38 「もしかしたら、もっと前から」
それ以上女神の間に居続けられなかった俺は、女神への挨拶もそこそこに部屋を出た。眩暈がする。床が歪んで見える。そこにあると信じきれないところに足を下ろすには、勇気が要った。
うまく歩けなくてよろめいた瞬間、誰かの温かい手に抱きとめられる。人が近付いてきたのに気付けなかった。
はっとして顔を上げると、そこには今一番見たくない顔があった。
「何ふらふらしてんだ……! 1人で勝手に入っていって! 誰かに見つからなかっただろうな?」
「ハルキ……」
ひそめた声で降ってくる注意の雨も、俺の耳を素通りしていく。
聞いた? 俺たち、女神に祝福されてなかったらしいよ。笑えるよな。あんだけお互いしんどい思いもして、ようやく一緒に生きていきたいなって、おまえのためなら努力もしようって思ってたところだったのにさ。
笑い飛ばしてやろうとしたのに、俺の口から飛び出したのは、嗚咽だった。
ハルキの狼狽した声が頭上から降ってくる。俺はひきつる肺をなだめて、あふれ出る声を抑えようとした。でも、胸の中で昂った感情が、次々と波紋を広げてそれを許そうとしない。跳ねる喉が、みっともない声をこぼす。
「リク、何だよ、どうしたんだ」
当惑したハルキの声が耳を打つ。滲んだ世界では、ハルキの顔をうまく映せない。
冷たい夜の空気の中、くっついた体温が恥ずかしかったことを思い出す。あれが、まだ昨日のことだなんて。もう、遠い昔のことみたいだ。
パズルのピースがはまっていくように、記憶の中のハルキの言動に合点がいく。虚ろな瞳、変な表情、答えてくれない質問。
俺はしゃくり上げる体をどうにかなだめすかして、ようやく声を絞りだした。
「いつから、知ってたの?」
「え?」
「俺とおまえは運命じゃないって」
目のふちに溜まる水滴を払って、クリアになった視界でハルキを捉える。ハルキはぐっと言葉を詰まらせて、眉間にしわを寄せた。
「……聞いたのか」
女神が、ハルキは知っていると言ったのは、嘘じゃないらしい。
口の中に広がる苦い思いを奥歯ですり潰して、俺は言った。
「おまえ、昨日にはもう知ってたんだろ。もしかしたら、もっと前から」
ハルキは答えなかった。その沈黙は肯定だ。言われるまでもなく理解する。
昨日の夜、お互いの気持ちがうまくかみ合わなかったとき、ハルキは言った。俺を面倒だと思ってしまうのが、「自分が選ばれなかった理由なんだ」と。つまりそういうことだ。ハルキはあのときすでに、自分たちが運命じゃないって知っていたんだ。
楽しく食事をして、ふざけ合って笑って、夜の闇にまぎれてキスをして、食い違ってケンカして。女神の保証も、祝福も、未来の確約も、努力する必要さえもないって知っていたのに。
ハルキがそんな風に振る舞っていた理由がわからなくて、俺は訊いた。
「面白かった?」
「え?」
聞き返されることすら、むなしく感じた。いっそ馬鹿みたいに思えてきて、自嘲気味の乾いた笑いがこぼれる。
「悪かったな、女の子とも遊んだことないクソガキで。一喜一憂してるの見て楽しかったか?」
俺の様相に気圧されたのか、ハルキが言葉を失う。
あの夜、面倒くさいと言われた記憶が蘇った。突然泣き出してなじってくるようなガキなんて、そりゃあ嫌気も差すだろう。
「女神に祝福されてないなら、ご機嫌取りも歩み寄りも必要ないもんな。そりゃ面倒くさいよな!!」
「っ違う! それは……」
反論しようと声を荒げるハルキの体を押しやって、距離を取った。
「一緒に生きていくんだって、女神に約束された相手だからって、俺があれこれ言ってたのはさぞ面白かっただろうな! 面倒くさいこと言って悪かったよ!」
呆れたようなハルキの顔や、突き放すように言われた言葉ばかりが脳内でリフレインする。こんなときに限って、言われて嬉しかったことも、ハルキの笑顔も思い出せない。
両目からあふれる熱いものはそのままに、俺は無理矢理顔を上げた。
「おまえとなら、一緒に生きていきたいって思ったの、俺だけかよ……」
馬鹿みたいだ。本当に。こんな大事なことを間違える女神も、それを知ってて黙ってたハルキも、こうやって自分がつらいのを誰かのせいにしようとする俺も。
ハルキはこわごわと俺に向かって手を伸ばしてくる。
「リク」
「うるさい、やめろ、触んな」
首を振って後ずさると、ハルキは腕をあてどなく宙にさまよわせてから、力なく下ろした。
「リク、聞いてくれ」
「嫌だ、聞きたくない」
「おまえのことを陰で笑ってたとか、そんなんじゃないんだ。俺は……――」
「もうやめろってば!」
大声を出して、ハルキの言葉をかき消す。言い訳を聞かされたって、どんな風に信じればいいのかわからない。絶対に覆らない、約束されてた未来が間違いだったのに、ほかの何を信じればいいんだよ。
宮殿の冷たい廊下に、痛いほどの静寂が落ちる。誰かに見つかるかも? かまうもんか。
ややあって、ハルキが弱々しい声でつぶやいた。
「俺とおまえは運命じゃなかったけど、それでも俺は……」
ハルキは、最後まで言葉を紡がなかった。
言いたいことを言ってくれもしない。それもそうか。絶対に理解し合える運命の相手じゃなかったんだもんな、俺たち。理解してもらおうとする気にもならないか。
口をつぐんだハルキに、恨みがましく吐き捨てる。
「女神様も間違えるんだから、人間だって勘違いも失敗もするよな。いい勉強になったよ、ありがとう。授業料高すぎだったけど」
踵を返してハルキの前から去ろうとすると、後ろから腕をつかまれた。振り向かないままでいたら、静かな声が俺の心臓を冷やした。
「違う、女神アルメリアは――」
「万能なんだろ、わかってるよ」
どうでもいいよ、そんなこと。
女神アルメリアの神託が完全でないと知れたら、この国への影響は測り知れない。そんなことはわかっているけど、でも。
引きとめて、言うことがそれかよ。
俺はハルキの手を振り払って、小走りで駆けだした。
約束された相手のいない俺には、頬を伝う涙を拭ってくれる手は差し伸べられないんだ。こぼれる涙をそのままに、俺は宮殿の外へ飛び出した。時間でもないのに開閉する正面扉は変に思われるかもしれないけど、そんなことはもうどうでもよかった。




