリヒが提案してきたからと言ってあんなに血を吸ったことも。

 ウルリヒが一番嫌う、疑問が残って納得出来ない状態を強いてしまった可能性がある。

(ああ……最悪だ……なら次にウルに会ってすべきことは一つだけじゃないか)

 改めて謝って、ちゃんと理由を説明する。

 合理的で、知的探究心が旺盛で、理屈を知りたいと思ったら納得するまで落ち着かない親友に、安息を与えるのだ。

(日が暮れたら、いつも通りウルリヒの部屋に行こう……それまでに少しでも眠れるといいんだが)

 今の時間、外は真昼で、きっと太陽が燦々と輝いているし鳥が鳴いて花も花弁を広げているだろう。

 吸血鬼の大半が一生見ることのない眩しい世界と壁一枚隔てて、窓があっても結界により光も音も殆ど入ってこない部屋は沈静そのものだった。

 時間帯を考えたら確実に眠い筈なのに、眠気の足取りが遅い。

 ――そう言えば子供の頃、ウルリヒに初めて会った日も同じように寝付けなかった――



 あの日は遠い親戚の結婚パーティのためにアンドレオッリ家総出でベルリンに来ていた。

 一度は戦争で瓦礫の山になった街だが、今では貴族の邸宅が軒を連ね、郊外には大きな軍の基地や研究所もあるので、町並みこそ全く違えど、かつての大都市の様相を取り戻している。

 奴隷の人間が多いため昼間でも往来を人が行き交い、日が暮れると美しく着飾った貴族たちが馬車に乗ってオペラやダンスパーティに赴く。

 当時デルフィーノは十七歳。完全に成長が止まる日へ向けて成長の速度が遅くなり始めていて、同じ年齢の人間より少し幼い外見だったように記憶している。

 親戚の結婚パーティなどつまらないどころの話ではない年頃(今でも面白いとは思っていないが、当時は結婚を祝福する意思すら湧いてこない有様)であった。

 なにか面白いことはなかろうか、大人たちの話は面白くないしダンスなんて誰がやるものか、と反抗期丸出しの態度で親の目を盗んでそっとパーティ会場を抜け出した。

 そこで見かけた、大きな尻尾を引きずる男の子。デルフィーノより五つ六つ年下だろうと思われた。

 トイレにでも行った帰りだったのか、会場に戻ろうとしているようだった。

 他でもない。ウルリヒである。

 金属のような光沢を持った青い尻尾はその先端を左右に揺らしながら別の生き物のように本体の後をついていく。

 その姿に興味が湧いたデルフィーノは迷わず行く手を遮って声をかけた。

 突然話しかけられたウルリヒはかなり怪訝そうで、最初は人攫いを見るような見る目で見上げられたが、ウルリヒも結婚パーティが退屈だったらしい。

 一緒に会場を抜け出す提案に乗ってきた。

「でろふぃ、でる、……?」

「発音しにくいかい? デッロとかでいいぞ」

「でっろ。デッロ」

「上出来。私もウルと呼ぼう」

 ウルリヒはまだ母語以外の発音に慣れておらず、外国人であるデルフィーノの名を発音しにくそうにしていたので、今まで呼ばれたことがない呼び名だが、自ら提案した。

 口数が少なく、Yesと言う代わりに頷くシーンも多いところを見るに、人見知りで引っ込み思案な性格であろうウルリヒだったが、あだ名で呼び合うのが満更でもないようで、少しはにかんでいた。

