第一話 依頼
1980年──
第二次世界大戦に勝利した大日本帝國とナチス・ドイツは、世界を二分しながらも、互いに冷たい均衡を保ち続けていた。
だが、列島での核実験の失敗と暴動をきっかけに、帝國はこの地を“管理外地域”として切り捨てた。
首都は満洲へと移され、日本列島は国家の庇護を失い、地図の余白に追いやられる。
法は失われ、国家は崩れ、通貨は腐り、銃だけが価値を持つ世界。
それでも、人々は生きていた。傭兵、難民、技術者、密輸屋、そして過去を持つ者たち。
誰もがこの崩れかけた島の上で、自分だけの居場所を探していた。
旧・大宮の街は、かつて東京防衛の最前線──“防波堤”として築かれた都市インフラの名残を留め、今では数少ない“秩序”の拠点として機能している。門前衆と呼ばれる自警団が治安を維持し、傭兵たちはその陰で金と情報をやりとりしながら命を繋いでいた。
その街に、一人の男がいた。
名を、ダン・クロイ。
かつて帝國の特殊部隊に属し、いまはその過去を背負ったまま、金で仕事を請け負うだけの傭兵として、静かにこの地を生きていた。
そして、もう一人の訪問者。
サラ・ウィンターズ。
「元・海兵隊のフリー傭兵」と名乗る、素性の知れぬ女。
物語は、ここから始まる。
無法地帯の片隅で交わされた、一杯の酒と一つの契約から。
薄暗い《グラス・ネスト》のカウンターで、クロイはいつものようにグラスを傾けていた。 彼の前にあるのは、安いウィスキーのボトルと、皿に乗った乾きものだけ。 顔には深い疲労と無気力が刻まれ、かつてのエリートの面影はもはやない。
店の主マリカがカウンター越しに呆れたように睨んだ。
「飲みすぎよ、クロイ。そんなに酒ばっか飲んでると、そのうち肝臓が死ぬよ」
「……今日くらい、いいだろ」 クロイは顔を上げずに呟いた。
「毎日が“今日くらい”じゃないの。ほら、顔が死んでるわよ。昔のカッコいいキリッとした顔、どこ行ったのかしらねぇ」
クロイは苦笑して、ウィスキーをもう一杯あおった。
その時だった。 店の扉が開き、ブーツの音とともに背筋の通った女が一人入ってくる。 ワイシャツにネクタイ、ボンバージャケットという男装のような装いにクロイは思わず呟いた。
「……セールスマンかと思った」
「悪くない冗談ね」 女はカウンターの端に腰を下ろし、クロイの隣に視線を向けた。
「ダン・クロイさん、で合ってるわね。傭兵さん、元帝国軍人の、今は気まぐれに依頼を選んでるって噂の」
「人違いだ」
「お酒の好みも、噂通り」
クロイは溜め息をついた。 「で、何を売りに来たんだ。セールスマンさんよ」
「仕事よ。報酬は10万ジャップドル」
「……」
ジャップドル──帝國が日本列島を放棄した後、この地で米国の資本主義者たちが独自に発行した紙幣。 信用度はそこそこだが、現物取引が主体のこの土地ではまだ強い。 そして10万もあれば、何もせずに二、三ヶ月は生きられる。
「ずいぶんと気前が良いな。何か裏がありそうだ」
「内容次第でしょ。医療品の回収。……襲撃された“暁の医療団”の代わりにね」
クロイの目が細まる。
「襲ったのは?」
「ならず者。元は軍人崩れや犯罪者、最近組織化しつつあるグループらしいわ」
「……で、どこから?」
「暁の名のもとに命を繋ぐ、“暁の医療団”。詳細は現地で説明するわ」
「断る」
「でも来るわ。きっと」
クロイは黙ってグラスを空にした。
「なぁ、マリカ。こいつ、俺に惚れたのか?」
「さあね。あたしには、取引女の目に見えるけど」
女──サラは、笑いもせずに立ち上がった。
「明け方、旧線路沿いの給水塔跡。タンクローリーの残骸がある場所、分かる?」
「迷子になるかもな」
「なら、頑張って。じゃあ、また明け方に」
彼女が去ったあと、クロイは静かに煙草に火をつけた。
「……面倒な仕事がまた来やがった」
焼けた給水塔の影に、朽ちた標識が立っていた。
旧線路沿いのその場所には、タンクローリーの残骸が横倒しになり、風が金属片を鳴らしていた。
