第二話 姉弟
夜の酒場は、かつては駅ビルだった建物の地下、旧デパートフロアの一角にある。天井には錆びた照明がぶら下がり、壁には戦前のポスターとパンクバンドのステッカーが混在して貼られている。ここでは「秩序なき自由」がまかり通る。だが唯一の掟――**「武器の使用禁止」**それだけは絶対だった。
ここ、大宮ではそこそこの秩序と、ぎりぎりの自由。その狭間で、傭兵たちは今日も命を削って酒を煽る。
クロイは、カウンターから離れた隅のテーブルで椅子に沈み込み、無言でグラスを傾けていた。向かいのサラは、帳簿代わりの端末を睨みつけながら、眉間に皺を寄せている。
「ねえクロイ。あんた、前回の仕事で何発撃ったの?」
「……さあな。三十か、百か。敵の数と風向き次第だったろ」
「百五十発。弾代で契約金の三割飛んで、しかも撤収時に“誤って”発電機吹き飛ばしたわね?」
「誤ってじゃない。あれは戦術的判断だ。照明がなきゃ奴らもこっちを狙えない」
クロイは肩をすくめてグラスの中身をあおる。どこか他人事のような声。
「……こっちは任務報告と保険交渉で三日寝てないのよ」
「お疲れさん」
「“お疲れさん”で済むかバカ。あんたはほんと、働いてるのか遊んでるのか分かんないのよ……」
サラが苛立たしげに吐き捨てた瞬間、よれたブーツ音が近づいてきた。
ふと顔を上げると、一人の若い男がテーブルに歩み寄ってきた。痩せた体に鋭い目、腰にはリボルバーがぶら下がっている。
「おい、お前ら……3週間前、川口の倉庫街で銃撃戦あったの、覚えてるか?」
クロイとサラは顔を見合わせた。次に来る言葉は、だいたい予想できた。
「俺の兄貴を殺したのは、お前らだ」
男の手が銃にかかる。その瞬間、クロイとサラの手も動いた。
カチリと音を立てて、ふたつの銃口が男の額と胸に突きつけられる。
「やめとけ。あんたの弾じゃ、義理も果たせん」
クロイの声は低く、冷めていた。
「兄貴がどんな奴だったかは知らん。だが復讐ってのは、ちゃんとした覚悟と腕が揃って初めて意味がある。今日のあんたじゃ、無駄死にだ」
「……筋が通らねぇだろ!」
「筋は通ってるさ。お前の話も聞いた。けど、ここで死ぬ筋はない」
男は歯を食いしばったまま動けなかったが、やがて涙目で後退し、振り返らずに逃げていった。
「……ま、撃つ気はなかったがな。ああいうのは止めてやらなきゃならん時もある」
クロイは銃をホルスターに戻し、ため息混じりにグラスを傾けた。
「面倒でも、筋は通す主義だ」
「私には筋を通していないようだけどね……」
サラが皮肉混じりに呟いたとき、奥のカウンターからパンチの効いた声が飛んできた。
「おだまりなさい、あんたたち!」
厚化粧に派手なドレス、筋肉質な肩と艶やかなウィッグをつけた男性...いや、女性。マリカ、《グラス・ネスト》の主が仁王立ちしていた。
「ここはね、《グラス・ネスト》よ! 割れやすくて繊細で、でも絶対に割らせないのがルールなの。銃を抜くなんて野暮な真似、女神への冒涜よ!」
「でもマリカ、撃ってはないぞ」
「音がした時点でOUT! このバーの掟は、あたしの機嫌と連動してるのよ!」
クロイは頬を掻いて、ポケットからクレジットチップを出した。
「……すまんな。精算はしとく。筋は通す」
マリカは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに鼻を鳴らした。
「ほんと、やる気なさそうなくせに、そういうとこだけ律儀よね。嫌いになれないわ」
「ありがとよ。説教は聞き流してたけどな」
「聞き流すなッ!」
マリカが叫び、クロイが軽く笑い、サラが額を押さえて首を振る。
騒ぎが一段落し、店内に静けさが戻るころ、軋む音とともに入り口のドアが再び開いた。
入ってきたのは、一人の若い女性だった。くたびれた薄手のカーディガン、擦り切れた鞄、戸惑いの浮かぶ目。明らかに常連ではない。彼女は躊躇いながらもカウンター奥へと進み、そこにいたマリカに何かを囁いた。
