無冠の姫は、元敵国で春と歌う
三十七年続いた戦争が、ようやく終わりを迎えようとしている。
しかし、その終焉はリナリアにとって、決して喜ばしいものではなかった。
◇
戦争の発端は、国境沿いに架かるサン=リヴィエール橋を巡る争いだったという。
この橋は、スヤナーグ王国と隣国ルガルスを結ぶ唯一の交易路であり、財と人々の往来を支える要衝だった。
けれど、どちらもその利権を譲ることはなく、やがて言葉による交渉は剣と炎へとすり替わり、戦争は泥沼と化していった。
そんな果ての見えない争いの中、隣国ルガルスに大きな転機が訪れたのは、今から三年前のこと──ルガルス国王が、国境付近での戦闘で命を落とした。
敵国の王が戦死したとの報せに、スヤナーグの宮廷は歓喜した。
「これで戦況が有利になる」と誰もが期待を抱いた。
だが、その期待はほどなく裏切られる
──
亡きルガルス王の後を継いだのは、彼の唯一の息子であるアレクシス・ヴァレンタイン・ルガルス。
まだ二十そこそこの若き王は、即位早々に戦線の立て直しを行い、さらにはこちらの想像を超える巧妙な戦術を展開した。
膠着していた戦況が再び動き始めたのだ。
そして、ついにこちら側の国力が限界を迎えつつあった時、和平の提案がルガルス側からもたらされた。
その知らせが届いた時、スヤナーグ王国の宮廷は騒然となった。
──和平を申し入れるのは、戦場で追い詰められた者たちの常。
しかし、今回の提案は違った。
『我が方の譲歩案として、サン=リヴィエール橋に関する利権の半数を貴国に割譲する用意がある。また、両国の恒久的友好関係の証として、スヤナーグ王国との婚姻同盟を締結したく存ずる』
そう記された和平文書は、あまりにもスヤナーグにとって都合が良すぎた。
国の疲弊が隠しきれない中で、この提案はまるで救いの手である。
……少なくとも、王や重臣たちにとっては。
だが、リナリアにとっては違った。
これは『救い』ではなく、『代償』である。
そして、その代償として差し出されるのが、自分なのだ。
◇
「『王家の恥』を、最後に役立たせてやる」
王の声は感情のない石のように硬く、『物』に指示するような響きがあった。
「リナリア。ルガルス王国へ嫁げ」
その言葉に、周囲の重臣たちがわざとらしく肩をすくめるのを感じた。
中には、口元に薄笑いを浮かべる者さえいる。
ここにる者たちは、誰一人として、リナリアを『人』として見ていない。
「婚姻が、お前に課された最後の義務だ」
石壁に命令が反響し、耳に突き刺さる。
逃れられない。
そう悟ったリナリアは、口を開いてようやく一言だけ絞り出した。
「……はい」
──リナリアは王の愛妾が産んだ娘だった。
母親は出産直後に命を落とし、それ以来、王宮にあってなお、庇護も愛情も与えられずに育った。
父と異母兄は、亡き愛妾を思い出すことすらなく、そこに立つリナリアを、最初から存在しないかのように扱っていた。
従者も同じだ。呼んでも、何もなかったかのように通り過ぎてゆく。
王妃は違う。彼女はリナリアを見るたびに眉をひそめ、この世に存在してはならないものを見るような目を向けてくる。
「あの女と共に逝ってくれていれば、どれほど良かったかしら」
王妃は、いつも背を向けたまま、そう呟いた。
それは吐き捨てではなく、独り言のように滑らかで。
だが明らかに、リナリアに聞かせるための声だった。
異母姉二人と異母妹二人は、もっと直接的だった。
彼女たちにとってリナリアは、気に入らなければ叩きつけ、退屈しのぎに踏みにじる『捌け口』という名の玩具だった。
ある朝、枕元に血まみれの小鳥の死骸が置かれていた。リナリアが大切に育てていた、小さな命だった。
廊下の奥から姉妹たちの笑い声が響き、泣き顔を囃し立てる声は、未だ耳に焼きついている。
母が遺した人形も引き裂かれた。
綿が散らばった床を囲んで、姉妹たちは愉しげに嗤った。
「こんな安物、なくても平気でしょ?」
拾い上げた手が震えていたのを、今でも覚えている。
寝室に毒蛇を放たれたこともある。
鎌首をもたげて睨みつけてくるそれに息を呑んだリナリアを見て、駆けつけた従者はただ、溜め息交じりに言った。
