哀しみのララバイ
その日は、夜になっても町の活気が衰えることはなかった。
無数の光が、辺りを煌々と照らしている。老若男女による喧騒で満ち溢れ、雑踏する迷路のような空間――。
いや、本来はこんな迷路のような空間ではないのだろう。理路整然とした、碁盤の目状であるはずだ。迷路のようだと錯覚してしまうほど、人で混み合ってるのだ。この迷路は、ここにいるたくさんの人々によって生み出されているのである。
この迷路に迷ってしまった幼い子供が、「パパ、ママどこぉ」と、泣きながら大声で叫んでいるのが聞こえる。見知らぬ大人たちに揉みくちゃにされて、さぞかし苦しいだろう。体の大きい大人たちの太ももあたりに、肩が何度もぶつかって痛いに違いない。まあ、そもそも子供がはぐれないよう注意しなかった親に落ち度があるのだが……。
ボクの目に、『特製たこ焼き』と達筆な字で書かれた大きな暖簾が飛び込んできた。べニア板で作られた屋根から垂れ下がっている。ソースと鰹節の香ばしい香りが食欲をそそり、ジュウという音も腹の虫を刺激した。ボクは思わず、後ろを振り返る。
「ねえ、たこ焼き食べない?」
紋白蝶らしきものがたくさん描かれた淡い水色の浴衣。サラサラと風で揺れる黒髪が、その棒襟を撫でていた。そんな今西奈保美の佇まいを目の当たりにして、ボクは生唾を呑み込んだ。たこ焼きが美味しそうだったからではない。
ところでボクは、今西奈保美のことを『チー』と呼んでいる。理解不能だとは思うが、チーと真剣な交際をするきっかけがチーズケーキだったからである。ボクの頓狂な声に反応したチーが白い歯を見せた。
「いいよ、そのかわり完全なる奢りね」
「別にいいよ」
ボクは、握りしめていた財布から小銭を取り出した。たこ焼きを買うのだろうと察した店の人が、ボクの顔を少し興奮気味に見て唾が飛び出んばかりの大きな声で、「いらっしゃいっ!」と、言った。
「たこ焼き八個入りください」
すると、たこ焼き屋のオジサンがげんなりとした表情で首を振る。
「にいちゃん、せっかく可愛らしい彼女連れてるんだから一三個入り買ったらどうだい?」
――意味が分からない。なぜ彼女を連れているからといって、自分の希望のたこ焼きの数を五個増やさなければならないのだ。
「いや、八個入りでお願いします」
「ダメだ! たこ焼きを一人占めしようなんて、そうは問屋が卸さねえ。ちゃんと、彼女の分も買ってやれ」
「余計なお節介だ」と、口から出そうになったが、なんとか喉のあたりで出さずに我慢した。そこまで言うなら仕方ない。めんどくさいし諦めよう。
「じゃあ、一三個入りで」
「よしきた。二四〇円だ」
「え?」
「だから、二四〇円だ!」
なぜ、八個入りと同じ値段なんだ? ボクは複雑な気分になった。なぜか脅迫めいた口調で一三個入りのたこ焼きを買うよう催促され、既に一三個入りのたこ焼きを買う分のお金を用意していたのに……。
「良いんだ! ほら、よく外国で〝ミスカウント〟って言うだろ? あれと、同じだ」
自信満々に〝ミスカウント〟と言ったが、恐らく〝ディスカウント〟のことだろう。商品勘定のカウントをミスしたら、単なる店の損だ。
「あんな可愛らしい子を悲しませるよりはマシだ。オジサン、お前のことが羨ましいぞお」
「は、はあ」ボクは、言葉に窮するほかなかった。
チーのところに戻ると、チーが怪訝そうな顔でボクを見つめた。
「ちょっと遅かったね。何かあったの?」
「いや、別に……」
巻き付いた輪ゴムを取り外して、たこ焼きの入ったパックを開けた。すると、一三個入りのたこ焼きを見たチーが、予想通り目を点にした。
「えぇ、なにこれ。いっぱい入ってるじゃん。私は三個ぐらいで良いから、あと全部食べてよ」
――ミッションインポッシブル。チーの口から発せられた任務は不可能に近かった。というより、絶対ムリだった。ボクは割と小食なのだ。
