姉の代わりの花嫁を、公爵だけが見ていました
「代わりでいい」と母は言った。
「花嫁支度の打ち合わせに行ってちょうだい。衣装の生地を選ぶだけよ。ローザは今日は頭が痛いそうだから」
「承知しました」
私は頷いた。聞き返すまでもない。姉の代わりは、もう数えるのをやめたくらいにはこなしている。
舞踏会の代理出席が12回。茶会の席埋めが8回。領主夫人への挨拶回りが5回。そして今日、花嫁支度の打ち合わせ。——数えるのをやめたと言いつつ正確に覚えているのは、たぶん私の悪い癖だ。
嫁ぐのは姉のローザだ。相手はグラーフ公爵家のクラウス様。私は知らない。顔も声も、噂でしか聞いたことがない。
「ニナ。髪くらい整えていきなさいよ、一応は公爵家に行くんだから」
「代わりですので、構いません」
「……まあ、そうね。どうせ顔は覚えられないでしょうし」
母が視線をそらした。
公爵邸の応接室は、想像よりずっと静かだった。
白い壁に日差しが落ちて、窓辺の花瓶にすみれが飾られている。——すみれ。珍しい。貴族の応接室にはバラか百合が定番なのに。
「お待たせいたしました」
扉が開いて、長身の男性が入ってきた。灰色の髪を後ろで束ねて、穏やかな目をしている。
グラーフ公爵——クラウス様だ。噂では冷厳だと聞いていたのに、ずいぶん柔らかい表情をしている。
「本日はよろしくお願いいたします。お嬢様」
「あの、申し訳ございません。私は姉の代わりで参りました。花嫁はローザですので、お間違いのないよう」
「承知しております。では始めましょうか」
それだけ言って、テーブルの上に布地の見本を広げた。
「式に使う花のご希望を伺いたいのですが」
「姉はバラを好みます。白いバラか、薄紅のものが——」
「お嬢様ご自身は?」
「……え?」
「お嬢様のお好みも伺っておきたいのですが」
「……すみれ、です。ですが、花嫁は姉で——」
「ありがとうございます」
クラウス様は何かを手帳に書き留めた。丁寧な方だと思った。姉がどうせ来るのだから、聞いても仕方がないのに。
——翌週も、その翌週も、姉は来なかった。
「ローザは今日もお友達と約束があるそうよ。ニナ、行ってきてちょうだい」
母は悪気なくそう言った。
3度目の公爵邸。応接室のすみれは、先週のものではなかった。新しく活け替えられている。
テーブルの上に、小さな菓子の皿が並んでいる。レモンタルト、蜂蜜のビスコッティ、ドライフルーツの焼き菓子。
——公爵家の菓子職人が得意な品目が、たまたまこの系統なのだろう。
「本日は菓子の試食をお願いしたいのですが」
「あの、クラウス様。こちらはレモンタルトですが、姉はチョコレートを好みます」
「ではお嬢様は、どちらがお好きですか」
「ですから、花嫁は——」
「質問を変えましょう」
クラウス様が私の目を見た。灰色の瞳に、真剣な光がある。
「このレモンタルト、お嫌いですか」
「……いえ。好きですが」
「では問題ありません」
何の問題が解決したのだろう。——本日の「お嬢様は」は3回目。なぜ数えているのか自分でも分からない。
けれどレモンタルトは本当に美味しくて、結局3つ食べてしまった。クラウス様は黙ってお茶を継ぎ足してくれた。
代理の席で菓子を3つ食べた経験は初めてだ。——また数えている。
4回目の打ち合わせは、衣装の仮縫いだった。
「寸法の確認だけですので、そのまま立っていただければ」
仕立て屋が私の肩幅を測り、腰を測り、袖の長さを測った。
「あの、姉と私は肩幅が少し違いますので、当日は調整が必要かと——」
「いえ、こちらのお嬢様の寸法でお仕立てするよう承っておりますが」
「……は?」
仕立て屋が首を傾げた。私も首を傾げた。
隣の部屋から、クラウス様の声が聞こえた。
「お嬢様。色は、薄紫と淡い青のどちらがお好みですか」
「クラウス様、何か重大な誤解が——」
「どちらがお好みかという質問は、誤解の余地がないと思いますが」