「困りましたね」
それ以上、誰も何もしなかった。
そして宴の席では、椅子に仕掛けられた細工により、リナリアは人前で転倒させられた。
床に投げ出されたリナリアを見下ろし、王妃はわざと声を張った。
「まるで、品位というものを知らぬ者の振る舞いね」
それは観客に向けた合図だった。
貴族たちは口元を隠して笑い、重臣たちは目を逸らし、誰一人としてリナリアを助けてはくれなかった。
……王宮とはそういう世界だと、幼い頃から知っていた。
助けを求めても無駄。
泣けば嘲られる。
だから今さら命令を受けたところで、もう驚きはしない。
◇◇◇
朝靄の立ち込める王宮前広場には、ひっそりとした空気が漂っていた。
見送りに集まったのは数名の従者と、気まぐれに顔を見せた末の異母妹姫のみ。
異母妹は薄手の外套を羽織りながら、うっすらと笑みを浮かべている。
「幽閉の末に朽ち果てるなんて、いかにもあんたらしい……せめて、静かに逝ってちょうだいね。あんたのような役立たずでも、和平の駒くらいには使えるのだから」
その声には、感謝も、名残惜しさも、砂一粒ほどもない。
あるのは、厄介者を押しつけた後の安堵だけ。
リナリアは黙ったまま頭を下げた。
悲しい顔をして見せたのは、これが一番楽な対応だから。
悲しげに俯いてさえいれば、この異母妹は機嫌が良いので、終始殺意と憎悪の目で睨みつけてくる王妃より何十倍もマシなのだ。
案の定、異母妹は鼻で笑い、それ以上の言葉を投げることなく踵を返した。
用意された馬車の扉が開かれ、突き刺すような視線を受けながら乗り込むと、扉はわざと大きな音を立てて閉じられた。
木製の扉が外界を遮断すると、広場のざわめきはかすかに遠のき、車内は静寂に包まれ、ほっと息を吐く。
そして、すぐに馬車が動き始めた。
ゴトゴトと不規則な揺れが背中を押す。
──ルガルスではどんな表情を作ればいいのだろうか。
そんな問いが、幾度も頭の中でめぐっていた。
スヤナーグの城下町を抜けた馬車は、やがて荒廃した農村地帯へと入った。
窓の外には、疫病に苦しむ村人たちのやつれた顔が見える。
崩れかけた家々、耕されることのなくなった田畑。
そして疲れ果てた目をした子供たちの姿が次々と過ぎていく。
顔を伏せ、思う。屋根のある部屋で眠れるだけ、あの子たちよりも自分はずっとマシなのだ──嘆くのはもうやめよう。
山岳地帯に差し掛かった頃、馬車の揺れが一層激しくなった。
冷たい雨が窓を叩きつけ、地面は泥濘と化し、兵士たちは馬を引きながら何度も足を取られ、隊列はじりじりと遅れていった。
「進まないぞ!」
護衛長の苛立った声が雨音に紛れ、遠くから低い唸り声が聞こえる。犬に似ていながら、どこか人の理から外れたような唸り声が、闇の向こうから響いてきた。……正体は掴めない。
ただ、その声は不気味にして、ぞっとするほど異質だった。
「山賊だ!」
剣が抜かれる音と同時に、鋭い叫びが夜闇を裂いた。
馬の嘶き、怒号、金属がぶつかり合う音が雨音をかき消し、馬車の外で何が起きているのか分からない。
──これが、自分の『旅路の終わり』になるのかもしれない。
そう思った。
しかし、静寂が戻った時、護衛長の声がそれを否定した。
「無事だ! 全員、大丈夫だ!」
響く声を聞きながら、胸の奥に安堵が広がり、それと引き換えに、身体の芯へ疲労が沈んでいく。
ここで何かあれば、和平は途絶えていたかもしれない。
誰もが分かっている。リナリアが嫌われ者であろうとも、和平に不可欠な駒だということを。
そうして数週間をかけ荒廃した山間部を抜けると、風景ががらりと変わり始めた──ルガルス国に入ったのだ。
手入れの行き届いた畑が広がり、家々の煙突からは白い煙が立ち上っている。
活気に満ちた村の姿に、胸の奥で希望に似た予感がかすかに揺れる。
……けれど、そんな未来に自分の居場所はない。
振り返ってみて、リナリアが『平穏』の中にいたことなど一度もない。
◇
出発からちょうど二ヵ月目に到着したルガルス城の門前に、王の姿はなかった。
結婚式を挙げないと知ったその時から、こうなることは覚悟している。
だから、当然のように地下牢へ送られるのだろうと思っていた。