背中に嫌な汗が、すうっと流れる。すると、背後から若い大学生ぐらいの男の声が聞こえた。
「なんだよ、オジサン! さっきの奴には二四〇円で売ってたじゃねえか」
よし、五個ぐらいあの大学生の集団にあげよう。
「夏祭りって、やっぱりスゴく混むんだね」
不機嫌そうにチーが口を開いた。
「まあ、仕方ないよ。ボクもあんまり人混みは好きじゃないけど、金魚掬いとか今でも楽しいからね。けっこう夏祭りって頻繁に行くよ」
「金魚掬いかぁ。そういえば、金魚掬いの屋台ないね?」
「そういえば、まだ見当たらないな」
ボクは辺りを見回した。
「ていうか、夏祭りに出回ってるのは夜店って言うんじゃないの? 屋台っていうと、なんかラーメンとか、おでんを思い浮かべるんだけど……」
「夜店は夜のバーとかキャバクラのイメージがなくもない。まあ、どっちでも良いんじゃないの?」
「そうだね。おっ、あそこにあるの金魚掬いの店っぽくないか?」
すると、チーが目を遠くに凝らす。
「ホントだ。でも、すごい行列ができてる」
今年は金魚掬いの店が少ないのだろうか、確かにとんでもない人集りができている。
チーが露骨な渋面で低い声を出した。
「ねえ、今日はもう金魚掬いはやらなくても良いんじゃない? あんな行列並んだら、花火大会まで間に合わないよ」
「別に金魚掬いがしたいとは一言も言ってないよ」
舌をぺろりと出すチー。
「そっか。じゃあ、違う店探そ」
「隣に、ヒモくじの店あるね。やってみよっか?」
「うん!」チーは快活な声を出した。
金魚掬いの店ほどではないが、ヒモくじの店も少し長い行列を待つ必要があった。やはり、小さな子供を連れた家族が多い。
父親がおらず、母親と一人の子供が目の前にいる。たぶん、子供が兄弟なのだろう。父親が別の子供を連れて違う店に行っているのかもしれない。確かに、そっちのほうが効率が良い。
「ヒモくじって、やっぱり他のくじとは違う面白さがあるよね?」
「あるような、ないような……チュウたんにとって、ヒモくじの面白さってなに?」
ボクはチーから、『チュウたん』という何とも間抜けなニックネームで呼ばれている。
「ヒモくじって、まさにすぐ目の前にある欲しい景品を当てようとするじゃん」
「それなら、他のくじも同じなんじゃない?」
「いや、ちょっと違うよ。普通のくじ引きは、欲しい景品を当てるためのくじが目に見えないよね? くじを引いてから、やっと欲しい景品が貰えるかどうか分かるんだ」
チーは苦笑いを浮かべ首肯した。
「まあ、そりゃそうね。それぐらいは知ってる」
「でも、ヒモくじって目の前にある欲しい景品にヒモがついてるのを目視できるんだ。引くべきくじ、つまり引くべきヒモが分かってるのに、そのヒモに繋がってるヒモは分からない。その、もどかしさが何とも言えないよ」
ボクのあまりの雄弁さに圧倒されているのか、チーはぽかんとしながらボクの顔を凝視していた。そして、
「ちょっと、良く分からない。まあ、とりあえずヒモくじは他のくじよりも面白いんだね」
と、自分の長々しい説明をあっさりと要約されてしまった。
しばしの沈黙がおちる。ボクたちの前に並んでいた子供が、くじを引き終わったようだ。目を輝かせて、はしゃいでいる。
「ねえママ。これなあに?」
「これは、『でんでん太鼓』っていうのよ。こうやって振って遊ぶの」
でんでん太鼓が、ポンポンという音を出した。ポンポンというよりは、名前の通りデンデンのほうが正しいだろうか。妙に気分を高揚させる音だ。
ボクたちがくじを引く番が回ってきた。景品に特段欲しいものはなかったが、友達と遊ぶと楽しそうなので、双六タイプのボードゲームを当てようと決めた。
すると、チーがボクの肩に手をかけて、背後から囁くように小声で話しかけてきた。
「あのトイレ用の可愛いスリッパ欲しいな。あのトイレ用の可愛いスリッパ欲しいな。あの――」