マリカは最初、口紅を直すような仕草をしていたが、やがて真顔で頷き、目で「あの二人のテーブルに行きなさい」と指し示した。
女性は深く頭を下げて、マリカに促されるままクロイとサラのテーブルへと歩み寄った。
「あの……すみません。マリカさんに、ここで相談すればいいって……言われて……」
クロイはグラスを傾けたまま動かない。サラが顔を上げて静かに答える。
「何の相談?」
「弟が……黒牙連に引き込まれてしまったんです。最初は食べ物をもらうだけだったのに、今は銃を……。まだ十六なんです。どうか……助けてください」
黒牙連ねぇ...サラが呟く。
黒牙連 -無法地帯に蔓延る悪性腫瘍のような勢力のことだ。
孤児を拾い上げては洗脳し、少年兵として育てる。
彼らにとって人命は弾薬よりも安く、前線に送り出された者の多くは、戻らない。
クロイは目を伏せたまま、グラスの底をじっと見つめていた。サラは静かに応じる。
「気の毒だけど、そう簡単にはいかないわ。組織から誰かを引き抜くなんて、正面から戦うよりよっぽど厄介」
「……報酬は、これだけです」
彼女は震える手で、小さな布袋を取り出し、テーブルに置いた。金属の鈍い音が響く。中には古びた帝國時代の紙幣と硬貨が数枚。
「これが全財産です。足りないのはわかってます。でも……マリカさんに、“あなたたちなら筋を通す人たちだから、賭けてみなさい”って……そう言われて……」
その一言に、サラの目が細められた。クロイはようやく目線だけ上げ、マリカの方を見る。
すると、タイミングを見計らったように、マリカがすっと歩いてきた。ドレスを翻しながら、女性の背に手を当てる。
「そうよ、あたしが紹介したの。だって、この子、本当に弟のことを思ってるのよ。必死にね。……あたしだってね、昔弟いたのよ。守ってあげられなかった。だから言うの。今止めなきゃ、戻ってこれなくなるって」
「……マリカの口利きで引き受ける案件ってのは、たいてい面倒なんだよな」
クロイがぼそりと呟いた。
「さっき兄貴と敵討ちに来た弟に殺されかけたばっかりだぞ、俺」
「でも殺さなかったでしょう?」
マリカがじっとクロイを見つめる。クロイはため息をついて立ち上がった。
「……詳細を聞く。無理だと思えば断る。死に損ないの傭兵ではあるが、命は安くねぇ」
「……はい……ありがとうございます」
女性は、今にも泣き出しそうな表情で頭を下げた。マリカがそっと背中を押しながら言う。
「この子の名前はリナ。弟の名前はショウ。ね、ちゃんと筋を通してあげて」
サラは立ち上がりながら言った。
「結局受けるのね、クロイ」
「マリカに説教されるよりはマシだ」
「はあ?!」
怒鳴り声が響き、店内の常連たちが小さく吹き出す。
その夜、《グラス・ネスト》の天井の照明がかすかに揺れた。
翌日、クロイとサラは情報屋の男のもとに向かった。
門前区画の裏通り。鉄骨とトタンで組まれた雨除けの奥、仮設屋台の一角にその男はいた。
情報屋“キリヤ”。盗聴から配給リスト、賞金首の出没記録まで、金さえ払えばどんな情報でも売るのが仕事だ。
クロイとサラは、朝靄の中、その店先に並ぶポリタンクやスクラップの脇を抜け、錆びた金属製の椅子に腰を下ろした。
「よぉ、死人コンビがそろって来るなんて珍しいな。今日は何だ、セール中の弾薬でも探してるか?」
キリヤは手元の端末をいじりながら、にやついた目でふたりを迎えた。
「ガキひとりの居場所だ。十六歳。名前はショウ。黒牙連に入ってる。……今、何処にいるのかを知りたい」
クロイは手早く用件を切り出しながら、ポケットから紙巻き煙草の箱を取り出し、カウンターに置く。
「これで手を打て」
キリヤは一拍置いてから、大声で笑った。
「はははっ...! おいおいおい、マジで言ってんのか? 紙巻きひと箱? 冗談だろ!」
「この間、ここらへんにタバコを供給していたタバコ畑が抗争で全焼したって話知ってるわよね?」
サラが横から冷ややかに言った。「しばらくは煙草が値上がりするでしょ」
