イベントホライズン
私の職業は脳科学者。
私の研究テーマは、人の夢を可視化すること。
そして、数年の研究の後、私は人の脳を覗くことができる装置の開発に成功した。
そして、その装置の最初の被験者は私の妻に決まった。
何故なら、妻はもうすぐ死んでしまうからだ。
本当に偶然だったのだろうか。
私が、装置の開発に成功して、たった数分後に、病院から電話がかかってきた。
妻が交通事故に遭ったこと。手を尽くしたが、意識が戻ることはなく、そのまま帰らぬ人になるということ。
私は、妻が死んで悲しいという感情よりも、もっと大きい感情が心を圧迫していた。
私は電話の相手に一言、
「今から行きます」
と言って、電話を切った。
私はすぐに家を出た。
完成したばかりの装置を持って。
私が病室に入った時、病室にいた医師たちが少し驚いていた。
恐らく私の目に一つも涙がなかったからだと思う。
「ご家族の方ですか?」
初老の医師が聞いてきた。
「ええ、夫です」
私がそう言うと、その医師は頭を下げて
「申し訳ありません。我々も手を尽くしたのですが……」
「……まだ、生きているんですか?」
「申し上げにくいのですが、心臓の機能が弱まっていて……恐らくあと、一時間ほどの命です」
妻の顔をじっと見つめる。
「……一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
「今から妻を被験者にしたいのです」
私が、装置を自分と妻に取り付けた後、私は医師たちに
「もし、私の体に異変が起きた時は、装置を外して下さい」
「……分かりました」
医師たちは私を気違いを見るかのような目付きで言った。
当たり前の反応だと私は思った。
いったいどこの世界に、死にかけの妻を被験者にしたがる男がいるのだろう。
そんなことを考えながら、私は予め飲んであった睡眠薬により、眠りに落ちた
「ねぇ、聞こえてる?」
女性の声に呼ばれて目が覚める。
「ねえねえ。おーい聞こえてる?」
聞こえている、と返事をしようとした瞬間
「聞こえている」
と、自分じゃない誰かが返事をした。
いや、正確には自分が返事したのだ。
学生の頃の自分が。
「聞こえてるなら、早く返事をしてよ」
「返事をする必要がないと思ったんだ」
「どうして必要ないと思ったのよ」
「僕とお前は赤の他人だからだよ」
「ふーん。でも今からはお知り合いでしょ。他人じゃない」
「変な奴だなお前」
「お前じゃなくて、名前で呼んでよ」
「お前の名前を僕は知らないんだ」
「じゃあ教えてあげる、私の名前はね」
目の前で、学生の頃の自分と妻が喋っていた。
しかもそれは、実際にあった会話。
今まで忘れていた、妻との記憶。
私が初めて妻に会った時の出来事
その時私は理解した。装置の機能により、私は妻の夢を可視化していることに。
そして理解した。この夢が走馬灯だということに。
私がそう確信したとき、辺りの景色がどんどん変わっていく。夢のように、秩序ない世界にように、どんどん変わっていく
「ねぇ、死んだら人はどこに行くと思う?」
「とても、科学者を目指している人の台詞だとは思えないな」
「私は科学が好きなだけ。君みたいに堅物じゃないのよ」
「どうしてお前と同じ研究チームなんだろうな」
「はやく答えてよ」
「なにも残らないだろ。生命活動が終わった肉片残るだけだ」
「つまらない解答ね」
「お前はどう思うんだよ」
「私? 分からない」
「なんだよそれ」
「分からないから、君に聞いたんだよ」
「その問いに対する答えを持ってる人間は恐らくこの地上に居ないだろ」
「なら、君がその答えを見つけてよ」
「嫌だね。そんなこと考えて、何になるっていうんだ。死んだらおしまいさ。永遠の命を考えた方がまだマシだね」
「私と君って本当に、真逆の考えしてるよね」
「ああ、本当になんで同じ研究チームなんだろうな」
「私は良かったと思うけどね」
「なんでだ?」
「ほら、また真逆の考えしてる」
妻は、変わった奴だった。
頭の固い連中が集まるうちの大学の中で、異色の存在だった。
私には、その大胆な発想、身勝手な行動に辟易としていたが、大学在学中、一番長く一緒に行動していたのは妻だった。
「今日は寒いね」
「ああ、夜は雪が降るらしい」
「そうなんだ……。ねぇ、ポケットに手、突っ込んでいい?」
「好きにすれば」
「じゃあ、遠慮なく」
「って、僕のポケットかよ。自分のはないのか?」
「あんまり、君のポケット暖かくないね」
「残念だったな」
「ほら、君も早く入てよ。ポケットに」
「……」
「暖かいね。君の手」
だから、私と妻はいつの間にか付き合っていた。
妻のどこに惹かれたのか分からない。ただ磁石のように、真逆の存在がくっついたのである。
「君は、大学を卒業したら、どんなことを研究したいの? 今までと同じ研究? それとも別の研究?」