クロイは予定より少し早く現れた。
あたりに人気はない──だが、何かの視線を感じていた。
「遅かったわね」
声がして振り向くと、サラが車の後ろに立っていた。
トランクを開け、装備を並べている。
「いや、早いだろ。まだ夜が明けちゃいねえ」
「だから“遅かったわね”って言うのよ」
サラは冗談とも本気ともつかない口調で返すと、小さなケースを差し出した。
「いいから乗って。作戦会議は車の中でやるわ」
「これ、あんたの分。無線機、マガジン三本」
「……段取りの良いセールスマンだ」
クロイが受け取りながらぼそりと呟く。
「職業病よ。あと、これ」
サラは自分の耳元に無線機をつけると、クロイの機器にも周波数を合わせた。
「導通確認、するわよ。ウィンターズからクロイ、聞こえる?」
「こちらクロイ。よく聞こえる」
サラは静かに車のドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
クロイも助手席に座り、車がゆっくりと走り出す。
舗装の剥げた道を進みながら、車内にはわずかなエンジン音と、カーステレオから流れる古びたロックの旋律だけが漂っていた。
「で、拠点の詳細は?」
クロイが助手席から尋ねた。
「かつてNGO団体が使っていた医療支援センター。今はならず者の集団が根城にしてる。名前は“スピネラ一家”──武装は雑多。銃器は旧式だけど、数は多いわ」
「皮肉な話だな。人を救うための施設で、今は人を殺す準備してるってか」
「それだけじゃない。彼らが医療品を手に入れたのは、“暁の診療団”から奪った輸送物資。中に、希少な抗生物質が含まれてる」
「抗生物質……ってことは、流行病か何かか?」
サラは小さく頷いた。
「肺熱の変異型。幼児と高齢者に出血症状が出る。発症すれば三日で致死率は七割以上。暁の診療団が対応に追われてるけど、薬がなければ全滅」
「それで10万ジャップドルか……やっと腑に落ちた」
「交渉したとき、依頼人は泣きながらでも頭を下げてた。──だから、私は引き受けた」
クロイはフロントガラス越しに暗い道を見据えながら、ぽつりと呟いた。
「……で、どう動く?」
「作戦は簡単よ」
「私は裏手の搬入口から潜入して、医療品の位置と搬出経路を特定する。」
サラはハンドルを握ったまま、横目でクロイの反応をうかがう。
「その間、あんたは正面で適当に暴れて騒ぎを起こして。なるべく派手に。連中は慌てて配置を崩すから、私はその隙に中に入る。」
「搬入口は半壊してて人の出入りには問題ないはず。あんたの騒ぎで敵が正門に集まったら、私は倉庫を経由して医療品の位置を特定する。そのまま車で搬出する」
「目標は制圧じゃない。あくまで迅速な奪還」
クロイは口を歪めて、ぼそりと漏らした。
「……俺が引き受けるのは、要するに貧乏くじってわけか」
サラは鼻で笑って言い返す。
「朝飯前でしょ?」
「奇襲で動揺を与え、混乱の隙に抜き出すってわけだ」
「そう。簡単でしょう?」
「やれって言うなら、やる」
「言わなくてもやってくれると思ってた」
わずかに笑って、サラはハンドルを切った。
古い標識が過ぎ、かつての医療拠点が近づいてくる。
夜の幹線跡に、酒瓶をぶら下げた男がひとり。
クロイはよろけるような足取りで、かつてNGOの活動拠点だった廃施設の正面ゲートへと向かっていた。
門前では、ならず者の見張りが焚き火にあたっていた。彼らは突然の人影に立ち上がる。
「おい、誰だ。ここは立入禁止だぞ」
「怪我しててな……ちょっと診てもらえねぇかって思ってさ……」
クロイはニヤついた顔で瓶を掲げる。片手はポケットに突っ込んだまま、あえてゆっくりと近づいた。
「帰れ。酔っ払いは引っ込んでろ」
「そりゃ残念だ……せめて一杯飲ませてくれよ。寒くてな」
ひとりの見張りが舌打ちしながら距離を詰めてくる。もう一人が低く呟いた。「撃っちまうか?」
クロイはわざと瓶を滑らせ、コンクリートの上に叩きつけた。
──カシャン!