「おっと、出たな会計の亡者。だがなあ、お嬢ちゃん。情報ってのは重さと鮮度で価値が決まるんだよ。安くて軽い情報なんて、所詮は噂と同じさ」
「……ならツケだ。マリカの推薦で動いてる。筋は通ってる」
クロイがさらりと返すと、キリヤは眉をひそめた。
「またマリカか。あのオカマ、最近俺のとこをタダ使いしすぎだぞ。……まったく」
ブツブツ文句を言いながらも、キリヤは端末をタップし始めた。
「ショウ、ね……この間のハッキングで仕入れた連中の新兵名簿を見てみるか。……あった、南浦和の拠点にいるらしいな。1週間前から。新兵訓練にせっせと励んてるらしいな」
サラが即座に反応する。
「南浦和って、黒牙連の“育成隊”の訓練拠点よ。まさか、あの子――」
「ああ。第十八育成部隊に編入されている“前線教育”って名目で前線に少年兵を送り込んでる、実際は弾除けの肉壁ってのが実情だ。まあ、言っちゃなんだが次の“教育”に数週間いないに出すって噂もある」
クロイが、煙草の箱を押し戻して立ち上がる。
「……間に合わなきゃ、マリカに説教されちまう」
「おい、ツケ忘れてくな。マリカ経由で請求書まわすぞ!」
「精算はあんたの得意分野でしょ?」
サラがちらりと振り返って笑いながら言う。
「……ちぇ、こっちも損な役回りだよ……」
キリヤがため息をつくのを背に、ふたりは裏通りを引き返していく。
「思ったより時間ないわね」
サラが言った。
「……ああ。下手すりゃ今日が命日かもしれん」
クロイは煙草をくわえ、火を点ける。煙がくすんだ空気の中へと消えていった。
大宮区の旧配電施設の一角を改装した仮設アジト。壁はコンクリ剥き出し、床にはスチールケースと工具が散らばっている。だが、必要最低限の武器と作戦道具だけが整然と並ぶその空間には、使い込まれた緊張感があった。
クロイは手元のコルトガバメントのスライドを無言で磨き、サラは隣で黙々とマガジンに弾薬を詰めていた。
壁に掛かったモニターに“黒牙連”の基地のマップ、巡回ルート、周辺警備の交代シフトが映し出されていた。
「確認するわよ。ターゲットはショウ、十六歳。一週間前から南浦和の第十八育成部隊に配属。……で、近々“前線教育”に投入される可能性が高い」
「育成部隊。弾除け。……急がなきゃ、間に合わねぇ」
クロイが呟くように言い、手入れを終えた拳銃をホルスターへ戻した。
「突入じゃなく潜入。武器は最低限。火器使用は最終手段。……間違っても子供を傷つけるな」
「もちろん。作戦の主目的は“非破壊的回収”。必要なら無力化、でも殺すのは絶対に最後」
サラの指が、モニターの一角を指し示す。
「ここ。倉庫の裏手から入れば、搬送ルートに直通する。警備は手薄。ただし交代タイミングが短い。制限時間は二十分」
クロイが小さく頷いた。
「入って、接触して、言い聞かせて、連れ出す。それだけだ」
「それだけが一番難しいのよ、あんたも知ってるでしょう」
「だから、お前が一緒にいる」
サラは口元をわずかに歪めた。どこか呆れたような、けれど信頼のにじむ表情だった。
「準備は?」
「できてる」
クロイは立ち上がり、背後のラックからジャケットを取った。サラもホルスターを腰に締め、イヤホンを耳に装着する。
「じゃあ――」
「今夜、動く」
二人の声が、同時に重なった。
その瞬間、余計な言葉は消えた。
互いの動き、呼吸、銃の重みまでが、ひとつの作戦として一致していた。
窓の外では、低空を這うように黒煙が風に流れていた。南浦和は遠くない。
そして夜は、すでに始まっていた。
南浦和の外れ、半壊した倉庫の屋上は風が強かった。
吹きすさぶ灰塵の中、クロイとサラは身を低くして並び、向かいの黒牙連の基地を双眼鏡越しに監視していた。
目標の建物は、低層のブロック構造。照明は最小限、物資搬入の車両が定期的に出入りしている。警備兵は四名。三十分おきに巡回兵が交代する。