──幽閉で済むなら、それでいい。
二日に一度の食事と、週に一冊でもいいから本を借りられる生活が叶うのなら、それ以上を望むつもりはなかった。
だが、案内されたのは思い描いていた冷たく湿った牢獄などではなく、広々と明るい部屋だった。
白い壁はよく磨かれていて、光を柔らかく弾いている。
大きな窓からは春の光が差し込み、床に淡い陽だまりをつくっていた。
開け放たれた窓からは、かすかに花の匂いと鳥のさえずりが届いてくる。
……暖かい。
心が追いつかず、しばらく立ち尽くしてしまう。
こんな素敵な部屋が与えられるなんて、信じられない気持ちで胸がいっぱいになり、頭が混乱する。
しばらく部屋の中をきょろきょろと見渡していると、不意にドアが開く音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、一人の若い男だった。
彼が誰なのか、すぐに分かった。
アレクシス・ヴァレンタイン・ルガルス。
王冠こそ被っていなかったが、その佇まいには確かに王者の風格がある。
「……姫、出迎えに間に合わなくてすまない。△×◯◉×が、⚫︎◯◻︎××▽▶︎で、@#▶︎か?」
「……?」
早口で話し始めた彼の言葉は、ほとんど聞き取れない。
けれど、その真剣な表情から、彼がリナリアを軽んじているわけではないことだけははっきりと分かった。
「あー、《こんにちは》……いや、《はじめまして》か。《ようこそ、ルガルスへ》。難しいな、スヤナーグ語は……《おれ、アレクシス。このクニの王》」
……王が、わざわざスヤナーグ語で挨拶をしてくれるなんて。
身振り手振りでぎこちない言い回しをする彼を見て、リナリアも勇気を出して口を開く。
「お会いでき、コーエイです。《ご挨拶》……あいちゃつ、ありがと、です。リナリア・デ・スヤナーグです。わたし、ふちゅつか者。よろしく……おねがい、です」
人前で使ったことが一度もないルガルス語で挨拶を返すと、彼は驚いたように目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。
「ルガルス語が、上手だ」
そう言われて、頬が熱くなるのを感じた。
「ほんと?」
口にした途端、自分の言葉がおかしかったことに気付いた。
この言い回しではフランクすぎる。『本当ですか?』が正しい、はずだ。たぶん。
「あっ、ごめんください! ……ほんと、です?」
慌てて訂正すると、彼は困ったような、けれどどこか楽しそうな表情を見せた。
「違わない」
「……チわ、な?」
その言葉の意味が分からず、首を傾げると、彼は言葉を続けた。
「言い方は、合っているよ」
どうやら、リナリアの拙い話し方を肯定してくれたようだ。
先ほどよりも、ゆっくり、はっきり、話してくれている気がするのは、きっと勘違いではない。
その優しさが思いがけなく胸に響いた。
ルガルス語を学び始めたのは、ずっと昔のことだ。
異母姉妹たちは「ルガルス語なんて覚える価値もないわ」と馬鹿にしていたけれど、リナリアはそうは思わなかった。
価値がないと言われるルガルス語を学ぶことは、どこか自分自身を肯定する行為だったのかもしれない。
けれど、それだけじゃない。
この国の言葉は、リナリアにとって何か特別な響きを持っていた。流れるような音、詩のように紡がれる言葉たち──とても美しいと思った。
物置と化した書庫の片隅に古びた教本を見つけてからは、隙を見つけ密かに勉強を続けてきた。
独学での取得だったので言い回しはところどころおかしく、発音もきっと正確ではない。
それでも、言葉を口にするたび、どこか遠くの新しい世界と繋がるような気がして、心が少しだけ軽くなった。
「わたし、ルガルス語、ステキ、思うです。だから、もっとオボえたい、思うです」
言葉を区切りながら話すリナリアを、彼は穏やかな目でじっと見つめていた。
「教えるよ。……そうだ、俺もスヤナーグ語を教えてもらおうかな、貴女に」
「お、おしえる? わたし、とても、ウマくない! 《ええっと、私は人に何かを教えた経験がありません。別の方に頼んだほうが──》」