「あの、聞いてください。花嫁は姉です。私の寸法で仕立てても合いません」
「合わなければ困りますね」
「はい! ですから——」
「お嬢様に合わなければ、困ります」
私は口を開けたまま、言葉を失った。仕立て屋が気まずそうに巻尺を巻き戻しながら小声で呟いた。
「あの、私は布を測りに来ただけなのですが」
——私もそう思います。
5回目の打ち合わせのあと、応接室で1人になった。
クラウス様は来客で席を外し、使用人もまだ戻らない。お茶だけが残っている。——また知らない香りの茶葉だった。先週とも違う。
カップを持ち上げたとき、テーブルの端に小さな帳面が置かれているのが目に入った。
開くつもりはなかった。けれど表紙に「茶葉発注帳」とあり、最後のページが開いたまま挟まっていた。
——3軒の茶商の名前が並んでいる。すべてに「伯爵家次女好み」と走り書きされている。
伯爵家次女。
ローザではない。ローザは長女だ。次女は——私しかいない。
1軒目に赤い斜線。2軒目にも赤い斜線。3軒目だけに丸がつけてある。
帳面を元の位置に戻す手が震えた。
6回目は、式場の下見だった。
クラウス様に案内された先は、邸の中庭に面した小さな礼拝堂だった。窓が大きくて、庭園の緑が一面に見える。バラの垣根はない。すみれと勿忘草が石畳の隙間から顔を出している。
「通例では大広間をご用意するのですが。お嬢様は、どちらが好きですか」
「……また、その質問ですか」
「何度でも伺います」
「……庭が見えるほうが、好きです。姉は大広間を好みますけれど」
「では、こちらで」
「——あの、クラウス様」
「はい」
「私の好みばかり伺っていらっしゃいますが……姉が来たときも、同じようになさるのですか」
聞いてはいけないことだった。けれど聞かずにいられなかった。
クラウス様は1拍だけ間を置いた。
「打ち合わせにいらしている方のご希望を伺うのは、当然のことかと」
——そうだ。そうだった。
打ち合わせに来ている人間に丁寧にする。それだけのことだ。私でなくても、誰が来ても、同じことをする。
すみれの庭が、急にぼやけて見えた。
帰りの馬車の中で、ようやく理解した。
私は期待していたのだ。茶葉を3軒回ったのは私のためで、すみれを活けたのも私のためで、レモンタルトを並べたのも私のためだと。
滑稽すぎて、涙も出ない。
7回目は、座席配置の打ち合わせだった。
テーブルの上に広げられた式場の見取り図を覗き込んでいて、手が止まった。
新婦側の席に置かれるカードの見本が1枚、図面の隅に添えられている。小さな花のモチーフが角に彫り込まれていた。——すみれだ。バラではない。
姉の席に置くカードなら、バラのモチーフが入るはずだ。
「クラウス様。この席札ですが」
「お嬢様は、すみれがお好きでしたね」
「……はい」
「よかった」
その1言だけだった。質問ではない。ただ、よかった、と。
8回目は、贈答品の選別だった。
引き出物の候補が並んだ台帳を開いたとき、表紙の裏に走り書きがあった。
見覚えのある筆跡だ。5回目に見た「茶葉発注帳」と同じ——端正で、少し右に傾いた文字。
クラウス様の字だ。
使用人が作った台帳ではない。公爵自身が、1品ずつ候補を書き出している。
その端に、小さく「N好み」とだけ記されていた。
N。ニナの頭文字。——ローザの頭文字はRだ。
台帳を静かに閉じた。指先が冷たい。
「お嬢様。この品はいかがですか」
クラウス様がすみれ色の包装紙に包まれた小箱を持っている。
「……素敵だと思います」
クラウス様は何も言わず、ただ微笑んだ。——でも台帳の「N好み」が頭から消えない。
9回目の打ち合わせが終わった日、家に帰ると母が居間に座っていた。
「ニナ。来週はローザが行くそうよ。ようやく暇ができたって」
「……そうですか」
「あなたはもう行かなくていいわ。おしまい」