「監視カメラは無し。暗視ドローンも飛ばしてない。……古いタイプの基地ね。裏手、搬入口脇の溝を使えば死角に入れる」
サラが、膝の上の端末を見ながら冷静に呟く。
「私はここで監視と無線連絡を担当する。……で、潜入担当は――」
「俺だろ?」
クロイは口元にわずかな笑みを浮かべる。
サラは彼の方をちらっと見る。
「……ほんとにできるの? “静かに潜入”ってやつ」
「悪いが俺は、一応元特殊部隊だ。見た目と態度はともかくな」
クロイは腰のホルスターを確認しながら、淡々と答える。
「任せとけ。今回は本気でいく」
その言葉に、サラは思わず目を細めた。
いつもの、やる気のなさを装ったような調子ではない。本当に、珍しく、彼の中に熱があるのを感じた。
だからこそ、少しだけ不安になった。
「……ねえ。熱くなりすぎないで。あんたが突っ走って、もし子供が傷ついたら……元も子もないのよ?」
クロイは、風に流れる灰の向こうを見つめたまま、短く答えた。
「わかってる。ガキを傷つけたくないから、潜るんだ」
「……よし。無線、チェックして」
サラは冷静に切り替え、耳元のピースに触れた。
「こちら監視、導通よしか。」
「こちら潜入。導通よし。」
「よし。……気をつけてね、クロイ」
「お前に説教される前に帰るさ」
クロイは屋上から音もなく身を起こし、隣の鉄骨を伝って下階の縁へと滑り降りた。コートの裾で灰に舞い、闇の中に彼の姿が吸い込まれていく。
サラはしばらく、その影を目で追っていた。
「……まったく。あんたって、ほんと、やる気出してるときは無茶しようとするんだから」
灰色の空の下、彼女は双眼鏡を構え直した。
照準は、すでに闇の奥に入った男を捉えていた。
闇は薄く、塀の鉄条網はまだ夜気に濡れている。クロイは静かに膝を折り、物資搬入口の溝を伝って、外壁の影へ滑り込んだ。
警備兵の足音が背後を通過していく。タイミングは完璧だった。
耳元の無線から、くぐもったサラの声が届く。
「監視より。外周異常なし。」
クロイは声を抑えて応答する。
「潜入完了。これより目標区画へ接近。少年兵舎へ向かう」
塀沿いの影をなぞるように進み、配送車両の影から影へ移動する。夜でも照明はまばらで、兵たちの動線には死角が多い。逆に言えば、それは外部からの襲撃を前提としていない、つまり切り捨て前提の拠点構造だった。
裏手の出入口は施錠されていたが、ロックは旧式だ。クロイは工具を抜き、慣れた手つきで静かにピッキングを始める。
カチリ。
音を立てずに扉が開いた。
廊下は狭く、コンクリートが打ちっぱなしの壁には湿気が染み込んでいる。蛍光灯の半数が切れており、かろうじて灯る白色灯が、真夜中の手術室のような冷たい光を放っていた。
少年兵舎の扉はその先、曲がり角の向こうにある。
「こちら潜入。これから兵舎区画に潜入する。……ここ、思ってたよりずっと荒れてる。想定以上に雑な管理だ」
「どういう意味?」
「錆だらけの通路、死角だらけの配置。外から襲われたらひとたまりもない。守る気がないってことだ。ここは」
「……急いで。ショウが送られるのは今夜でもおかしくない」
「了解。急ぐ」
クロイは再び走り出した。足音は床に吸い込まれていく。
曲がり角を覗き、左手の廊下を目視で確認する。巡回兵、ひとり。距離は20メートル。
クロイは即座に壁に戻り、深く息を吸うと、隣の清掃具入れのドアをこじ開けて中へ滑り込んだ。
やがて、足音が近づいてくる。
靴底の硬い音。巡回兵の気だるげな鼻歌。武装は軽い、威圧だけが目的の雑な編成だ。だが――一発でも鳴れば、計画は即破綻する。
足音が通り過ぎた数秒後、クロイは鍵を開けて外へ出た。再び廊下を低く走る。
そして、目の前に現れた扉。その上に、黒いスプレーで粗く書かれた白い文字 -《第十八育成部隊》。ここが少年兵舎だ。
クロイはゆっくりとドアを開いた。蝶番がかすかに軋んだ。
中は、劣悪そのものだった。
床には薄いマットレスが無造作に並べられ、壁は黒カビに覆われ、窓は一切ない。金属ロッカーの半数は歪み、武器ラックには旧式の銃器が立てかけられている。