首を左右に振りながら、しどろもどろなリナリアを見て、彼は目を細める。
「大丈夫、俺も、上手くない。一緒に、学ぼう」
楽しそうに笑う彼は、七つ年上の二十五歳だと聞いている。
でも、その笑顔は少年のようにあどけなく、どこか眩しい。
言葉に詰まり、喉がきゅっと詰まる。
……どうしてだろう。なんだか、頬が熱くなってしまう。
改めて、彼をよく──いや、よく見なくても、彼は素敵だった。
短く整えられた黒髪と端正な顔立ち。
鋭さを感じさせる凛々しい眉や、高い鼻梁。
がっしりとした体躯には、ただ立っているだけで場を制するような迫力があった。
その気になれば、簡単に威圧できるのだろう。
実際、そういう顔を見たら、きっと息もできなくなる。
けれど、青に灰を混ぜたような瞳には、冷たさどころか、かすかな温もりが宿っていた。
今も、怖がらせないようにしているのが伝わってくる。肩を縮め、眉をわざと下げて困ったように見せるその仕草が、何よりの証だ。
計算か、それとも無意識かは分からない。
ただ、この姿を見ていると、胸の奥にほのかな熱が宿っていく。
この人が、戦争で荒れた国を治めているなんて……と、不思議な気持ちになった。
◇
式は挙げなくとも、初日はそういったものがあると、自分付きになったメイドから教えられた。
『初夜』というらしい。
夫婦になる儀式? 夜伽? とも呼ぶらしく、軽々しく口にするのははしたないのに、その行為がもたらすものは、とても尊いのだという。
でも、それが何を意味するのか、今一つ掴めなかった。
メイドの説明がふわふわと具体性に欠けていたこともあるけれど、スヤナーグでは、そうしたことを教わる機会がなく、聞かされても実感など湧かなかったのだ。
ああ、そうだ。確か……異母姉姫たちはリナリアを嗤いながら、「初夜に乱暴に扱われる憐れな女」と決めつけていた。
怖いことなのだろうか……と憂うつに思っていたのだが、しかし。
アレクシスとの初夜は──とびきり、楽しかった。
まず、『しりとり』というゲームをして遊んだ。
これはアレクシスに教えてもらった遊びで、ルガルスの子供たちの間では定番なのだそうだ。
「最後の文字で次の言葉をつなげていくんだ」
と教えてもらい、最初は戸惑ったけれど、やってみると意外と面白かった。
「『鳥』」
「り、り……『リンゴ』、です」
「『ゴールデンベル』」
「る、るる……ええっと、『ルビィ』」
少々慌てながらも言葉をひねり出すと、アレクシスが頷きながら微笑む。
次第にリズムに乗って、リナリアもどんどんルガルスの言葉を思いつけるようになった。
しりとりが終わると、今度はカード遊びを教えてもらった。
『ジン・ラミー』という、相手よりも先にカードの組み合わせを揃えるゲームだそうだ。
ルールを聞いた時、最初は難しいと思った。
……数字や絵柄を合わせる? 順番通りに並べる?
どうしたらいいのか分からなくて、カードを手にしたままじっと考え込んでしまう。
けれど、アレクシスはリナリアの手元を覗き込みながら、一枚一枚丁寧にカードを手に取って教えてくれた。
「ほら、こうやって、3、4、5と続けて並べるんだ。それから、同じ数字の組み合わせ、例えば……これなら、8を三枚とか」
「えっと……わたし、コウ……です?」
「うん、合ってるよ。順番も完璧だ」
彼に褒められるたびに徐々に自信が湧き、カードを並べる手つきも、最初のぎこちなさが消えていく。
「すごいじゃないか! 次は、もっといい手を考えられるようになるな」
アレクシスの優しい声に、心の中が温かくなった。
そこからは、どちらが先に手札を揃えられるか、何度も勝負を重ねた。
彼に「勝てるかな?」とからかわれるたび、妙な勝負心が湧いてきて、次の一手をどうするか一生懸命考える。
カードを手に取りながら、彼の表情を盗み見る。
おどけるように目をぐるっと回す彼を見ると、なんだか悔しくて、それでも楽しくて、つい笑ってしまう。
「カち、します!」
「えっ、本当か? ……あー、揃ってる。やられた、貴女の勝ちだね」
二人で顔を見合わせて笑った瞬間、窓の外がほんのり明るくなり始めていることに気付いた。
気付けば夜が明けていたのだ。