「もう、分かったよ!」
少し声を荒げてボクは言い放つ。
右から一四番目にある、ちょうど真ん中ぐらいのヒモを徐に引いた。徐々に引く力を大きくしていくと、僅かに景品が動いたような気がした。
「お、今スリッパ動いた!」
チーが目を見開く。
――結局ボクが当てた景品は、スリッパの隣にあったボードゲームだった。チーが、落胆の表情を浮かべている。
嬉しいような悲しいような、微妙な心情に陥った。
その後も、色々な夜店を見て回った。なぜか、かき氷の店を三カ所立ち寄ることになったが、腹を壊さずに済んでよかった。
「そろそろ、花火大会の時間かな?」
「ボクの時計なら、あと三〇分ぐらいで始まるよ」
「ふーん、なんか中途半端ね」
夜店はもう十分堪能した。おかげで、手荷物がやたらと多い。まるで、大型デパートで買い物し過ぎたかのようである。
「でも、そろそろ行ったほうが良いよ。良い場所で花火見たいだろ?」
「そういえばそうね。じゃあ、駆け足で行こ」
そう言うと、チーは本当に駆け足で花火大会の場所に向かい始めた。景品を当り前のように、全てボクに持たせているにも関わらず――。
「ねえ、遅いってば。早くしてよ」
「荷物がけっこう重いんだって」
「男の子でしょ?」
「男の子にも限界というものが……」
三笠川の河川敷に着いた。ボクの心拍数は、一七〇くらいにはなっていたかもしれない。チーもさすがに、肩で息をしていた。
「はぁ、はぁ……疲れた。喉も渇いた」
「さすがに、ここまで急ぐ必要はなかったと思うよ。ほら、まだ少し良い場所空いてる」
「ホントだ。早く行きましょ」
重い足取りで、チーとボクは空いている場所に向かった。
「はあ、疲れた。ねえ、ジャンケンで負けたほうがジュース買いに行かない?」
チーの唐突な提案にボクは少し面食らったが快諾した。
結果はボクの勝ちだった。すると、チーが急に鬱然とした顔つきになったのである。その後、チーの口から発せられた言葉は予想だに出来なかった。
「レディーファーストって言葉知ってる? 外国では、紳士なら女を尊重するの。その女に〝パシリ〟をさせるなんて信じられない!」
唖然とした。いや、というよりは慄然とした。
「き、君が提案したことじゃないか。それなら、最初から買ってきてくれと言えば良かったのに」
すると、チーが急に満面の笑みを浮かべる。
「冗談よ、冗談」
「どっちの意味? 提案が冗談ってことか、ボクに買いに行かせるってことか……」
「もちろん、提案よ! だから、行ってらっしゃい」
「あっそ」不承不承、ボクは自動販売機へと向かった――。
「コーラで良かった?」
「うん、ありがとう」チーは親指を立てた。
「そろそろ、始まるね」
「うん、人もかなり増えてきたし。花火大会の雰囲気ってかんじになってきたね」
コーラの入ったアルミ缶のプルタブを、チーが眉間に皺寄せて開けた。アルミ缶を傾けてコーラを飲み始める。水分を余程奪われていたのか、五秒以上は缶を傾けていた。「ぷはあ」と声を出してから、ボクに訊いてきた。
「チュウたんって、兄弟とかいるの?」
「いや、いないよ。いきなりどうしたの?」
「なんとなく訊いてみただけ」
透明で底が見えるとまではいかないが、三笠川を流れる水を見つめるチー。その瞳は、どことなく哀愁を帯びていた。
「じゃあ逆に訊くけど、チーには兄弟いるの?」
「うん。でも、〝昔〟だけどね……」
「昔?」
刹那、ボクの心の中で何かどす黒いものが渦巻くのを感じた。なぜだか分からないが、この話はこんな場所でするべきではないような気がした。ボクの嫌な予感はけっこう当たる。
「ごめん、何か良くないこと訊いちゃったかも」
「いや、いいの。気にしてないから。あたしが悪いんだから」
「ボクが訊いたのも悪いよ」
「どうして? チュウたんは何も知らなかったんだから仕方ないよ」