明らかに「消耗品」として扱われている空間。
クロイは舌打ちした。ここで訓練された少年が、前線に送られて「使い捨て」られる -その言葉が、実感として胸を締めつけた。
「こちら潜入、兵舎内に入った。環境最悪。武器もボロ、食糧も雑。……本気でこいつらを弾除けにするつもりだ」
「……時間ないわ。ショウを見つけて。今夜の移送車、出発準備に入ったって情報が入った」
「……了解」
クロイは、通路の奥へと身を滑らせる。
複数の寝台に、何人かの少年兵が眠っている。表情は幼い。だが、武器を抱いたまま眠っている者もいる。
その中から、ショウを見つけ出さなければならない。
迷っている暇などなかった。
クロイの指が、無音のままトリガーにかかる。
だが、目的は引くことではない。連れ戻すためにここに来たのだ。
薄暗い兵舎の奥。床に敷かれた薄いマットのひとつ、その隣の壁に背を預け、ショウは膝を抱えて眠っていた。
十六歳とは思えないほど痩せていて、けれど顔にはどこか張りつめた硬さがあった。
クロイはそっと近づき、肩を揺する。
「……起きろ、ショウ」
ショウの瞼がわずかに開く。数秒の戸惑い。視界が合うと、すぐさま身体が跳ね起きる。
「誰だ――」
「声を抑えろ、敵じゃない。俺はクロイ。お前の姉さんに頼まれて来た。リナって名前、聞けばわかるだろ」
「……姉さん?」
ショウは数秒沈黙し、すぐに顔を険しくした。
「帰れ。あんたらに頼んだ覚えはない。どうせ“大人”の命令で来たんだろ。大宮の“大人達”が俺たちをどう思ってるか、知ってるくせに」
クロイは反論しなかった。ただ黙って、目線をショウから外さずに立っていた。
ショウが声を荒げる。
「姉さんは、ずっとひとりで俺を育てた。だけど大宮の連中は、何もしてくれなかった。腐った配給制度、口だけの指導者、貧乏人の街を守る気なんかこれっぽっちもない! だから俺は――俺が変えるんだ、この街を」
クロイの目に、一瞬だけ何かが宿った。だがそれは熱ではなく、深く冷えた理解だった。
「……気持ちは分かるが、やり方が間違ってる。お前の怒りは本物だ。だが、それを利用してるのが黒牙連だ。あいつらは正義を語って、お前らを“都合よく使われる兵隊”に仕立ててるだけだ」
「うるさい! 大人はいつもそうだ! 俺たちのことを分かったような顔して――」
「じゃあ聞く。……お前の姉は、お前に死んでほしいと思ってるのか?」
ショウの動きが止まった。
言葉が出てこない。代わりに、彼の手が首元へと伸びる。
そこには、小さなペンダントが下がっていた。
銀色のケースの中には、姉 -リナと、自分がまだ幼かったころの写真が入っていた。
笑っていた。二人とも。いつの時代にも見えないような笑顔だった。
「……姉さんが……泣いてた。最後に見たとき。何も言わなかったけど、泣いてた」
ショウの声が揺れた。
「姉さんを守りたかっただけなのに……俺、間違えてたのか?」
「人間は間違える。けど、戻ることはできる。今なら、まだ」
クロイが差し出した手を、ショウは一度見てから、そっと握った。
その瞬間、背後のマットが軋んだ。
もう一人の少年兵が、目を覚ましていた。黒髪で、まだ幼さの残る顔。
だがその目は、しっかりとショウを見据えていた。
「……ショウ、なにしてる? その男……外の人間だろ。まさか――」
少年は立ち上がりかける。
「……裏切るのか?」
ショウは目をそらさずに言った。
「ごめん。でも……姉さんが待ってるんだ。俺、もう一度ちゃんと生きてみたいんだ」
少年兵の手が拳銃に伸びかける。だが止まった。
ショウが、首から下げたペンダントをそっと見せた。
「お願いだ。見逃してくれ。……俺のためじゃない。姉さんのために、帰りたいんだ」
長い沈黙があった。
やがて少年兵は、何も言わずに視線をそらした。
そして、背中を向けて布団を被った。
「行けよ、今のうちに」
その背中は、きっと泣いていた。