「別の研究にしようと思う」
「どんな研究?」
「人の夢を研究したいんだ。解明できてないメカニズムを解明したい。他人の夢を可視化したいんだ」
「へぇ? いいんじゃない? 面白そう」
「ああ、面白いと思う」
「……ど、どうして私を見つめて言うの?」
「別に、何でもないんだ。そういうお前はどうなんだ? 卒業したら、どうするんだ?」
「私は……私は、君のそばにずっといるよ」
「……ありがとう」
そう、私は、他人の夢を可視化したかった。
夢とは、その人の脳を移す鏡。
私は、正反対にいる妻を知りたかった。覗きたかった。
私は妻を知るために、研究を始めたのだ。
だから、この時、妻が私のそばにいてくれると言ってくれて、私は嬉しかった。
突然、景色が変わり、妻と、見知らぬ女性が談笑している場面に変わった。
「それにしても、あんたがあの堅物君を選ぶなんて思わなかったわ」
「どうして?」
「あんた知らないの? あんたうちの大学の中でも結構人気あるのよ? 男連中はあんたのことずっと狙ってたんだから」
「ふーん。ま、私はあの人しか興味ないから」
「ゾッコンねぇ。あの堅物のどこがいいのよ?」
「堅物なのがいいのよ」
「どういう意味?」
「気にならない? ああいう人がどんなこと考えてるのか。自分とどんな違った発想しているか。私は、それが気になって一緒に居たら、なんだか好きになっちゃたの」
「……あんた変わってるよ」
「よく言われる」
私は、驚きで口を閉じることができなかった。
妻は私と同じ考えを持っていた。
正反対の私たちは、同じ考えを持ち、恋をした。
どうして気付かなかったのだろう。
もうすぐ妻は死んでしまうのに。
私は、自分が涙を流していることに気付いた。
「最近、研究に没頭しすぎじゃない?」
「もう少しで、何か掴めそうなんだ」
「体を壊さないでね」
「ああ、それは約束するよ」
「私だけじゃなくて、この子にもね」
「ああ、分かった」
「……ねぇ、私、この子の名前考えたの」
「へぇ、どんな名前?」
「それはね……」
妻はもうすぐ死ぬ。
「最近上機嫌ね」
「ああ、おそらくだが、近日中に研究が完成すると思うんだ」
「本当?」
「ああ」
「あなたの研究が完成するのが楽しみだわ」
「うん。それじゃあそろそろ行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。ほら、お前もちゃんとお父さんに行ってらっしゃーいって言うのよ」
嫌だ。こんな残酷な事はない。
私から離れないでくれ。一緒にいてくれ。
やっと、真に君を知ることができたのに。
妻はもう死んでしまう。
死んだ妻はどこに行くのだろう。
目の前には輝かしい景色が広がっている。
妻と離れるぐらいなら、ずっとここにいたい。
私がそう思った時、世界は黒に塗りつぶされ、輝いた景色は消え去った。
そして、目の前に妻の姿が突如現れた。
「ねぇ、死んだら人はどこに行くと思う?」
妻が、私に聞いてきた。
「お願いだ。僕から離れないでくれ。ずっと一緒にいてくれ。君は僕のそばにいてくれると、そう言ったじゃないか!」
「私には、分からない」
「そんなの分かるわけがない。死んだらお終いなんだ! お願いだ死なないでくれ! 死ぬな! 死ぬなよ……」
「だから、あなたが答えを見つけてよ」
その時、私は気付いた。今、妻が喋っているこの言葉は、妻の走馬灯ではないことに。
「おまえ……今僕と喋っているのか?」
「死んだら、人はどこに行くのか……あなたが見つけて?」
「あ、ああ……」
「お願いよ。私の大好きな人」
妻がそう言うと、妻の姿が薄くなっていく。
「行かないでくれ……」
「元気でね」
「…しっかりしてください!」
私は体を揺さぶられ目が覚めた。
「……ここは」
「目が覚めましたか? 良かった……」
私はあたりを見まわした。
「妻は……?」
「先ほど……お亡くなりになりました」
「……」
「実は、奥さんが亡くなった時、奇妙なことがおきまして」
「奇妙?」
「はい。実は、奥さんが亡くなられたその瞬間、あなたは仮死状態になりました。心臓が止まったのです」
「え?」
「私たちは急いで装置を外し、蘇生活動をして今に至ります。奥さんの死に合わせて、あなたも死んでしまうのではないかと、焦りました」
「そうですか……ご迷惑をおかけしました」
「いえ、無事でよかったです」
「妻が、助けてくれたんですかね」
「ええ、きっとそうですよ」
「……ところで、人が死んだら、いったいその人は、どこに行くと思います?」
「難しい質問ですね」
「ええ、とても難しい。でも、いつかその答えを見つけないと」
昔の事を夢に見るのですが、それが本当にあったことなのか、夢の事なのか、今の僕にはもう分からないのです。