ガラスが砕けると同時に、腰のホルスターからピストルを抜き放ち、至近距離の男を一発で撃ち倒す。
「敵だ!敵襲──ッ!」
もう一人が叫ぶが、その声は銃声にかき消される。クロイは物陰に飛び込み、背中のライフルを引き抜いた。
「どうした!?」「撃たれてる!」「外だ、外から来てるぞ!」
正面ゲートへと慌てて集まるならず者たち。その混乱を尻目に、クロイは無線機のスイッチを押した。
「陽動完了。客は喰いついたぞ。あとは任せた、ウィンターズ」
その頃、施設裏手。
崩れた排水管の影から、サラ・ウィンターズが滑るように中へ侵入した。
崩れた壁の隙間から、かつて医療支援室だった空間が覗けた。
中は物資が乱雑に積まれている。
彼女は迷いなく薬箱と弾薬ケースを拾い、素早く背負い袋に詰めていく。
一往復目。誰にも気づかれず、車へ到着。
二往復目。戻る途中、混乱して右往左往する若い敵兵がいたが、気づかれてはいなかった。
荷室に金属ケースを最後の隙間へ滑り込ませたそのとき、不意に声がした。
「おい、誰──っ」
振り向くと、怯えた目のならず者がひとり。銃は構えきれていない。
サラは無言で一歩踏み出し──ピストルが静かに唸った。
サプレッサーが音を吸い、男は沈黙したまま崩れ落ちた。
「……離脱するわ」
無線に短く告げ、運転席へ滑り込む。
一方その頃、クロイは物陰で残り少ない弾を数えていた。
敵の銃火が周囲に集まりつつある。あと数発が限界だった。
──キィッ!
タイヤの音が闇を裂いた。
サラの車が現れ、助手席のドアが開く。
「乗って!」
クロイはライフルを背に跳び込む。
車が加速すると、サラはグローブボックスから予備のマガジンを放った。
「はい、どうぞ」
「気が利くな、セールスマン」
クロイは素早く交換し、リアウィンドウ越しに銃口を向けた。
ダンッ!ダンッ!ダンッ!
淀みない三発。的確な射線。
一瞬の静寂が敵の陣形を切り裂いた。
ならず者たちは一瞬ひるみ、そのまま追ってこなかった。
「……車がないのよ、向こうは」
「足じゃ無理か。助かったぜ、朝飯前ってわけか」
「まあね」
サラは肩をすくめた。
夜の幹線を抜けて、車は荒野の闇へ溶け込んでいった。
朝焼けの色が、遠くの高層ビルの輪郭を赤く染めていた。
廃道を走る車の車体は泥にまみれ、跳ね上げた埃で後方は霞んでいる。
クロイは助手席でライフルを膝に立てたまま、まどろむように目を細めていた。
隣ではサラが無言でハンドルを握っている。
「なあ、こんな朝に帰ってくると、なんだか……」
「泥棒帰りみたい?」
「……ま、そんなとこだ」
サラが小さく笑った。
大宮の西門にたどり着いたのは、午前六時を少し回った頃だった。
朽ちた高速道路の高架下、金属の柵と鉄条網で固められた検問所には、すでに交代待ちの門前衆たちが数人、武装して詰めていた。
車のヘッドライトが停止線で消えると、反応したひとりの兵士が近づいてくる。
軽機関銃を背負い、手には古びた端末。半袖のシャツから覗く腕には、消えかけた部隊章のタトゥー。
クロイが窓を開けると、男はふいに片眉を上げて口を開いた。
「おやおや……クロイさん。まだこの街にいたんだな。てっきり死んだかと」
「死に損なって、面倒な仕事だけ増えたさ」
「で、そっち──」
助手席のサラに目を向けると、男はにやりと笑った。
「……もしかして“新しい彼女”?傭兵稼業も捨てたもんじゃないな」
サラが呆れたようにため息をつくより早く、クロイが応じる。
「“商売仲間”だ。脳の使い方がその程度なら、検問の帳簿も信用できねえな」
「へいへい、毒舌は相変わらず。──荷物、見せてもらうぜ?」
リアドアが開かれ、ぎっしり詰まった医療用のケースと袋が姿を見せた。
すぐに別の検問員が近づき、荷物の確認を始めた。
「ラベル付き……“暁の医療団”。ああ、なるほど、あんたらが例の物資を取り戻してきたのか。正直、ここまで戻ってくるとは思ってなかったぜ」
サラが淡々と返す。
「運が良かっただけ。あと、敵が馬鹿だった」
「なるほどね……」
検問員がひとつ、真新しい薬の瓶を手に取り、じっと見つめる。