クロイは、無言でショウの肩を叩いた。
「行くぞ。……静かに、速く」
「……うん」
二人の足音は、闇の中へと消えていく。
まだ警報は鳴っていない。
けれど、時間は残されていなかった。
「クロイ、まずいわ! 連中が動き出した -移送部隊が車両を出し始めた! アンタたちのとこ、数分で囲まれる!」
サラの声は鋭く、そして少しだけ焦っていた。
「ちっ……行くぞ、ショウ。急げ!」
二人は影の中を駆け抜ける。施設裏の発送ゲートを抜けて、通気ダクト沿いの脱出ルートへ――
しかし、角を曲がったところで鋭い声が響いた。
「そこの二人、止まれ!」
照明が灯る。数名の兵士たちが追ってくる。クロイ達の姿を見た途端、銃を構える。
「……見つかった!」
クロイは即座にショウを背後へ押しやり、腰のハンドガンを抜いた。
銃声。閃光。怒号。
「支援する!」
サラの声とともに、屋上方向から一発の狙撃が放たれる。
敵兵の一人が膝を撃ち抜かれて倒れた。
「ナイスだ、サラ!」
直後、クロイの脇の壁に弾痕が炸裂する。
「……っておい! 今の俺に当たりかけただろ!?」
「ご、ごめん! 距離ちょっと読み違えた!」
「お前わざとだろ!? やっぱ怒ってんだろ、前の赤字の件!」
「こんな時に皮肉を言わないでよ! 援護してるんだからさっさと動いてよ!」
ドン!ともう一発がギリギリのところで敵の頭上を掠める。
「援護も当たらなきゃ意味がないんだが?!」
クロイが悪態をつきながら敵兵を二人倒し、ショウを引き連れて脱出口に急ぐ。
あと一歩。脱出口はすぐそこだった。
「サラ! 塀の外、出たら合流地点まで――」
その瞬間。
-パンッ。
乾いた銃声。
ショウの身体が、クロイの目の前で小さく震えた。
銃弾は胸を貫いていた。
血が、制服の布地を濡らしながら、じわじわと広がっていく。
「ショウ……!」
クロイは崩れ落ちた少年を抱き留める。軽すぎる身体。細すぎる肩。
遠くの建物、闇の隙間に一瞬だけ光が瞬く。
-敵のスナイパーだ。
ショウは苦しげに呼吸を繰り返しながら、かろうじてクロイの袖を掴んでいた。
「クロイさん……」
「喋るな。すぐ運ぶ。まだ間に合う」
クロイは咄嗟に救急キットを取り出し、止血を試みる。
しかし -血は、止まらない。
それでも、クロイは手を止めなかった。
「お前を死なせるために来たんじゃない……助けるって決めたんだ……だから……!」
「――クロイッ!」
鋭い叫びと共に、サラが駆け寄ってきた。側面の斜面から、銃を抱えて滑り降りてきたのだ。
クロイの肩をつかんで引き戻す。
「もう、だめ。これ以上は……無理。アンタも撃たれる……!」
「まだ……間に合うかもしれねえだろッ!」
「クロイ!!」
サラの声が鋭く響く。
そして、いつも冷静な彼女の目に、涙に似た光があった。
そのとき、クロイの腕の中で、ショウがペンダントを外して差し出した。
指先が震えている。けれど、その目はしっかりと、クロイを見つめていた。
「……姉さんに……渡して……ください。俺……最後まで……バカだったけど……姉さんの……あの笑った顔……好きだったから……」
「やめろ……言うな……!」
「ありがとう」
それが、ショウの最後の言葉だった。
小さく、細く、消えるように -彼の手から力が抜け、静かに目を閉じた。
クロイは肩を落としたまま、しばらく動かなかった。
銃声がまた近づいてくる。追っ手の気配。
サラは必死に彼の肩を引いた。
「クロイ...! 行くわよ……!」
クロイは震える拳を握りしめ、ゆっくりとショウの身体から手を離した。
「……すまない、ショウ。」
その言葉を残して、クロイは顔を上げた。
サラが無言で頷き、二人は灰の中を駆け出す。
照明が背を追い、銃声が夜を割る。
翌日の《グラス・ネスト》の夜は、しんと冷えていた。
照明は落とされ、店内はまるで喪の席のように静かだった。
クロイとサラは、いつも通り店の奥のテーブルに座っていたが、テーブルの上には酒も煙草もなかった。
クロイがぽつりと呟く。