 廊下の人の往来が途切れたタイミングを見計らって二人で屋敷を抜け出すと、それだけでウルリヒはわくわくした様子を見せ、手引きしたデルフィーノは得意になった。

 その日は月が綺麗で、屋敷の庭の芝生は夜露に濡れてキラキラしていた。

 掛け値なしにいい夜だった。

 未だ隅々まで鮮明に覚えている。

庭に出て月を見上げたあと、こんな夜は狩りがしたい、と思った矢先に、遠くからハーピィの歌声が聞こえてきたのも、ウルリヒにこう尋ねたのも。  

「ウル、ハーピィって見たことあるか?」

 ウルリヒは人差し指を立てて「とおくから」と答えた。

 吸血鬼は領主の勤めとして、襲い来る大型肉食獣から領民を守らねばならない。

 特に人間はあまりにも弱い。強大な力を持つ吸血鬼と違って自分の身一つ守れない。

 血や税の見返りという大義名分もあるが、なにより家畜を食い荒らされては困る。

 人間なんぞのために自らの手を煩わせたくない貴族も多いため、狩人や私兵を雇う家が殆どであるが、デルフィーノの血族は昔からずっと自ら狩りをしてきた。

 まるで本能がそうさせるかのように、代々の当主は皆、狩りを何より楽しんできたのだ。

「こんな大きな街に出るなんて、餌がなくて相当切羽詰ったか、それとも獲物を攫って逃げおおせる自信があるのか……弓でも持ってきていればな」

 まだまだ子供のデルフィーノにとって人間を守るとかそんなのは二の次で、狩りの腕を磨くこと、動く獲物を仕留めることの楽しさがその体をうずうずさせていた。

「ゆみ」

「そう。私は弓さえあればハーピィを撃ち落とせる。狩りは楽しいぞ」

 デルフィーノが自信満々に言うので、ウルリヒの目が輝いていた。

「今日は何も武器がないから狩りは出来ないけど、この街の狩人がどの程度のものか見に行ってみよう」

 ウルリヒが何度も頷くので、デルフィーノは自分のより小さな手を引き、門番の目をかいくぐって街へとくり出したのだった。


(命に別状はなくて散々怒られただけで済んだが、あれは大きな間違いだったな)

 思い返しながらデルフィーノは幼き日の過ちに自ら苦笑いした。

 軍の基地があるからハーピィの群れはあっという間に残らず撃ち落とされたが、銃声やハーピィのけたたましい悲鳴に驚いた馬車馬が暴走し、何件か事故を起こした。

 その内の一件の被害者がウルリヒだった。

ただでさえ尻尾を引きずり足元が覚束ないのに、暴走馬車に驚いて恐慌状態になった大通りではまともに身動きがとれず、道路に垂れた尻尾の先が馬車に轢かれ、引きちぎれてしまった。

 ――驚く程小さな血溜まり、薄いピンク色の肉と白い骨が見える切断面、体から切り離されたというのに狂ったように地面をのたうち回る尻尾、泣きじゃくる幼いウルリヒ。

 瞼の裏にフラッシュバックするあの夜の光景と共に罪悪感と不気味な興奮が胸にせり上がってくる。

 あの日は考える間もなくウルリヒの尻尾をハンカチで縛り、暴れる尻尾をくわえ、泣いて座り込んだままのウルリヒを抱えて無我夢中で屋敷に戻ったが、今でも血の匂いと尻尾の生々しい躍動が忘れられない。

 

結局ウルリヒの尻尾はくっつかなかった。

再生しない己の体に青ざめるウルリヒを安心させるためにデルフィーノは庭で見たトカゲの自切の話をした。

 日中、太陽が出ていても猫の姿で過ごせるデルフィーノは草むらの中で何度もトカゲの尻尾切りを見てきた。

トカゲの尻尾は切れてもいずれ生えてくる。

おまえの尻尾もきっと生えてくる。

 その説明を聞いて、ウルリヒは深く安堵していた。

それどころか切れた尻尾を見て早く再生しないかとわくわくしているようだった。 

 その後、デルフィーノの予想通りウルリヒの尻尾は一週間程でトカゲ同様に再生した。

 再生した部分は元々の骨と肉で出来た尻尾と違って全て軟骨で出来ていて、鱗が無く、光沢も無く、色も暗くくすんでいるし少し短い。

 吸血鬼の身体に消えない痕跡が残るなんて事態は極めて珍しいことなので、ウルリヒは安心していたし喜んでいたが、デルフィーノの胸には深く悔恨が残った。

 ウルリヒの両親がなだめる中、カンカンに怒った父親に五十年分くらい怒られて何ヶ月も外出禁止になったが、そんなことは些細と思える程に。

(ウルリヒの両親もウルリヒも許してくれたし、結局それが縁で友人になれたが、あの出来事がなければ昨日の出来事もない)