「これがあるだけで、救える命がある。暁の連中、あんたらのこと伝説扱いだぜ? “ジャンクヤードから希望を運んだ二人組”ってな」
クロイは鼻で笑い、煙草をくわえる。
「そういうのは酒場で話す話だ。現場で言われると気持ち悪ぃ」
「ま、確かに似合わねぇわな。──通してやれ。大宮の命綱だ」
バリケードのチェーンがゆっくりと上がる。
クロイたちの車が音もなく門をくぐり抜けると、検問員のひとりが後ろ姿に向かってぽつりと呟いた。
「……あいつ、昔は帝國の“狩猟犬”だったって噂、本当かね?」
「さあな。でも今は、“薬を運ぶ犬”らしいぜ」
くすりと笑う声が、背後でかすかに響いた。
バリケードを越えて大宮市街へ入ると、朝の空気は一変した。
鉄と排気と、夜明けの空気が混ざる匂い。瓦礫の隙間からのぞく露店の灯り。
かつてはショッピングモールだった建物の地下に、暁の医療団の臨時拠点が構えられていた。
クロイとサラは、無言で台車を押しながら搬入口へと向かう。
辺りは静かだったが、地下階へ降りると熱気と喧騒が待っていた。
医療スタッフたちが血のついた手袋を捨て、物資の残量を叫び、患者の名を確認する声が飛び交う。
簡易ベッドの並ぶフロアの隅では、子どもを抱いた母親が震えていた。
そんな中、白衣を羽織った中年の医師が、慌てて二人の元に駆け寄ってきた。
「──物資を届けてくれたのは、あなたたちか?」
「依頼通りだ。途中で少し騒がしかったが、破損はないはずだ」
サラが書類を差し出し、クロイがケースをひとつ手渡す。
医師は震える手でラベルを確認し、まるで宝石を扱うように受け取った。
「止血剤……抗生剤……ワクチンまで……これで、多くの人を助けられる……」
顔を上げた医師の目には、涙がにじんでいた。
何かを言いかけて、だが言葉を失い、代わりに深く頭を下げる。
「命の恩人です。本当に……ありがとうございます」
その言葉に、クロイは一瞬、返す言葉を探すように目を伏せた。
手の甲にこびりついた泥の痕が、任務の過酷さを物語っている。
静かな時間が流れた。
医療団の若い看護師が、クロイたちの台車からケースをひとつずつ抱えていく。
その様子を眺めながら、クロイは煙草をくわえかけて──やめた。
ふと、誰にともなくぼそりと呟く。
「……たまには、こういうのも悪くねぇな」
サラが横目で彼を見て、小さく微笑んだ。
「ね。あなたにもそういう感覚、まだ残ってたのね」
「残ってるんじゃねぇよ。……捨てきれねぇだけだ」
クロイの声は、街の喧騒に溶けて消えた。
夕暮れのグラス・ネストには、アンプを通していない生音のギターと、グラスが触れ合う音だけが流れていた。
クロイとサラはいつものカウンター席に並んで座っていた。
サラの前には茶封筒が一つ。中身は、暁の医療団から受け取った報酬──10万ジャップドルの札束だった。
「さ、清算しましょうか」
サラが封筒を開け、指で数えながら取り分を分け始める。
クロイがグラス越しに睨んだ。
「なあ、それ全部折半じゃ──」
「はいはい、でもこっちは弾薬代と医療キットの代金立て替えてるの。あんた現場で撃ち尽くしてたでしょうが」
「う……」
「だから、ここ。これとこれ、引かせてもらうわ。あとガソリン代も少しね」
サラは手際よく札を抜き取り、自分用の束を整えると、残りをクロイの前に置いた。
「そんなに細けぇこと言うか普通」
「だから私たちはまだ生きてるのよ」
クロイは苦笑しながら、ぶっきらぼうに現金を掴んだ。
「……まあ、数ヶ月は無駄遣いしなきゃ食えるな」
「数ヶ月、慎ましく暮らせばね」
マリカがカウンター越しに、注ぎ足したウィスキーを滑らせる。
「ねえクロイ。さっきから見てたけど……この子に惚れたの?」
「は? そんな訳あるか」
「じゃあ、また一緒にやる?」
サラが不意に尋ねた。
クロイはグラスを揺らしながら、しばらく黙っていた。
「……ま、気が向いたらな」
「ふーん。じゃ、次も“気が向くよう”な報酬にしとくわ」
マリカが笑った。
2人のグラスが軽く鳴った。
外はもう、完全な夜だった。
だがこの夜はまだ静かだった──次の嵐の気配は、まだ聞こえていない。
拝読ありがとうございました。