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姉の代わりの花嫁を、公爵だけが見ていました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/30

「代わりでいい」と母は言った。

「花嫁支度の打ち合わせに行ってちょうだい。衣装の生地を選ぶだけよ。ローザは今日は頭が痛いそうだから」

「承知しました」

 私は頷いた。聞き返すまでもない。姉の代わりは、もう数えるのをやめたくらいにはこなしている。

 舞踏会の代理出席が12回。茶会の席埋めが8回。領主夫人への挨拶回りが5回。そして今日、花嫁支度の打ち合わせ。——数えるのをやめたと言いつつ正確に覚えているのは、たぶん私の悪い癖だ。

 嫁ぐのは姉のローザだ。相手はグラーフ公爵家のクラウス様。私は知らない。顔も声も、噂でしか聞いたことがない。

「ニナ。髪くらい整えていきなさいよ、一応は公爵家に行くんだから」

「代わりですので、構いません」

「……まあ、そうね。どうせ顔は覚えられないでしょうし」

 母が視線をそらした。


 公爵邸の応接室は、想像よりずっと静かだった。

 白い壁に日差しが落ちて、窓辺の花瓶にすみれが飾られている。——すみれ。珍しい。貴族の応接室にはバラか百合が定番なのに。

「お待たせいたしました」

 扉が開いて、長身の男性が入ってきた。灰色の髪を後ろで束ねて、穏やかな目をしている。

 グラーフ公爵——クラウス様だ。噂では冷厳だと聞いていたのに、ずいぶん柔らかい表情をしている。

「本日はよろしくお願いいたします。お嬢様」

「あの、申し訳ございません。私は姉の代わりで参りました。花嫁はローザですので、お間違いのないよう」

「承知しております。では始めましょうか」

 それだけ言って、テーブルの上に布地の見本を広げた。

「式に使う花のご希望を伺いたいのですが」

「姉はバラを好みます。白いバラか、薄紅のものが——」

「お嬢様ご自身は?」

「……え?」

「お嬢様のお好みも伺っておきたいのですが」

「……すみれ、です。ですが、花嫁は姉で——」

「ありがとうございます」

 クラウス様は何かを手帳に書き留めた。丁寧な方だと思った。姉がどうせ来るのだから、聞いても仕方がないのに。


 ——翌週も、その翌週も、姉は来なかった。

「ローザは今日もお友達と約束があるそうよ。ニナ、行ってきてちょうだい」

 母は悪気なくそう言った。

 3度目の公爵邸。応接室のすみれは、先週のものではなかった。新しく活け替えられている。

 テーブルの上に、小さな菓子の皿が並んでいる。レモンタルト、蜂蜜のビスコッティ、ドライフルーツの焼き菓子。

 ——公爵家の菓子職人が得意な品目が、たまたまこの系統なのだろう。

「本日は菓子の試食をお願いしたいのですが」

「あの、クラウス様。こちらはレモンタルトですが、姉はチョコレートを好みます」

「ではお嬢様は、どちらがお好きですか」

「ですから、花嫁は——」

「質問を変えましょう」

 クラウス様が私の目を見た。灰色の瞳に、真剣な光がある。

「このレモンタルト、お嫌いですか」

「……いえ。好きですが」

「では問題ありません」

 何の問題が解決したのだろう。——本日の「お嬢様は」は3回目。なぜ数えているのか自分でも分からない。

 けれどレモンタルトは本当に美味しくて、結局3つ食べてしまった。クラウス様は黙ってお茶を継ぎ足してくれた。

 代理の席で菓子を3つ食べた経験は初めてだ。——また数えている。


 4回目の打ち合わせは、衣装の仮縫いだった。

「寸法の確認だけですので、そのまま立っていただければ」

 仕立て屋が私の肩幅を測り、腰を測り、袖の長さを測った。

「あの、姉と私は肩幅が少し違いますので、当日は調整が必要かと——」

「いえ、こちらのお嬢様の寸法でお仕立てするよう承っておりますが」

「……は?」

 仕立て屋が首を傾げた。私も首を傾げた。

 隣の部屋から、クラウス様の声が聞こえた。

「お嬢様。色は、薄紫と淡い青のどちらがお好みですか」

「クラウス様、何か重大な誤解が——」

「どちらがお好みかという質問は、誤解の余地がないと思いますが」

「あの、聞いてください。花嫁は姉です。私の寸法で仕立てても合いません」

「合わなければ困りますね」

「はい! ですから——」

「お嬢様に合わなければ、困ります」

 私は口を開けたまま、言葉を失った。仕立て屋が気まずそうに巻尺を巻き戻しながら小声で呟いた。

「あの、私は布を測りに来ただけなのですが」

 ——私もそう思います。


 5回目の打ち合わせのあと、応接室で1人になった。

 クラウス様は来客で席を外し、使用人もまだ戻らない。お茶だけが残っている。——また知らない香りの茶葉だった。先週とも違う。

 カップを持ち上げたとき、テーブルの端に小さな帳面が置かれているのが目に入った。

 開くつもりはなかった。けれど表紙に「茶葉発注帳」とあり、最後のページが開いたまま挟まっていた。

 ——3軒の茶商の名前が並んでいる。すべてに「伯爵家次女好み」と走り書きされている。

 伯爵家次女。

 ローザではない。ローザは長女だ。次女は——私しかいない。

 1軒目に赤い斜線。2軒目にも赤い斜線。3軒目だけに丸がつけてある。

 帳面を元の位置に戻す手が震えた。


 6回目は、式場の下見だった。

 クラウス様に案内された先は、邸の中庭に面した小さな礼拝堂だった。窓が大きくて、庭園の緑が一面に見える。バラの垣根はない。すみれと勿忘草が石畳の隙間から顔を出している。