 あれから、デルフィーノは猫の姿で昼間の庭をウロウロしてトカゲを見つける度尻尾を切った。その度ウルリヒの泣きじゃくる声と血の匂いを思い出しながら。

 お蔭でウルリヒが自ら血を飲めと言ってきた時は、その後ろ暗い喜びを抑えるのに苦労した。興奮を抑え込んで少し冷静になると途端に罪悪感がこみ上げ、そんな感情に目をそらせばすぐさま生唾が溜まってくる。

 噛みたい。血を味わいたい。噛まれたウルリヒを見たい。

 恐怖するだろうか。陶酔するだろうか。どちらでもいい。

結局葛藤があったのはほんの僅かな間で、膨れ上がった欲望は容易に堰を切って溢れた。

理性による忍耐、罪悪感による躊躇、そんなものは血を啜りたい欲望の前には全く無意味で、ウルリヒが自ら素肌を見せて首を晒した瞬間、その一瞬で全ての思考をかなぐり捨てて噛み付いてしまった。

 舌の上に広がる血の味が全てを洗い流して、その間だけは心と体にわだかまる全てから解放されていた。

 その感動の余韻は深く、なんとか人前では平静を保てても、到底一昼夜程度で忘れられるものではなかった。

(そこまでやってからようやく自覚するなんて、間抜けなものだ。ウルに怒られるな……)

 怒られる、と思いながら、許される気でいる自分に呆れ、そして許すであろう親友を明確に愛しく思うのだった。

 今すぐ、会いたい。

 


 いつもよりも四時間も早く眠りについたウルリヒは、きっかりいつもより四時間早く目が覚めた。

 外は一番暑い時間帯で、今起きているのは結界師や警備を任されている者たちくらいなものだろう。

 静かで、暗くて、室内は夜と変わらないが、熱だけはうっすら漏れ伝わってじんわりと汗が浮いてくる。

 寝起きだというのに吐息がすこし温かい。

(寝直そうか。いや……もう寝付けないかもしれないな)

 寝る直前に脳をめちゃくちゃにかき乱していた煩悶は、睡眠を摂ったお陰か、少し落ち着いていた。

 それでも、デルフィーノのことを考えてしまうのは止められない。

(……諦めよう。誤魔化すことも、何の根拠もない邪推に振り回されながら無理に最善を選ぼうとするのも。根拠を得てから最善を選べばいい)

 そう、決心したら眼鏡を掛けていた。

 着替えずに寝てしまっていたから、そのまま部屋を出られる。貴族にあるまじき振る舞いだと侮蔑する者も当然いようが、デルフィーノはウルリヒの生活面のものぐさを責めたことなど一度もない。

