空わたるもの
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
う~ん、この酸性雨の被害を受けた像の写真、もはや資料集のお約束になっているよね。
世界的に見ると、ヨーロッパを中心としたところが特に深刻な被害を受けているとされる。工業国が集中しているために、酸性雨の原因となる物質が空に溜まりやすいとみられているようだね。
日本などは、そこから風に乗って原因物質が空へ運ばれてきていることにより、影響を受けていると見られる。めちゃくちゃひどい状況では、ないかなあ。
天より降り注ぐもの。
これをカバーするすべは、屋根や身に着けるものによって対策が講じられるけれど、影響をもたらす範囲がとっても広い。
僕たちは、思っているよりもすごいものを受け止めながら、日々を生きている可能性があるかもしれないね。
かくいう僕も、小さいころに不可解なできごとに出くわしたことがあるんだけど、聞いてみないかい?
酸性雨の脅威は、僕が子供のころにももう知られた存在ではあった。
人間へ与える影響といったら、考えられるのがハゲになるのを促進させる、というものが特に有名で。雨降りの中、傘を差さずに突っ走って帰ると、やれ髪の毛がハゲるぞとからかって、一部の人からおしおきをもらうのも日常茶飯事だったな。
僕も、そのハゲの後押しになるという考えには賛同していたし、家系的に将来ハゲになることはほぼ確定していたし、この雨の危険性というのは表に出さずとも心配している一人だったよ。
だからこそ、折り畳み傘は常にかばんの中に入れていたのだけど、あの日の雨は本当に妙なものだった。
この日の天気は、予報によると一日中晴れになるところだった。
実際、午前中は雲一つない快晴だったのだけど、帰り際になって少し雲が湧いてきていたのだけど……いざ校庭に出て、西の空を見やって首をかしげたよ。
僕のいる学校、西を見ればずっと遠方に富士山の姿が見られる立地なんだ。そこから横に伸びる山の稜線たちは、さながらスケッチブックの額縁を思わせるデザイン。見通しもよくて、彼らの威容をさえぎる建物もない。
午前中はたっぷり青をたたえていたそれが、今はすっかり雲に覆われている……とかけば、特におかしいところはないように思える。
けれど、僕がひと目見て覚えたのが「塗りつぶした」という印象。
富士山に限った話ではないけど、遠くの山々の姿が雲に隠れてまともに見えなくなる、ということは珍しくはない。
それが今回は、富士山その他の山は一切その姿を隠されることなく、されどもそこを外れた空の部分は一部のスキもなく灰色の雲に覆われている。
雲の先端を見上げた。それは地上からもはっきりと見える動きでもって、じわじわとこちら側の空まで手を伸ばしつつある。これもまた慎重に彩りを考える画筆のごとき動きだったよ。
このとき、空を気にしていた人がどれだけいるかは分からない。ただ、このままだと雲がこちらを覆うのに、そこまで時間はかからない気がしたんだ。
事実、いくらも歩かないうちに確かめてみて、雲がすでにこの頭上を覆いつくしているのが分かったよ。
――いや、そもそもこれは雲なのか? やっぱり誰かが絵を描いているといったほうが、自然な動きのような……。
そう考えているうち、ぽつんと冷たい感触が頭を打つ。
勘違いか、と思う間もなく、顔といわず肩といわず、打ち付ける量は瞬く間に増えていった。
驚いたよ。冬場とはいえ、そのひとしずく、ひとしずくが服越しであったとしても、飛び上がりたくなるほどの冷たさなんだから。
すでに折り畳み傘は取り出していたけれど、家まではここから急いでも5分はかかる。雨足が強まらないうちに帰ろうと、駆けだしたところで。
ほんの数歩前へ倒れこんでくる影に、思わず「わっ」と飛びのきながら、声をあげちゃった。
道路わきに生えていた、背の高い街路樹。そのうちの枝の一本が折れて、歩道側へ倒れてきたんだよ。
ただ自分の重さに耐えかねてのことだったら、事前にもっときしむような音をあげそうなもの。それが今回は、なんの予兆もなく切り離されて落ちてきた格好だった。
しかも、折れた枝の根元が少し妙だったんだ。凍り付いている。
霜が下りた白さに覆われているのではなく、本当に氷の中へ閉じ込められているんだ。
よもや、と思う間に僕の傘へ、大きめの振動が走った。
大きめの雨粒が生地の表面で跳ねて、はじけていくつもの細かいしずくとなって、散らばる。それだけなら、普段の雨などでもあり得る光景だ。
違うのが、傘の裏側でも透けて見えるそのしずくたちの動きが止まったかと思うと、
たちまち氷となっていくこと……いや、それだけにとどまらない。
繊維の裂ける音が、あとに続いた。見ると雨粒の落ちた端から、どんどんと生地が凍り付いていく。その寒さに耐えきれなかった傘が、悲鳴をあげ始めていたんだ。
先ほどの枝の根元も同じ目に遭っていたなら……分からなくもない。
僕はこれ以上、雨粒を受けないよう気をつけながら先を急いだよ。
幸い、降ってくるすべてが、あの凍り付く性質を持ってはいないらしく、先ほど受けた箇所が凍り付いてきたりはしなかった。帰り道にある建物たちも同じだ。
でも、凍るところは木だろうが石だろうがコンクリートだろうが、凍る。チラ見した家々でも不自然に屋根や壁の凍り付いた箇所が見受けられる。
――これだと、他の歩いている人や、走っている車にも被害が出るんじゃ……。
そう思いつつも夢中で家の前までたどり着いた時には、もう雨がやんでいたんだ。
西の空はすでに晴れ渡っていて、このあたりももはや雲がない。けれども、走ってきた東の空にはまだ雲がとどまっていたんだ。
そして、よくよく目を凝らしてみると……灰色の雲の上に青色をした大きい氷が乗っかっているように思えたんだ。
ほぼ空に溶け込む色合いで、ぱっと見ただけでは気にかけないだろう。
けれども、先ほどの雲と同じ。不自然に塗られた青が、雲に乗ってゆったりと空を渡っていくんだよ。
あの氷の正体は、いまでも分からない。でもこの瞬時の凍てつきは、あの氷の仕業じゃないかと僕は感じた。
でもその下の雲が、妙な湧き出し方と動きを見せるのも氷のじゅうたんのごとき存在だから。そいつのしずくが直接地上へ落ちるのを防ぐ、フィルター役も兼ねているんじゃないかと思う。
きっと氷をそのまま運ばせたら、あの通り道は余さず銀世界になっているかもしれないから。