「……奴ら、ショウだけを狙ってた」
静かな声だった。けれど、そこには何かを噛み砕いたような苦味があった。
「初めから脱走の見せしめとして……処理するつもりだったんだ。
もし、敵のスナイパーを警戒できていれば、もし別のルートを使っていれば――」
「後悔で変えられるのは、今後の行動だけよ」
サラの声は鋭く、それでいてどこか温度を持っていた。
「死んだ子のことで、自分を裁き続けても……誰も救われない」
クロイは力なく笑った。
「……厳しいなお前は」
「それが、生き残るってことよ」
沈黙。
やがて、店のドアが開いた。
リナが入ってきた。
背を縮め、いつもよりもさらに小さく見えたその姿に、誰も声をかけなかった。
「……お待たせしました」
クロイはゆっくりと立ち上がり、ジャケットの内ポケットから、小さなペンダントを取り出した。
それを、テーブルに置く。
「これが、ショウの遺品だ。“姉さんに渡してほしい”って......」
リナはペンダントを手に取った。
開いて、中の写真を見た。
そこで、崩れるように膝をつき、肩を震わせながら涙を落とした。
何かを必死に抑えるように、声を出さずに泣き続けた。
クロイもサラも、言葉をかけなかった。
静かに、それを見つめていた。
-けれど。
しばらくして、リナが顔を上げたとき、
その目の奥に、わずかに光る何かがあった。
それは涙ではなかった。
憎しみとも怒りとも、言葉にはできないが、ただの喪失ではない色。
彼女はそれを隠すように、また俯いた。
クロイはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ、グラスの底に沈んだ氷のように、
そこに何かが“生まれた”ことだけは、確かだった。
リナは、ペンダントを胸元で握りしめたまま、長く目を閉じていた。
呼吸を整えるように、唇が何度か震えたあと、彼女はそっと立ち上がった。
そして、ためらいながらも、古びた布の袋をポケットから取り出し、テーブルに置いた。
「……これ、受け取ってください。約束ですから」
クロイはその袋を見つめ、短く首を振った。
「受け取れないよ。あんたは――もう、充分に払った」
リナは何か言いかけたが、しばし口を閉じ、そして小さく息を吸った。
「……あの子、小さい頃は、わたしの背中をずっと追いかけてたんです。
やんちゃだけど、臆病で。悪ガキの仲間に入るのも、わたしが近くにいる時だけだった……」
彼女の声は静かだったが、言葉の奥にこらえた熱があった。
「最後まで……自分なりに、何かを守ろうとしてたんですね。あの子なりに」
クロイは黙ってうなずいた。
サラは目を伏せ、グラスの縁を指でなぞっていた。
リナは深く頭を下げると、涙を見せないよう静かに席を立ち、店をあとにした。
ドアの鈴が乾いた音をひとつだけ鳴らした。
しばらくして、カウンターの奥からマリカが現れた。
小さなグラスを二つ、音を立てずに置く。
「代金はいらないわ。今夜のことも、忘れてちょうだい。……無理でも、そういうことにして」
琥珀色の液体が、低い灯りの中で揺れていた。
クロイはグラスを見つめたまま、小さく笑った。
「……俺たち、そんなに図太くできちゃいないよ」
サラもわずかに笑みを浮かべた。目の奥に、かすかな疲れと痛みをにじませて。
「忘れられたら、とっくに辞めてるわ。こういう仕事」
マリカはふっと息をついて、何も言わずにグラスを磨き続けた。
照明は落とされ、古いジュークボックスが、ノイズ混じりのジャズを流していた。
店内は静かで、誰もそれ以上は語らなかった。
クロイはグラスを持ち上げ、ゆっくりと口に運ぶ。
少しだけ喉が焼けたあと、ぽつりと呟いた。
「……人探しってのは、ろくなことにならねぇ。
黒牙連が絡むと、特にな」
サラは、グラスを両手で包んだまま、ただ静かにそれを聞いていた。
《グラス・ネスト》の夜は、静かに沈み込んでいた。
そしてその沈黙だけが、今夜の結末を物語っていた。