 起こしてもそう簡単に起きないデルフィーノが部屋の扉をノックされた程度でこんな時間に起きて扉を開ける可能性なんてほぼゼロだが、それでも。

 今すぐ、会いたい。

「っわ」

 部屋を出るためにドアノブを握ろうとしたらドアノブが回って、思わず声が出た。

 声を出してから、ようやくドアの向こうに慣れた気配があるのに気付いた。

 心が一杯一杯になっていて全く気付かなかった。

 おずおず一歩下がるとドアが開けられる。

「ウル……」

「ど、どうしたデッロ。驚いたじゃないか」

「てっきり寝ているかと思ったが」

「寝ているだろうと思った上でノックもなしにドアを開けたのか?」

「鍵が開いているとも思わなかったからな。ダメ元で」

「……閉めるのを忘れていた……」

 自分もダメ元でデルフィーノの部屋を訪ねようとしていたのに、いざ来られると言葉が出てこなかった。

 立ち尽くし、顔を見たり目をそらしたりしているとデルフィーノもバツが悪そうに髪を弄っていた。

「……とりあえず、入って閉めてくれ。廊下は声が響く」

「そうだな」

 デッロがドアを閉めて鍵をかけたので、ウルリヒはおずおずと先程まで横になっていたベッドに戻って腰掛けた。

 ソファもあるが、少しでも自分の領域に身を落ち着けないと逃げ出したくなりそうだ。

 デルフィーノは勧めなくてもソファに座る男だが、何故だか座らず立ったまま、ウルリヒを横目に見ている。

「こんな時間なのに、まだ起きてたのか?」

 デルフィーノに訊かれ、ウルリヒは「部屋に戻ってすぐ寝落ちて今起きた」と答えた。

「おまえこそ。こんな時間に起きてるということは、寝ていないんだろう」

「おまえのこと考えてたら眠れなくて」

「!?」

 喜んだらいいのかなんなのか、ウルリヒは咄嗟にするべき表情を選べなかった。きっと妙な顔をしたと思う。

「何だその顔」

 案の定笑われた。

「……どう考えられていたのだろうかと思ったら、するべき反応の判断に迷ったんだ」

「……そうか、やっぱり悩ませてしまっていたんだな」

 笑われたかと思えば、急にデッロの声が優しくなり、というよりむしろ申し訳なさげな色を伴った。

 そして一歩、また一歩とウルリヒに近付き、ウルリヒの目の前に膝をついた。

「すまない。自分自身への無自覚の所為でおまえを惑わせるような行動をした。私のことがわからなくなって散々悩んだだろ。悪かった」

「そん、なことは」

 ある。

 散々悩んで頭が爆発しそうだった。

 だが、今はそんな事どうでもいい。

「まぁ、自覚したところで大したことじゃないんだ。恥ずかしいな、何十年も勿体ぶるようなことか、って笑われそうだ。おまえと一緒にいたかっただけなんだ。私はずっとおまえのことが」