「こんなに遊ぶなんて思わなかった。でも、楽しかった」
「わたしも、とても、タノしかた、です」
眠気はあるのに、胸の中はほわほわとぬくい。
「まあ、でも眠いね。昼まで寝ようか」
「はい」
アレクシスと片付けを始めた時、扉が控えめにノックされ、ゆっくりと開く音がした。
「──陛下」
現れたのは彼の側近だった。
整った所作で一礼しながらも、その声には呆れが滲んでいる。
「……王としていかがなものかと」
その言葉に、彼は軽く肩をすくめてみせた。
「いいじゃないか。『一夜を共にした』という記録は残せる」
「記録は残っても、現実の義務を果たしていただかねば……」
側近の目がこちらに向けられた気がして、胸がぎゅっと締めつけられる。
……自分が何か失敗をしたのだろうか。
そう思わずにはいられない。
カード遊びをしたこと? それとも、何か他の失礼をしてしまったのだろうか……。
そして、二人の会話が正確に聞き取れず意味も汲み取れず不安な気持ちが膨らむ。
「問題ない」
「お言葉ですが、順番を飛ばすと後で問題があります」
やはり側近の言葉は遠回しで、何を言いたいのかはっきりとは分からない。ただ、『順番を飛ばす』という言葉が、胸にざらりと引っかかる。
「もう少し、彼女が色々分かってからだ」
オロオロする自分に向けられたアレクシスの優しい声色と瞳に、不安が和らいでしまい、深く考えることを放棄した。
……というよりも、眠くて眠くて堪らなかったというのが正しい。
そして、昼過ぎに目を覚ました時には、このことをすっかり忘れ、なんと一年後にこの会話の意味を知るというオチを得るのである。
が、これはまた別の話なので、今は隅に置いておこう。
それから名目上の朝食の席に着いたリナリアは、ルガルスでの食事がスヤナーグとは全く違うことに驚かされた。
スヤナーグでの食事といえば、冷めたスープと固いパンでもご馳走であった。
しかし、そんな質素なものと比べ、ルガルスの食卓は豪華だった。
テーブルには色鮮やかな野菜のスープ、焼きたてのパンが数種類、新鮮な果物まで並んでいた。
豪華な食事に慣れないせいか、最初は緊張していたけれど、食べてみればどれも丁寧に作られていて美味しく、気付けば自然とスプーンを持った手を動かしていた。
「おいしい!」と叫ぶように言うと、奥からコック長を名乗る男性が出てきた。
彼はリナリアの一言に感極まった様子で、それがとても嬉しかった。
朝食兼昼食を食べた後は、メイドに城内やそこで働く人々を紹介してもらった。
どの人も、元敵国の人間である自分に対して驚くほど優しく、好意的だった。
それがアレクシスの配慮によるものだということは、すぐに気がついた。
彼が事前にリナリアが不安を感じないよう、人々に話をしてくれていたのだろう。
スヤナーグでの立場を思えば、ここで誰もが親切に接してくれること自体が不思議で、同時にその優しさが心に染みた。
午後は、メイドたちに着せ替え人形のように扱われたが、それは異母姉妹たちが楽しんでいた『玩具』としての扱いとはまるで違っていた。
メイドたちは、リナリアを綺麗にすることを心から楽しんでいるようだった。
彼女たちの手つきは優しく、軽やかで、そこに嫌がらせや悪意は微塵も感じられない。
鏡に映る自分の姿を見て、思わず息を呑んだ。
髪が綺麗に結われ、肌はほんのりと色づいている──こんな風に綺麗にしてもらったのは、生まれて初めてだった。
異母姉妹たちの冷たく嘲る声に怯えながら、散々弄ばれてきた過去が胸をよぎったけれど、鏡の中の自分に優しく微笑むメイドたちの姿が、そんな記憶を押し流す。
また、大臣や側近たちも丁寧に接してくれた。
リナリアが話の中で質問をしすぎてしまうことがあっても、嫌な顔をするどころか、一つひとつに真摯に答えてくれる。
その態度に、自分が『アレクシスの妻』として厚遇されているのだと実感した。
夕飯はアレクシスと一緒に食べた。
今度は彼の側近や給仕も巻き込んだ『しりとり』で、行儀悪くも笑い転げてしまった。
……涙が出たのは、笑いすぎたせい──そういうことにしておいてほしい。
◇
数日を過ごすうちに、ルガルスの輪郭が明瞭になってきた。