「通例では大広間をご用意するのですが。お嬢様は、どちらが好きですか」

「……また、その質問ですか」

「何度でも伺います」

「……庭が見えるほうが、好きです。姉は大広間を好みますけれど」

「では、こちらで」

「——あの、クラウス様」

「はい」

「私の好みばかり伺っていらっしゃいますが……姉が来たときも、同じようになさるのですか」

 聞いてはいけないことだった。けれど聞かずにいられなかった。

 クラウス様は1拍だけ間を置いた。

「打ち合わせにいらしている方のご希望を伺うのは、当然のことかと」

 ——そうだ。そうだった。

 打ち合わせに来ている人間に丁寧にする。それだけのことだ。私でなくても、誰が来ても、同じことをする。

 すみれの庭が、急にぼやけて見えた。

 帰りの馬車の中で、ようやく理解した。

 私は期待していたのだ。茶葉を3軒回ったのは私のためで、すみれを活けたのも私のためで、レモンタルトを並べたのも私のためだと。

 滑稽すぎて、涙も出ない。


 7回目は、座席配置の打ち合わせだった。

 テーブルの上に広げられた式場の見取り図を覗き込んでいて、手が止まった。

 新婦側の席に置かれるカードの見本が1枚、図面の隅に添えられている。小さな花のモチーフが角に彫り込まれていた。——すみれだ。バラではない。

 姉の席に置くカードなら、バラのモチーフが入るはずだ。

「クラウス様。この席札ですが」

「お嬢様は、すみれがお好きでしたね」

「……はい」

「よかった」

 その1言だけだった。質問ではない。ただ、よかった、と。


 8回目は、贈答品の選別だった。

 引き出物の候補が並んだ台帳を開いたとき、表紙の裏に走り書きがあった。

 見覚えのある筆跡だ。5回目に見た「茶葉発注帳」と同じ——端正で、少し右に傾いた文字。

 クラウス様の字だ。

 使用人が作った台帳ではない。公爵自身が、1品ずつ候補を書き出している。

 その端に、小さく「N好み」とだけ記されていた。

 N。ニナの頭文字。——ローザの頭文字はRだ。

 台帳を静かに閉じた。指先が冷たい。

「お嬢様。この品はいかがですか」

 クラウス様がすみれ色の包装紙に包まれた小箱を持っている。

「……素敵だと思います」

 クラウス様は何も言わず、ただ微笑んだ。——でも台帳の「N好み」が頭から消えない。


 9回目の打ち合わせが終わった日、家に帰ると母が居間に座っていた。

「ニナ。来週はローザが行くそうよ。ようやく暇ができたって」

「……そうですか」

「あなたはもう行かなくていいわ。おしまい」

 部屋に戻って、扉を閉めた。

 3ヶ月間、毎週通った応接室を思い出す。すみれの花瓶。レモンタルトの皿。仮縫いの布地。淡い青のドレスの色見本。席札のすみれ。台帳の「N好み」。

 ……考えるな。

 窓を開けた。夜風に、かすかに甘い花の匂いが混じっている。すみれではない。ただの庭の草花だ。——閉めた。


 翌朝。

 ローザが身支度を整えて玄関に立っている。薄紅のドレスにバラの髪飾り。華やかで、美しい。