すると、チーは急に改まった口調で言った。
「でも、もし良かったら……あたしの弟との思い出話聞いてくれる?」
ボクは神妙に頷いた。
「私が小学四年生の時、あの子は、亮太はこの世に生まれたの。顔はお母さん似だった。つまり、私にも似てたと思う」
なるほど、かなりの美男子、イケメンに育つはずの子だったようだ。
「それでね、お母さんがよく留守にしてた頃があったの。もちろん、あたしが亮太の子守りをさせられていた。でも、赤ちゃんを寝させるのって案外大変なの」
「そうなんだ? 赤ちゃんの子守りなんてしたことないから、ちょっと分からないけど……」
チーは微笑した。
「まあ、意外としたことない人多いよね。オモチャとかであやしたりしても、なかなか寝てくれなかったの。でも、ふと思い出したのよ。そういえば、あたしって良く子守唄を聴いて寝てたかもしれないって」
「小さい頃の記憶はもう綺麗さっぱりだな、ボクは……」
「もしかしたら、亮太も子守唄で寝てくれるかもって思った。だから、歌ってあげたの。『ねんねんころりよ、おころりよ』ってね」
「懐かしいなあ。で、効果はあったの?」
チーは苦々しい表情でかぶりを振る。
「それがダメだった。でも、理由はなんとなく分かる。あたしが子守唄を最後まで歌えてなかったからよ。一番の歌詞しか覚えてなかったんだもん」
「ふーん。ということは、チーのお母さんは最後まで歌ってたってこと?」
「うん、三番まであったような気がする。二番と三番がどうしても思い出せなくて……」
「じゃあ結局、赤ちゃんを寝かしつけることもできずに、ずっと子守りしてたんだ」
「いや、実は違うの。ちゃんと寝かしつけることができてた」
一体どういう意味だろうか。一番までしか歌えなくて、効果がなかったのではないのか。
「一番だけでは効果がないと思ったから、即興で歌詞を考えてたの」
ボクは呆気にとられた。
「つまり、適当に歌ったんだね?」
そして、思わず訊いてしまった。
「ちなみに、どんな歌詞?」
「本当に適当だよ。えっと確か、『はーやく寝てくれ、寝てくーれー。はよ寝なアカンで、亮太くん』だったかな。で、三番がね――」
「いやごめん、もういいよ。ありがとう」
あり得ない。赤ちゃんがいくら言葉が分からないとはいえ、そして反論しないとはいえ酷すぎる。しかも、なぜ関西弁が少し混じっているのだ。
二人で談笑していると、『ピーンポーンパーンポーン』という電子音が聞こえてきた。
「あ、そろそろ始まるみたい」
そう言ってチーのほうに目をやると、チーがポケットから携帯電話を取り出していた。
「あ、もしもし亮太?」
さっきの音は着メロだったのかよ、ややこしい! そして、ボクは『亮太』というチーの言葉を聞き逃さなかった。瞬時にして、パニックに陥ってしまった。
チーが電話での会話を終えると、ボクは早速、半ば叫ぶようにして訊いた。
「え、今の電話の相手って誰?」
チーは顔を綻ばせながら言った。
「今ちょうど話してた亮太よ。噂をすれば現れたってわけじゃないけど、なんか偶然で面白いね」
「いや面白くないよ。幽霊とでも話してたの?」
すると、チーが怪訝そうな顔をした。
「幽霊? そんなわけないじゃん」
「でも、昔に兄弟がいたって――」
「そうよ、昔だけど兄弟がいた」
もはや、何が何だか分からなかった。
「いったいどういう意味?」
「だから、亮太は、あたしの前のお父さんの連れ子なの。でも結局、お母さんが離婚しちゃたから、もう兄弟じゃなくなったわけ」
納得と驚きが混合したような気持ちになった。
「てことは、今のチーのお父さんは三人目ってこと?」
チーは首を横に振る。
「違う違う! お母さんもそこまでバカじゃない。今は、お母さんと二人暮らし。亮太のお父さん以来、誰とも結婚してないよ」
「そ、そうなんだ」