戦争の傷跡が至るところに残り、農村では荒廃した土地が多いものの、少しずつ整備が進み、収穫量もわずかに増加し始めているという話を耳にした。
ただし、それだけでは国全体の需要を満たすには程遠く、他国からの輸入に頼らざるを得ないのが現状だ。
それでも市場には活気が戻りつつあり、交易で手に入れた豊富な品々が並ぶ店先には、多くの人々が足を運んでいた。
苦難を乗り越えた国民たちの表情には、明るさが戻り始めている。
その日の午後。家庭教師がつくと聞いた瞬間、リナリアの目から涙がこぼれた。
スヤナーグでは学ぶ機会など与えられるはずもなく、孤立した日々を送っていた。学ぶことへの憧れと、それが叶う喜びで芯から温かさが広がっていく。
涙を拭いながら「ありがとごじゃります」と「うれしい」を何度も言うと、アレクシスはどこか複雑そうな表情を浮かべた。
その理由が分からず戸惑っていると、傍らにいた側近がこっそり小声で教えてくれた。
「陛下は、照れているのですよ」
──ここでは誰もが、リナリアを厄介者としてではなく、一人の人間として接してくれる。
その優しさに触れるたび、スヤナーグでの冷たい視線や孤独な日々が遠くに感じられるようだった。
重く沈んでいた胸の奥が、不思議と軽くなっていくのだ。
そんな変化を感じ始めた頃、アレクシスと一緒に庭園を散歩することが増えていった。
「《この花は、綺麗ですね》」
「《この……ハナ、きれい、ですね》?」
「おじょうず!」
小さく拍手すると、彼は照れくさそうに笑った。
言葉を教え合う時間は不思議な心地よさがあった。
「リナリア、これは……どう訳せばいい?」
彼が指差したのは、スヤナーグ王国の詩集の一節だった。
古風な表現だったが、それは即座に答える。
「《雪のように白く》、です」
「《ゆきの、ようにシロく》、《ゆきのように、シロく》……」
彼は真剣な顔でその言葉を繰り返す。
子供のような無邪気さが感じられて、頬が緩んだ。
こんな風に誰かと対等に会話をするのは、生まれて初めてかもしれない。
そう気付いた瞬間、胸の奥がほんのり温かくなった。
……彼といると、いつも心がぽかぽかする。
◇◇
数ヵ月が経ち、ルガルスでの生活に慣れてきた頃、アレクシスがリナリアをとある村へ連れて行ってくれた。
ここでは、痩せた土地のせいで村人たちが困窮していると家庭教師から事前に聞いていた。
ルガルスでは、農業に関する文献や書物を、前々王であるアレクシスの祖父がすべて燃やしてしまったという。
その影響で、農業は他国に比べて大きく後れを取っているのだと説明された。
アレクシスの祖父は、気まぐれと恐怖で国を支配した暴君だった。
学者や農民を弾圧し、知を嫌って書物に火を放ったその暴挙は、今も国民の記憶に深く刻まれている。
また、祖父だけでなく、彼の父も同じく暴君で、民から重い税を取り立て、国を荒廃させた張本人だと聞く。
アレクシス自身、実母の顔を知らずに育ったそうだ。
父王の妃は何十人も変わったとされ、その影響か、前王の子供は彼一人ではないらしい。
だけど、この話は宮廷でタブーとなっているのか、誰もが口をつぐみ、詳細を知ることができていない。
「──土が痩せてしまったこの村では作物が育たない」
アレクシスの困ったような声を聞きながら、リナリアの頭の中にはスヤナーグで孤独な日々を過ごしていた頃、必死に読み漁った農業の本の内容が蘇っていた。
「あの、《緑肥》、つかう、どうですか?」
「……りょくひ?」
「わたし、本、たぁくさん読みました。サクモツ、そだてる前に、土にお休みさせます。肥料のかわりにトクテイの草、育てます。それを土に混ぜ込むです。例えば、クローバーとかライグラス、育てます。草が育つしたら、それ刈って、そのままそれを土にすき込むします。そしたら、土、元気になるます!」
身振り手振りで説明すると、彼は真剣な顔で頷いた。
「なるほど。……肥料用の植物を植えて、適切な時期に達したらそれを刈って混ぜる……か。うん……」
「……わたしのセツメイ、へたします。ごめんなさい」
「いや、そんなことないよ。試してみたいって思ってる。それに言葉はとても上達してるよ」