「ニナ、公爵邸ってどこだっけ?」

「北通りを抜けて、石橋を渡った先です」

「遠いのね。馬車出してもらわないと」

 ローザが出ていく背中を見ていた。

 行きたい。

 姉の名前ではなく。私として、あの応接室に行きたい。

 もう1度だけ、あの人に好みを聞かれたい。「お嬢様は、どちらが好きですか」と。たとえそれが礼儀でしかなくても。

 私は玄関の靴を履いた。髪は整えていない。いつもと同じ、地味な灰色のドレス。

「ニナ、どこ行くの」

 母が居間から顔を出した。

「——公爵邸に参ります」

「なんで? ローザが行くって言ったでしょう」

「はい。存じております」

 足だけが動いた。石橋を渡って、公爵邸の門まで歩いた。門番が「本日はお姉様がお見えですが」と言った。

「承知しております。それでも、参りました」


 応接室の扉を開けた。

 ローザが椅子に座っている。テーブルの上にはすみれの花瓶。レモンタルトの皿。——チョコレートはない。

「あら、ニナ。なんで来たの? もうおしまいって——」

「ニナ嬢」

 声がした。

 クラウス様が扉の横に立っていた。灰色の瞳が、まっすぐ私を見ている。

 ——ニナ嬢。

 3ヶ月間、1度も呼ばれなかった名前だ。ずっと「お嬢様」だった。

「来てくださいましたか」

 その声が震えていた。穏やかで冷厳だと思っていた公爵の声が、かすかに。

「……来ました」

「代わりで?」

「——いいえ」

「代わりではありません」

 クラウス様が微笑んだ。3ヶ月間見てきたどの微笑みとも違う、目の奥まで笑った顔だった。


「ちょっと、何の話?」

 ローザが椅子から立ち上がった。テーブルのレモンタルトを見て眉を寄せている。

「なんでチョコレートがないの。バラもないし。——あ、このドレスの見本、何この色。暗くない? 私、ルビーレッドって言ったはずなんだけど」

「ローザ様」

 廊下から声が聞こえた。公爵家の執事、マティアスさんだ。

「衣装のご確認でしたら、仮縫いのお品がございます。お召しになりますか」

「そうしてくれる? 色も直させたいし」

 ローザが隣の部屋に消えた。

 数分後、声が聞こえた。

「——入らないんだけど」

 マティアスさんが応接室に戻ってきた。完璧な無表情のまま。

「ローザ様の肩幅には少々合わないようでございます。お直しには3ヶ月ほどかかりますが」

「3ヶ月!?」

「はい。3ヶ月かけてお仕立てしたお品ですので」

 ローザが隣の部屋から顔だけ出した。淡い青の袖が腕の途中で止まっている。背中のボタンが1つも留まっていない。

 3ヶ月かけて仕立てた衣装は、1ミリの狂いもなく——姉ではなく、私の体に合わせて作られていた。

「なんで私の寸法じゃないわけ?」

「ニナ様のお体に合わせてお仕立てしておりますので」

 マティアスさんが淡々と答えた。

「菓子も、茶葉も、式花も、すべてニナ様のご趣味に合わせて選定されております。ローザ様のご趣味——バラ、チョコレート、ルビーレッドのお衣装。すべて調査済みの上で、公爵様はニナ様を選ばれました」