部屋に戻って、扉を閉めた。
3ヶ月間、毎週通った応接室を思い出す。すみれの花瓶。レモンタルトの皿。仮縫いの布地。淡い青のドレスの色見本。席札のすみれ。台帳の「N好み」。
……考えるな。
窓を開けた。夜風に、かすかに甘い花の匂いが混じっている。すみれではない。ただの庭の草花だ。——閉めた。
翌朝。
ローザが身支度を整えて玄関に立っている。薄紅のドレスにバラの髪飾り。華やかで、美しい。
「ニナ、公爵邸ってどこだっけ?」
「北通りを抜けて、石橋を渡った先です」
「遠いのね。馬車出してもらわないと」
ローザが出ていく背中を見ていた。
行きたい。
姉の名前ではなく。私として、あの応接室に行きたい。
もう1度だけ、あの人に好みを聞かれたい。「お嬢様は、どちらが好きですか」と。たとえそれが礼儀でしかなくても。
私は玄関の靴を履いた。髪は整えていない。いつもと同じ、地味な灰色のドレス。
「ニナ、どこ行くの」
母が居間から顔を出した。
「——公爵邸に参ります」
「なんで? ローザが行くって言ったでしょう」
「はい。存じております」
足だけが動いた。石橋を渡って、公爵邸の門まで歩いた。門番が「本日はお姉様がお見えですが」と言った。
「承知しております。それでも、参りました」
応接室の扉を開けた。
ローザが椅子に座っている。テーブルの上にはすみれの花瓶。レモンタルトの皿。——チョコレートはない。
「あら、ニナ。なんで来たの? もうおしまいって——」
「ニナ嬢」
声がした。
クラウス様が扉の横に立っていた。灰色の瞳が、まっすぐ私を見ている。
——ニナ嬢。
3ヶ月間、1度も呼ばれなかった名前だ。ずっと「お嬢様」だった。
「来てくださいましたか」
その声が震えていた。穏やかで冷厳だと思っていた公爵の声が、かすかに。
「……来ました」
「代わりで?」
「——いいえ」
「代わりではありません」
クラウス様が微笑んだ。3ヶ月間見てきたどの微笑みとも違う、目の奥まで笑った顔だった。
「ちょっと、何の話?」
ローザが椅子から立ち上がった。テーブルのレモンタルトを見て眉を寄せている。
「なんでチョコレートがないの。バラもないし。——あ、このドレスの見本、何この色。暗くない? 私、ルビーレッドって言ったはずなんだけど」
「ローザ様」
廊下から声が聞こえた。公爵家の執事、マティアスさんだ。
「衣装のご確認でしたら、仮縫いのお品がございます。お召しになりますか」
「そうしてくれる? 色も直させたいし」
ローザが隣の部屋に消えた。
数分後、声が聞こえた。
「——入らないんだけど」
マティアスさんが応接室に戻ってきた。完璧な無表情のまま。
「ローザ様の肩幅には少々合わないようでございます。お直しには3ヶ月ほどかかりますが」
「3ヶ月!?」
「はい。3ヶ月かけてお仕立てしたお品ですので」
ローザが隣の部屋から顔だけ出した。淡い青の袖が腕の途中で止まっている。背中のボタンが1つも留まっていない。
3ヶ月かけて仕立てた衣装は、1ミリの狂いもなく——姉ではなく、私の体に合わせて作られていた。
「なんで私の寸法じゃないわけ?」
「ニナ様のお体に合わせてお仕立てしておりますので」
マティアスさんが淡々と答えた。
「菓子も、茶葉も、式花も、すべてニナ様のご趣味に合わせて選定されております。ローザ様のご趣味——バラ、チョコレート、ルビーレッドのお衣装。すべて調査済みの上で、公爵様はニナ様を選ばれました」
ローザの顔から血の気が引いた。
合わない衣装の袖を握ったまま、鏡に映る自分を見ている。淡い青は姉の肌には合わない。3ヶ月分の準備のどこにも、自分の居場所がない。
「お母様が……公爵家からのお話は私にって……」
「『娘と』とだけ申し入れました」
クラウス様が静かに言った。
「どちらの娘かは、1度も指定しておりません」
ローザの目が大きく見開かれた。
