落下彼女(三十と一夜の短篇第5回)
俺の左手たす彼女の右手。
それは、俺と彼女が出会ってからずっと変わらない二人の距離。
彼女の手を引いて歩く通学路。ふと青空に目をやれば、視界の隅にひらひら舞う蝶を見つけた。
まずい、彼女も気づいただろうか。
ちらりと様子を伺うまでもなく、のんきな声が俺を絶望させてくれる。
「あ、ちょうちょ〜」
彼女の声が聞こえた瞬間、あたりは一面花畑。さっきまで左右に広がっていた住宅街は姿を消してしまい、俺は踏みしめていたアスファルトが恋しくなる。
ひらひら舞う蝶は数を増やし、色とりどりの花の間をあっちにこっちに飛び回る。見渡す限りの花はどれも満開で、淡く明るい光を放っている。
非現実的な光景。
それもそのはず。ここは、彼女の想像した空間。現実ではない、空想の世界。
きらきら輝く鱗粉をこぼしながら蝶が目の前を横切った。つられたようにふらり、進んだ彼女の手がするりと俺の手を離れる。
「あっ、おい!」
呼び止める間もなく、二歩、三歩と進んだ彼女は空に舞い上がる。その背に広がるのは蝶の羽。
ひらひら舞う蝶に混じって花から花へと飛び回る彼女を追って、俺は花を蹴散らしながら駆ける。
あと一歩、踏み込めばその手をつかめると手を伸ばした俺の視線の先。彼女の目には揺れる白い花びら。その様はまるで純白のドレスのよう。
まずい、と思う間もなく突風が吹き付けて花びらが宙を舞う。とっさに顔をかばった腕を下ろすと、すでに花畑は色を失くし、蝶は姿を消していた。
消えかけた花びらを追って視線を上げれば、崩れゆく蝶の羽で青空に登る彼女。どこからか聞こえる教会の鐘の音。
その背を見失うわけにはいかないと、消えかけの地面を蹴り彼女の背を追う。空が高い。伸ばした手が彼女に届かない。
俺に羽はない。けれど、彼女が飛べるなら俺だってやれるはずだ。やらなきゃいけない。
「ちょっ! と、待て! よっ!」
やれると信じて飛び上がる。地を蹴り、宙を蹴り、青空の向こうに消えようとする彼女まで、もうちょっと。
伸ばした腕が彼女の靴のかかとに触れたとき、あたりは一面真っ白になった。
リーン、ゴーンと響く鐘の音が聞こえる。
いつの間にやら、地に足がついている。見下ろした俺の足は明るいグレーのズボンに包まれて、黒い革靴を履いている。靴を履いた足の下には、赤い絨毯。
左胸には花が飾られ、片手にはどうしてか白い手袋が握られている。
この格好は、もしや。
俺が自分の格好に思い当たって少し動揺したとき、こつり、背後で靴音がした。
びくっと、思い切り動揺してしまう。
こつり。こつり。
ゆっくりと近づいてくる靴音。そうっと、こっそり頭を巡らせて後ろを見れば、そこには純白のドレスに身を包む女性の姿。
赤い絨毯の上をゆっくりと歩くその人の顔は白いベールに覆われて見えないけれど、俺には誰だかわかっていた。
こつり。こつ。
俺の半歩後ろで足を止めたその人の、顔を隠すベールにそっと手を伸ばす。優しく持ち上げ、背に落とす。
ベールの下でうつむいているのは、探していた彼女。その装いに、思わず微笑んでしまう。
「きれいだ。よく似合う」
雰囲気に流されて恥ずかしいことを恥ずかしげもなく口にして、彼女の手を取ろうと手を伸ばす。
俺の指が触れる寸前、そうっと顔をあげた彼女は、ふと何かに視線を奪われる。
俺の肩越しに彼女が見上げたのは、ステンドグラス。様々な青が散りばめられた色とりどりのガラスが、陽光を浴びてきらめいている。
まるで、海のように。
そう思ったときには、もう水の中だった。
海底を彩る種々のサンゴ。行き交う魚は色も形も様々だけれど、どれもみな美しい。
水面から射した陽射しが幻想的に見せる青い海は、どこまでも透き通ってゆらめいている。
思わず見とれた俺の口から、ごぼごぼと溢れる気泡。そうだ、俺は水中で呼吸ができない!
「がぼごぼごぼげぼっ!」
気づいた途端、苦しくなる息。
体の中まで海が入り込んで、これは駄目かも、と弱気になった俺の視界に尾びれを生やした彼女が映る。
心もとない布切れで胸元を隠し、腰から下を覆う鱗で光を弾かせながら海中に踊る人魚。
必死でもがき、自身の吐いた空気の泡を押しのけて彼女の元へ。
ひらり、ひるがえる尾びれを追って、戯れる魚を蹴散らして、伸ばした腕がついに彼女の手に触れた。
きょとんとした顔で、振り向く彼女。
ぎゅっとその手を握りなおせば、こぽりと気泡を生みながら彼女の口が動く。
「 」
音にならない声が俺の名を呼んで、視界が暗転する。
気づけばいつもの通学路。うまい酸素を思うさま吸って、呼吸を整えた俺はつないだ彼女の手を引いて歩きだす。
いつか帰ってこられなくなるかもしれない。いつか彼女の空想の中に取り残されるかもしれない。
そんな可能性を考えれば、怖くないわけはない。
けれど、彼女が俺の顔を見て現実を思い出してくれるうちは、この手を離さないでいたいと思う。この手を繋いでいられるうちは、彼女のそばにいたいと、思ってしまうのだった。
読み切りの少女漫画をイメージしてみました。