ボクはしばらく、呆然としていた。まさかチーが、そんな人生を送っていたなんて……。こういう人は意外と少ないのではないだろうか。チーの顔を見つめながら、些か曖昧で霧のかかったような感情を抱いた。
ボクがじっと顔を見つめたせいか、チーは苦笑いを浮かべる。
「なに、どうしたの?」
刹那、ピューという口笛のような音が夜の空に響いた。そして、風船を割ったような破裂音が鼓膜を振動させる。赤や緑といった満開の花が闇夜に咲き乱れ、見物客がおおいに騒ぎ始めた。
「わあ、綺麗!」
思わずそう声を漏らしたチーの瞳は、まるで宝石のように輝いていた。それも、花火の色によってルビーとかエメラルドになる七変化の宝石だった――。
「で、その後どうなったの?」
「もう、いいだろ? うんざりだ」
「ダメ、その後が大事なんだから」
いつも母さんは、くどかった。ボクがチーとデートをする度にこうだった。
「別にどうもなってないよ。花火見て、そのまま一緒に帰っただけ」
怪しむような顔で、母さんはボクの顔を眺める。
「すぐそうやって、しらばっくれる」
「だいたいね、こういう話はふつう家でしないよ」
「いいのよ、母さん異常だから」
このままでは埒が明かない。ボクは話題を変えることにした。
「ところで、ボクが小さい頃に子守唄って、よく歌ってた?」
突然、母さんが虚ろな目でボクを見つめる。
「ええ、歌ってた。でも……」
「でも?」
「健太、あなたは母さんの子守唄よりも、あの人の子守唄が特に好きだった」
ボクは小首を傾げた。
「あの人って? ボク、その人知らないよね?」
皿洗いを終え、テーブルの椅子に腰掛ける母さん。
「知らないんじゃなくて、忘れてるのよ。本当に小さい頃だったからね」
正直、全く記憶になかった。ボクに子守唄を歌ってくれていたのに、どうして忘れているのだろうか。
「記憶にはないけど知ってる。そういう人は思いつかない?」
ボクは宙を見上げながら、必死に頭の中の抽斗をあさった。すると、ある一人の人物がその抽斗から出てきた。
「もしかして、秀樹おじさん?」
母さんは、黙然と首を縦に振った。
そうだ、秀樹おじさんだ。ボクは秀樹おじさんの顔を、写真でしか見たことがないと思っていた。でも、物心がついていない赤ん坊の頃は、よく世話をしてもらっていたらしい。それを、今思い出した。赤ん坊の頃の記憶は、さすがに良く覚えていない。忘れてしまうのは、仕方ないといえば仕方のないことだ。
「健太はね、秀樹の子守唄がとても好きだったの。母さんの子守唄よりも喜んで聴いてた。寝付きも良かった」
ボクは、赤ん坊の頃の気分になって想像した。どんな歌声だったのだろうか。バリトンボイスかハスキーボイスか、はたまた甘い声なのか。歌うテンポはどれくらいだったか――。でも、やっぱり思い出せなかった。
「人間って怖いわね。いや、というより人間の記憶が怖いのよね。消え去ったものは、すぐに忘れちゃうんだもん」
秀樹おじさんは、ボクが三歳の時に亡くなった。趣味のランニング中、急性心筋梗塞で倒れたらしい。持病とかは、特になかったという。
「秀樹も忘れられるのは辛いと思う。人間にとって一番辛いのは、忘れられるってことなの、たぶんね」
そう言うと、母さんは二階に上がって行った。
ボク一人、リビングに取り残された。強い風が窓を叩く音と、時を刻む時計の針の音が、部屋に響いている。
もしも人から忘れられて孤独になったら、どれだけ辛いだろうか。そういえば、天才は常に孤独だと良く言われている。そして、孤独でありたいと思う生き物だと一般的には認識されている。なぜなら、天才の考えていることは常人には理解できないからだ。たとえ他人と繋がりを持ったとしても、互いの考えが衝突して齟齬をきたすのである。他人と喋っていたりしても、たぶん面白くないのだ。