草が分解されて土に栄養が戻り、やがて大地が力を取り戻していく。
それを伝えたかったのに、言葉が足りず、悔しさだけが胸に残った。
──試してみたいというのは、きっと自分に気を遣ってくれたのだと思っていた。
けれど、それは違った。
……彼は本気だった。
◇◇◇
村の畑に小さな芽が顔を覗かせたあの日から幾つもの季節が巡り、春の光が城を柔らかく包む新年の朝。リナリアのもとに、思いがけない報せが届いた。
痩せた土地が息を吹き返し、畑には青々とした作物が広がり始めたという知らせが届いたのだ。村人たちは、畑を前に涙を流していたらしい。
その報告を聞きながら、リナリアは今日までの日々を静かに思い返していた。
緑肥に限らず、国全体の農業を良くしたいという思いから、かつてスヤナーグで本を読み漁った時のように、知識を再び掘り起こしていった。
けれど、ルガルス語では思うように伝えきれず、悩んだ末に、文字に頼ることにしたのだった。
冊子や資料を作る為、毎日机に向かい、朝から晩まで夢中で筆を走らせ、水を口にするのも忘れるほどだった。
そのたびにアレクシスやメイドたちから叱られたが、それでも筆を止めようとしない様子に、ついには強制的に手を引かれることもあった。
その日も、見かねた彼が肩に手を置き、じっと顔を覗き込んできた。
「リナリア、無理をしてはいけないと何度言えば分かるんだ?」
「すぐ終わる、です。もうちょっとです」
「朝からずっと机に向かいっぱなしだと聞いたぞ? 俺が視察で城を空ける日はいつもこうなんだって? ほら、もう休むよ」
「やだです。今やめると、どこまで書いた、忘れるです」
リナリアは書きかけの冊子に目を戻し、無意識に筆を握りしめる──スヤナーグでは、何を言っても誰も聞く耳を持たなかった。口を開けば笑われ、知識を示せば嘲られるだけだった。けれど、ルガルスは違う。
だから、今、自分にできることがあることが嬉しくてたまらない。故に寝ている暇などない。
「だめだ、もう寝るんだ」
彼の声はいつもより低く、それ以上の反論を許さないような響きがあった。
しかし、リナリアはぷいっとそっぽを向いて反抗した──と、その瞬間、彼に抱き上げられ、思わず声をあげてしまった。
「貴女が休む気がないなら、こうするしかない」
「《下ろしてください!》」
「明日の朝でも遅くないよ」
「いま、書きたい! 机に戻る! わたし、戻るしますっ!!」
それでも彼は歩みを止めず、抗議を続けるリナリアをしっかり抱きかかえたまま進んだ。
「書きたい気持ちは分かるが、今は身体を休めるのが先だ。倒れたら、誰も続きを書けなくなるだろう?」
「《やだやだ~~っ》」
「むうむう言わない」
「《やだ~……》」
「よしよし、寝ような」
リナリアの言葉はだんだんと力を失っていき、彼の肩に頭を預けると、身体の疲労が一気に押し寄せてきた。
そして、重く沈む瞼に抗おう……としていたのに、目を開ければ、すでに朝が来ていた。
目が覚めるや否や、机の上に置いたままだった原稿が頭に浮かび、慌てて起き上がると、そのまま夢中で筆を走らせた。
そうして自分が持つ限りの知識を詰め込んだ一冊を、ついに作り上げたのだ。
その冊子を手に取ったアレクシスが笑ったことが、本当に本当に嬉しかった。
そんな経緯を経て、村で緑肥を使った土壌改良と新たな農業技術が実践され、大地に作物が実り始めたという報告が届いたのである。
──目を閉じると、この一年が走馬灯のように蘇る。
痩せた土地に緑が戻り、村の畑には青々とした作物が広がり始めた。それを思うと、胸に満足感が広がっていく。
緑肥による土壌改革の成功。それが村を救う第一歩となったのは確かだ。
だが、それだけではない。
もう一つ、この村で成し遂げた重要な発見がある。
それは、村で誰も手をつけようとしなかった『トゲナシの実』──村の片隅で群生する青紫色の果実だ。
毒があり、誰もが避けて通るそれを見た時、スヤナーグで読んだ本の一節を思い出した。
『トゲナシの実:発酵によって毒性が消え、食用になる果実。甘味が増し、時には酒や調味料にも使われる』
村の人々に提案したが、「毒の実を触るなんて危険すぎる!」と取り合ってもらえなかった。
