27 「追いかけよう」
俺の肩口からそっとアイセンがのぞきこんでくる。ふわりと、上品で少し辛い香りが鼻先をかすめて、なぜかどきっとした。
「ああ、鍵屋ですね」
「鍵屋?」
聞き返すと、アイセンはゆるく頷いて続けた。
「宮殿の施工管理全般を請け負ってくれている方です。建物の修理とか」
「もしかして、ようやく裏口の鍵を変えに来たってわけ?」
「恐らくは」
さすがに部下が怪我するほどの騒ぎになったんだから、鍵も変えるよな。俺が侵入した程度じゃ変えなかったのかもだけど。
官長と鍵屋は話を終えたのか、お互いに頭を下げている。俺たちがいるのとは反対方向に歩き去る鍵屋を見送った後、官長は何か考えこむように裏口の扉を見つめていた。
俺とアイセンが息を殺している間に、官長はため息一つついて、裏口から宮殿内に戻っていった。錠の落ちる音がして、宮殿の裏手が静まり返る。
俺は細く長く息を吐いて、アイセンに視線を向ける。アイセンは同じように安心した顔を向けて言った。
「あの鍵屋、2代目なんですよ」
「2代目?」
「つい何ヶ月か前まで、彼の父親がやっていたはずです。息子に代替わりしてから、特に官長とは懇意にしてるみたいで……」
何とも言えない違和感が湧き上がってきて、俺は尋ねた。
「あの人、すっげえ色んな人に好かれてんだね。官長のこと嫌いって人、いないの?」
上に立つ人間なんだったら、少なからず嫌われるもんだろうに、あの官長のことは好きって人にしか会ったことがない。実際、俺も少し話をしたら、好感は持った。あれは、弱ってるときに寄り添ってもらったら、ころっといきそうだよ。
でも、何だかそれも不気味なんだよな。顔をしかめる俺に、アイセンが答える。
「官長を嫌いだって人はそう聞きませんね。リク君は苦手ですか?」
「いや、俺も官長は好きだよ。でも俺、万人に好かれる聖人は人間じゃないと思ってるから。何か裏があるのかなって思う」
姉ちゃんの結婚話を聞いたら、10人中9人は素晴らしい美談で、いい旦那だと言うだろう。でも、少なくとも俺にとっては、あいつは姉ちゃんを連れてった誘拐犯だ。100人の仲間全員に好かれる奴なんて、人間じゃないと思う。合う合わない、好き嫌いは普通のことだ。俺は父さんも母さんも好きだけど、女神に盲目なところは嫌いだし。
その俺の自論に基づくと、官長があんなに人に慕われまくってんのって、何か気持ち悪いんだよな。あそこまで人気集めてるなら、アンチがいてもおかしくないだろうに。
俺が少し考えこんでいたら、アイセンが、リク君、と俺に呼びかけてきた。
「急いで表に回って、鍵屋に話を聞いてみます?」
「鍵屋に?」
何の話を? と俺が首を傾げると、アイセンは言った。
「鍵の変更を頼まれたのは初めてかとか、宮殿関係者で裏口のことを訊きに来た人はいたか、とか」
「鍵屋がどっかで一枚噛んでるかもってこと?」
「知らないうちに利用されてる可能性もあります。依頼人や宮殿内部の関与してる奴を割り出せるかもしれません」
一理ある。犯人たちが裏口を使って侵入したなら、鍵屋と接触してる可能性はあるもんな。
「追いかけよう」
俺が声をかけるやいなや、アイセンは心得たように来た道を引き返す。俺は軽く地面を蹴って、アイセンに言う。
「怪我してんだから、ゆっくり来なよ」
返事は聞かずに、俺は走り出した。足には自信があるからね! 広場を出ていく前に捕まえてみせる。
宮殿の横手を駆け抜けて、表側に回る。昼時だからか、広場の参拝客は大分まばらになっていた。
広場を突っ切りながら、徐々にスピードを落とす。さすがにここで全力疾走は目立つだろう。幸せそうな恋人同士、待ち合わせでもしているのか、広場の入口を熱心に見つめている女性。何かを訴えるように、一心に女神像に祈っている男性。広場の中を眺めて、俺は目的の人を探す。
ふと、広場の出入口付近で、中年の男と話をしている作業着の男を見つけて、俺は歩をゆるめた。作業着は鍵屋で間違いないだろう。話をしている男は誰だろう? 制服じゃないからツェルマ官長の部下ではないはずだけど。俺のいる位置からだと、男が背中を向けていて顔が見えない。
様子を伺いながら近付いていけば、鍵屋が俺の存在に気付いたらしい。視線が交差して、まずいと思った瞬間に声をかけられる。
「何か?」
それにつられるように、俺に背を向けていた男も振り向いた。ようやく見た顔は、何度か見たことのある顔だった。
「やあ、こんにちは」
「どうも……」
今朝広場に入ってきたときにも見かけた男。以前、ここで騒ぎを起こしたことがあるってツェルマ官長が言っていた人だ。よく参拝に来るって言ってたし、鍵屋とも知り合いなんだろうか?




