13 「女神と何を話していたか、訊かないんですか?」
アイセンに見送られ、女神の部屋を背にした俺は、軽い調子で手を振った。手を振りかえしてくれた律儀なアイセンを肩越しに見てへらりと笑った瞬間、近づいてくる足音が耳に飛びこんでくる。
俺とアイセンはほぼ同時に音のした方を見た。コツコツと神経質そうな足音が響いてくるのは、俺のいる裏口への通路とは反対側、正面入口の方だ。あっちには出入口のほかにも、官吏の仕事部屋がある。官吏の誰かが来たってことか?
アイセンはさっと俺に目配せをした。俺は音を立てないよう、つま先へ体重を乗せて、通路の角に体を滑りこませた。急いでここを離れるべきか、しばらく様子を見るべきか。
壁を背にしたまま動かずにいる俺の耳に、徐々に大きくなる足音が届く。きっとアイセンが時間を稼いでくれるだろうけど、慌てて動いて気付かれてもいけない。
脈打つ心臓を押さえながら、耳をそばだてる。息を潜めてじっとしていたら、どこかわざとらしいアイセンの声が耳を打った。
「おや、ツェルマ官長。外の騒ぎは収まったんですか?」
げぇ、官長かよ。絶対見つからねぇようにしないと。きっとわざと俺に誰が来たのか教えてくれたのであろうアイセンに、心の中で感謝した。
続くツェルマ官長の返事が、静かな空気を震わせる。
「あちらは問題ない。いつもとさして変わらん」
「こちらも異常はありませんよ。女神は本日もご機嫌麗しく、御前に不具合も認められませんでした」
「それにしては、時間がかかっていたようだが?」
ツェルマ官長の探るような声音に、ひくりと俺の肩が跳ねる。俺が話しこんでしまったせいで、アイセンの定期チェックが長引いたのか。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらハラハラしていると、アイセンのしれっとした声が聞こえてくる。
「それで様子を見に来てくださったんですか。申し訳ありません。少し女神とおしゃべりを」
「またか。職務中、しかも神託を授けるだけの存在と無駄話をするなと、何度も言っているはずだ」
「はい、再発防止に努めます」
「おまえのそれはアテにならん」
心底呆れたような、ツェルマ官長のため息。確かにアイセンは随分と女神と親しげだと思ったけど、あれは日常的に定期チェックのついでにお喋りしてるからなのか。
官長はどこか疲れた色のにじむ声で、アイセンに声をかけた。
「チェックが滞りなく終わったならいい。おまえも早く上がれ。定時だぞ」
促すような足音に、彼らがそろってこの場を離れることを期待する。あの人たちが行ってくれさえすれば、俺もさっさと立ち去れる。
しかし、続いて俺の耳に聞こえてきたのは、アイセンの低い声だった。
「女神と何を話していたか、訊かないんですか?」
ぴり、と緊張が走ったのがわかった。通路の温度が、一気に下がった気がした。
思わず、息を止めそうになる。両手で口をふさいで浅く呼吸しながら、俺は全神経を耳に集中させた。
飛び込んできたのは、突き放すようなツェルマ官長の声だった。
「おまえと女神のくだらん問答になど興味ない」
わずかな沈黙の後、落胆を含んだアイセンの声が落ちる。
「もう少しくらい、向き合ってくれてもいいでしょう?」
「興味がないと言っているだろう」
「酷い人だ……あなたは、極上の水がそこにあるのに、口にすることのできない者の気持ちも、考えてくださらない」
「くどい!」
ぱん、と軽い音が俺の心臓を打つ。喉が鳴りそうになるのを堪えて、体を強張らせた。
叩いた? 叩かれた? アイセンが、かな?
わずかに熱を帯びた空気を、ツェルマ官長のするどい声が切り裂く。
「おしゃべりは終わりだ。さっさと身支度をして、家へ帰れ」
怒ったような靴音を響かせながら、一つの足音が遠ざかっていく。やや間が空いてから、それを追いかけるように二つ目の足音も離れていった。
十分足音が消えてから、俺は肺に溜まっていた息を細く吐き出した。両手で口元を覆ったまま、今さら早鐘を打つ心臓を押さえつけようと必死になる。
何あれ。今の会話何だったんだ。あの人たち、何の話してたの? っていうか、今の会話、俺が聞いていい話だった?
アイセンの暗くて低い声とツェルマ官長の冷たく突き刺すような声が、頭の中を回っている。脳裏にこびりついた、何かを叩くような音。アイセン、同期とはいえ、上司に叩かれたらパワハラで訴えてもいいと思うよ。いや、そうじゃなくて。
混乱しきった心の中をどうにか落ち着かせて、はたと思い出す。
あの2人が仕事部屋の方へ戻ったってことは、官吏は上がりの時間。つまり、ハルキも上がりだ。俺は広場でハルキの仕事上がりを待っている予定だったはずだ。
「やっべ……!」
口の中で小さくこぼして、俺は裏口へ小走りで駆けた。