「心配、か?」

「それも無かったとは言わないが、今はそれよりも」

 デルフィーノがウルリヒの手をとり、その甲に口づけた。

「どうやら私はおまえのことが好きなんだ、ウル」

 どうしてそう、どこでどう考えが変わって、一日なんでもない顔をして過ごしたくせに、さらっとそういうことを。

 あらゆる言葉を言いかけたものの、言葉がすんなり出てこなかった。

 劣った個体だから情けをかけられているわけでも、未熟だから世話を焼かれているわけでもないと告げられたことで胸が一杯になった。

 何を言ったらいいか、考えがまとまらない。

「……納得、出来ないか?」

「あぁ……!」

 手を振りほどき、両手で襟を掴んで引き上げる。

「俺はっ、俺は! ……あぁ! もう……」

「ウル……?」

「もういい……大方どうでも良くなった。とりあえず一言言わせてもらうが……それでもまだなにか問題が残るようだったら議論すべきだろう」

「そうか」

 ウルリヒはデルフィーノの襟を掴み上げたまま、一つ深めに呼吸して喉を落ち着ける。

「俺も……おまえを愛してしまったようだ。デッロ」


 ウルリヒに襟を引き寄せられたのが先か、デルフィーノが押し倒したのが先か。

 牙が触れないよう気遣うこともままならず荒っぽく唇を重ね、切れてしまった唇から互いに血を舐め合うとなにか問題が残っているようには到底思えなかった。

「言い忘れてたけど」

「なんだデッロ」

「おまえの血……おまえは私の舌が変だと馬鹿にするが、予想通り美味かった」

「……っ、予想?」

 襟を掴んでいた手をやんわりとほどき、代わりに指を絡ませ手を握らせた。そしてそのままその手をシーツに縫い付ける。

「子供の頃からずっと、美味いんだろうな、とは思ってた」

「それはおまえ、いや、あっ!? それで、今更!?」

「今更なんて、言うなよ」

「……。まぁそれは、あとで追求するとして、すまん、迂闊だったがこの姿勢は苦しい。痛い。尻尾が折れて潰れてる。どいてくれ」

「……」

 変にブレーキがかかって互いに気まずくなりながら、デルフィーノが体重をかけるのをやめるとウルリヒは起き上がり、靴を脱いで脚をベッドに上げ、後ずさる。

「本当に無駄に太いし長いし、ただただ邪魔だ……」

 流れをぶった切った罪悪感から、ウルリヒは特に気まずそうに俯いている。邪魔にならないように、と恨めしげに見つめながら尻尾を背後側に引き寄せるが、その姿がデルフィーノの胸から気まずさを払拭した。

「その尻尾がなければ、私はおまえと出会っていないさ」

 開けたスペースに上がってこいと言外に誘われたと判断して、デルフィーノは靴を脱ぎながら再び距離を詰め、ウルリヒのシャツをはだけて首筋に舌を這わせると、尻尾がびくんと跳ねて壁を思い切り叩いた。

「そう頻繁に噛まないから、安心してくれ」

「……、い、いや。今のは別に……」

「いくら私でもおまえが本気で嫌なことはしない」

 ウルリヒの尻尾があんなに俊敏に動いたのを初めて見たので念のためにそう言ったが、念を押されたウルリヒは頬を真っ赤に染めて俯いた。

「おまえに噛まれた時、この世のものとは思えないくらいの体験をした所為で身体が身構えただけだ。……こんなことを言うのは、貴族として以前にはしたないのかもしれ」

 ウルリヒは観念していたのかも知れないが、逆に聞かされるデルフィーノが耐えかねて「それ以上は言わなくていい」と言う代わりに牙を立てて言葉を遮った。

 みなまで言わせるほど野暮なつもりはない。

 甘く湿った吐息が漏れ、吸う度舐める度に身体の強張りが解けて文字通り骨抜きになっていくような肢体に触れれば言わなくても全てわかる。崩折れそうになって背に縋る手が全てを物語っている。

 牙を離すと白い肌を破った二つの穴から血がにじみ、視覚も嗅覚も情報過多でパンクしそうだ。

 その上乱れたしどけない吐息を聞かされ、肌の匂いが少し濃くなり、くらくらしてくる。

見つめられただけで落ち着かず、身じろぎする度にシーツを滑る尻尾がぬらぬらと暗がりでも濡れたような美しい光沢を見せるので、尚誘われているような気分になる。

「ひぅ!?」

「普段触ってもそんな声出さないのに」

「言葉では説明しにくいが尻尾だけ触覚が全く別の感覚なんだ。いつも抱えてもらうのにそんなことを言ったら藪蛇だと思って……今まで黙っていたが」

「じゃあ、私も告白しよう。今まで黙っていたが、おまえの尻尾は最高にそそる、と初めて会った時から思っていた。てっきり私の生が半分猫だからだと思っていたが、それもどうやら勘違いだったようだ」

 すす、となめらかな鱗に指先を滑らせ、徐々に最も太い部位へと向かっていく。

「それと、昔から気になっていたんだが、生え際というか、付け根はどうなっているんだ? ちなみにこれは好奇心が半分」

「どう、って……」

「残りの半分は下心だが、満たしてもらえるだろうか?」

「……前者については構わないが、後者の満足までは保証しかねる」

「いいさ。おまえが嫌じゃないならそれで」

「っ」


 ウルリヒはうつ伏せに倒され、そこから先は二人とも言葉らしい言葉は使わなかった。

 それで困ることは何もなかった。

 今の二人には、想いを遂げる以外すべきこともない。

 疑問も不安も泡沫のごとく、湧いては弾けて消えていく。

 まるで出会う前から決まっていたことのように、先の煩悶が嘘のように。

 肌とその下を流れる血に全てを委ねて。


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