でも、天才は直接的な繋がりは求めていなくても、間接的な繋がりは少なからず求めていたのではないだろうか。その証拠に、天才と呼ばれるきっかけとなった多くの作品や実績を遺している。あれこそが、まさに自分を知ってもらいたいという願いが込められた〝リアル〟ではないだろうか。自分が表現したいことを作品によって他人に伝える――この行為は天才たちによる、なけなしの意志疎通だったのかもしれない。
実際に存在するものとか実績は、生きていようが死んでいようが通用する道具だ。孤独から逃れるための道具なんだ。
母さんが二階から戻ってきた。その手には、布を縫っただけの簡素で小さな袋が握られている。
「なに、その青い袋?」
「秀樹はね、健太を一度だけ夏祭りに連れて行ったのよ。その時に、あなたが当てた景品がこの中に入ってる。たしか、ヒモくじだったかな」
ボクの心臓がピクリと跳ねた。大好きなヒモくじを、そんな小さい頃にやっていたとは……。
「ほら、中を見てみなさい」
ボクは、ゆっくりとその袋に手を伸ばした。手触りの良い、フワフワとした布だ。少し黒ずんではいるが、鮮やかなコバルトブルー色だった。ヒモがついていたので、それをほどいた。すると、何やら赤いものが見えた。
『でんでん太鼓』だ。間違いなく、『でんでん太鼓』だった。
「秀樹が大切に保管していたらしいの。そういえば、動かなくなった秀樹の頬を、あなた涎でベタベタになった手でツンツンしてたわよね。あの時、皆笑ってた。『なんで動かないの?』っていう顔で、ツンツンして喜んでた。涎で顔がベタベタになっても、秀樹は嬉しそうに眠ってた。その袋も一緒に棺に入れようか迷ってた時に、一番嫌がってたのは健太だった。大泣きして嫌がってたのよ」
次第に目頭が熱くなっていくのを感じた。この気持ちは何だろう。年忌の日や墓参りの時期が訪れると、秀樹おじさんのことは思い出していた。
でも、いちいちおじさんとの思い出を振り返ることはなかった。『そういえば、秀樹おじさんっていう人がいたな。忘れてたな』ぐらいの気持ちにしかならなかった。
「子守唄を歌ってくれてただけじゃなかったんだ」
「そうよ。お風呂入れてもらったり、遊んでもらったりしてたのよ。ところで、まだ何か入ってない?」
ボクは再び、袋の中を覗いた。すると、一枚の写真が入っていた。
写真には、今日見たような花火が映っていた。色々な花火が、同時に満開となる瞬間が撮られていたのだ。
「夏祭りに行った時の写真かな?」
「きっとそうね」母さんの目にもうっすらと涙が滲んでいる。
「右下のあたり、なんか汚れてるね」
すると、母さんは微笑んで言った。
「それはね、あなたがたこ焼きのソースで汚れた手で触ったからよ。秀樹が、そう嘆いてた」
思わずボクも笑ってしまった。手を何かで汚すのが得意だったようだ。
「ところで、母さんって子守唄の二番と三番覚えてる?」
母さんは、思案顔を浮かべた。
「うーん、何だっけ。さすがに忘れちゃったかな」
「だよね。まあ良いよ、あとで自分で調べるから」
ボクは、自分の部屋がある二階へと上がった。
パソコンを起動し、インターネットで『子守唄』と検索した。一般的に良く知られている子守唄は、江戸子守唄というらしい。なるほど、江戸時代から伝えられているものなのか。
『一 ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな
二 ぼうやのお守りは どこへ行った
あの山こえて 里へ行った
三 里のみやげに 何もろうた
でんでん太鼓に 笙の笛』
ボクにとって、この子守唄はちょっと哀しい唄だ。
でも、ずっと胸にしまっておきたいと思う。秀樹おじさんを忘れないためにも、秀樹おじさんを孤独にさせないためにも、青い袋に入ったみやげと一緒に――。≪完≫
いよいよ次は、最終編となります。
どうか、楽しみにしていてください。公開日はいつも通り、未定です(^_^;)