 ローザの顔から血の気が引いた。

 合わない衣装の袖を握ったまま、鏡に映る自分を見ている。淡い青は姉の肌には合わない。3ヶ月分の準備のどこにも、自分の居場所がない。

「お母様が……公爵家からのお話は私にって……」

「『娘と』とだけ申し入れました」

 クラウス様が静かに言った。

「どちらの娘かは、1度も指定しておりません」

 ローザの目が大きく見開かれた。

「……お母様が間違えたんですよね? ——ね?」

 合わない衣装を脱いで、震えている手でドレスに着替え直し、走るように出て行った。


 応接室に、すみれの香りだけが残った。

「マティアスさん」

「はい、お嬢様」

「先ほど、ローザ様のご趣味を完璧に列挙されましたが」

「左様でございます」

「意見は差し控えるのでは?」

「事実を申し上げたまでです」

 マティアスさんの口元が、わずかに上がった。完璧な一礼をして退室した。


 クラウス様と、2人きりになった。

「あの」

「はい」

「すみれは——いつから活けていたのですか」

 3ヶ月間、ずっと気になっていたことだ。最初の打ち合わせで、すみれはもう飾ってあった。

「——ニナ嬢」

 クラウス様はテーブルの上から小さな木箱を取り上げた。

「半年前の領主会議の晩餐会に、お嬢様は覚えがありますか」

 覚えている。あの日も姉の代わりだった。

「宴が終わったあと、お嬢様はどうされていましたか」

「……テーブルの花を活け直していたと思います。崩れていたので」

「その花が何だったか、覚えていますか」

「——すみれ、でした」

「では、答えは出ましたね」

 息が止まった。

「誰にも頼まれていないのに、最後まで場を整えていた人がいました。調べましたら、お姉様の代わりに出席した回数が3年で47回。そのすべての会場で、帰り際に何かを直していた」

 47回。——私よりも正確に数えている。

「花の好みは侍女に聞きました。菓子は、唯一あなたが笑顔で召し上がっていたレモンタルトを。茶葉は3軒回りました」

「……発注帳を、見てしまいました」

「気づいてほしかったので、置いておきました」

「——置いて?」

「お嬢様は自分で見つけなければ信じない方だと思いましたので」

 あの帳面は、わざと置いてあったのか。

「6回目に、姉が来ても同じようにするかと伺いました」

「はい」

「——では伺います。お姉様にすみれを活けますか」

「……いいえ」

「お姉様に3軒回って茶葉を探しますか」

「いいえ」

「お姉様のために台帳を手書きしますか」

「……いいえ」

「では——あれは嘘でしたね」

 クラウス様は、初めて言葉に詰まった。

「…………はい」

 木箱を開いた。すみれ色の石がはめ込まれた細い指輪がある。

「嘘をついたのは、あの1度だけです」

「なぜ嘘を?」

「代わりで来たお嬢様に、あなたは代わりではないと申し上げて——信じていただけましたか」

 ——ああ。

 信じなかった。絶対に信じなかった。代わりとして来ているのに「あなたが本物です」と言われても、私は笑って帰っただろう。

「……それは、もう打ち合わせとは呼びません。求婚でしょう」

「正解です。——手続きなら整っております」

 控えめなノックとともに扉が開いた。マティアスさんが革張りの書類挟みを抱えている。

「婚約届でございます。3ヶ月前に申請済みです」

「…………3ヶ月前」

「第1回の打ち合わせの翌日に、王立法務局へ」

「クラウス様」

「はい」

「あの日、私がお断りしていたら?」

「——断らないと思っておりました」

「なぜ」

「レモンタルトを3つ召し上がったので」

「それは根拠として極めて薄いのでは」

「3ヶ月間、毎週足を運んでくださった方が、今日は自分の足で来てくださいました。——これ以上の返事がありますか」

 目の奥が熱い。

「……はい」

 クラウス様の指が薬指に触れた。すみれ色の指輪は、寸分も違わずに嵌まった。

「これも、仮縫いの時に」

「含まれておりました」

「本当に抜かりのない方ですね」

「花嫁に逃げられたくありませんので」

 窓辺のすみれが風に揺れている。3ヶ月間、毎週新しく活けられていた花。半年前の晩餐会で、私が最後に活け直した花。

 指輪の石が、同じ色をしていた。


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