「……お母様が間違えたんですよね? ——ね?」
合わない衣装を脱いで、震えている手でドレスに着替え直し、走るように出て行った。
応接室に、すみれの香りだけが残った。
「マティアスさん」
「はい、お嬢様」
「先ほど、ローザ様のご趣味を完璧に列挙されましたが」
「左様でございます」
「意見は差し控えるのでは?」
「事実を申し上げたまでです」
マティアスさんの口元が、わずかに上がった。完璧な一礼をして退室した。
クラウス様と、2人きりになった。
「あの」
「はい」
「すみれは——いつから活けていたのですか」
3ヶ月間、ずっと気になっていたことだ。最初の打ち合わせで、すみれはもう飾ってあった。
「——ニナ嬢」
クラウス様はテーブルの上から小さな木箱を取り上げた。
「半年前の領主会議の晩餐会に、お嬢様は覚えがありますか」
覚えている。あの日も姉の代わりだった。
「宴が終わったあと、お嬢様はどうされていましたか」
「……テーブルの花を活け直していたと思います。崩れていたので」
「その花が何だったか、覚えていますか」
「——すみれ、でした」
「では、答えは出ましたね」
息が止まった。
「誰にも頼まれていないのに、最後まで場を整えていた人がいました。調べましたら、お姉様の代わりに出席した回数が3年で47回。そのすべての会場で、帰り際に何かを直していた」
47回。——私よりも正確に数えている。
「花の好みは侍女に聞きました。菓子は、唯一あなたが笑顔で召し上がっていたレモンタルトを。茶葉は3軒回りました」
「……発注帳を、見てしまいました」
「気づいてほしかったので、置いておきました」
「——置いて?」
「お嬢様は自分で見つけなければ信じない方だと思いましたので」
あの帳面は、わざと置いてあったのか。
「6回目に、姉が来ても同じようにするかと伺いました」
「はい」
「——では伺います。お姉様にすみれを活けますか」
「……いいえ」
「お姉様に3軒回って茶葉を探しますか」
「いいえ」
「お姉様のために台帳を手書きしますか」
「……いいえ」
「では——あれは嘘でしたね」
クラウス様は、初めて言葉に詰まった。
「…………はい」
木箱を開いた。すみれ色の石がはめ込まれた細い指輪がある。
「嘘をついたのは、あの1度だけです」
「なぜ嘘を?」
「代わりで来たお嬢様に、あなたは代わりではないと申し上げて——信じていただけましたか」
——ああ。
信じなかった。絶対に信じなかった。代わりとして来ているのに「あなたが本物です」と言われても、私は笑って帰っただろう。
「……それは、もう打ち合わせとは呼びません。求婚でしょう」
「正解です。——手続きなら整っております」
控えめなノックとともに扉が開いた。マティアスさんが革張りの書類挟みを抱えている。
「婚約届でございます。3ヶ月前に申請済みです」
「…………3ヶ月前」
「第1回の打ち合わせの翌日に、王立法務局へ」
「クラウス様」
「はい」
「あの日、私がお断りしていたら?」
「——断らないと思っておりました」
「なぜ」
「レモンタルトを3つ召し上がったので」
「それは根拠として極めて薄いのでは」
「3ヶ月間、毎週足を運んでくださった方が、今日は自分の足で来てくださいました。——これ以上の返事がありますか」
目の奥が熱い。
「……はい」
クラウス様の指が薬指に触れた。すみれ色の指輪は、寸分も違わずに嵌まった。
「これも、仮縫いの時に」
「含まれておりました」
「本当に抜かりのない方ですね」
「花嫁に逃げられたくありませんので」
窓辺のすみれが風に揺れている。3ヶ月間、毎週新しく活けられていた花。半年前の晩餐会で、私が最後に活け直した花。
指輪の石が、同じ色をしていた。
【作者から読者様へお願いがあります】
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