だから、こっそり試すことにした。
恐怖はなかった。本に書かれている以上、成功する自信があったからだ。
発酵させた果実を口にした時、ほんのり甘酸っぱく、かすかな塩味が広がった。その味わいは毒が消えたことを証明していた。
だが、そのことを後で知ったアレクシスには、こっぴどく叱られた。
「何を考えているんだ! 毒があるんだぞ!」
その声にはいつもの穏やかさはなく、まるでリナリアの無茶を本気で心配しているようだった。
小さく「ごめんなさい」と呟くことしかできなかったけれど、心は温かかった。
スヤナーグで孤独だった頃、こんな風に自分の行動を気にしてくれる人なんていなかった。
やがて、この実は特産品として注目されるようになる。
食用に加工されるだけでなく、酒にすると驚くほど美味しいことが分かり、保存の利く高級酒として人気を博すことになる──だが、それは未来の話。今のリナリアはまだ、この果実がどれほどの可能性を秘めているかを知る由もない。
リナリアは、スヤナーグで読んだ数え切れない本の中から、一筋の知識を掘り起こしては繋げていった。
灌漑の仕組みや土壌改良の理論、りんさくによる負担軽減の手法、さらには農業における労働の効率化まで。自分ができる限りのことを文書にまとめた。
文字に頼ることしかできない自分にとって、それは唯一の方法だった。
そして、その文字が誰かの役に立ち、村を救う手がかりとなったことが、ただただ嬉しかった。
……この一年で起きたすべてのことが、大切な経験だ──
村人からの手紙を読んでいると、いつの間にかアレクシスが隣に立っていた。
顔を上げると、彼は悪戯っぽく笑って「ニコニコしてるね」と言いながらリナリアの頬を軽くつついた。どうやら、手紙を読みながらニヤついていたらしい。
「わたし、お手紙、嬉しいです。だから、ニコニコします!」
「うん、みんな喜んでる」
「アレクシスさまもニコニコします」
「うん、リナリアが奥さんで嬉しいからね」
「……お、お世辞、おじょうず?」
「世辞じゃないさ。……式も挙げてやれないのに、貴女は文句も言わず、この国の為に尽くしてくれて。もっと我儘を言ってくれてもいいのにって、時々思うよ」
彼の目は真剣そのもので、リナリアは言葉に詰まった。
「わたし、ワガママ言う、けっこーしてるです。それに、けっこん式するより、大事なこと、たくさんあるです」
リナリアがそう言うと、アレクシスは一瞬、言葉を探すように沈黙した。
それから、息をつくと、どこか申し訳なさそうな表情でこちらを見た。
「実は……話しておかなきゃいけないことがある」
彼の言葉に胸がざわついた。いつになく慎重で、どこか重たかったからだ。
「和平の為の結婚を決めた時、スヤナーグから来るのは……リナリアの異母姉妹の誰かだと勝手に思っていたんだ」
彼の言葉は、胸を鋭く突いてくるようだった。
「だから……敢えて最小限の人数で迎えさせた。……歓迎するつもりがなかったんだ。……でも、来たのはリナリアだった」
……自分が来て、期待外れだと思ったのだろうか?
アレクシスは目を伏せながら続ける。
「正直、最初にリナリアを見た時……メイドか奴隷が身代わりに当てられたんじゃないかと思った。スヤナーグの王家の姫だとは思えないほど痩せていたから。でも、貴女にはスヤナーグの王家にしか持って生まれない特徴があった。……紫の瞳と淡い金色の髪──それで俺はすぐに状況を判断した」
メイドか奴隷?
あの時、そんな風に思われていたなんて。
「……俺は、同情した」
胸の奥がギュッと締め付けられる。
……そうだ、彼が自分に優しいのは、同情だ。それ以外の理由なんて、ありはしない。
「リナリアのスヤナーグでの扱いを調べた。それで、俺は……リナリアがどう過ごしてきたかを知ってしまって──」
その時、アレクシスが慌てて声を上げた。
「違う! 同情はしたけど、今は違うんだ! ごめん、ごめんね、リナリア。……泣かないで」
その必死な声に、はっとする──どうやら泣いていたらしい。
どうしてだろう……こんなことで泣くなんて。
同情だって、優しくしてもらえるだけでありがたいことなのに……。
リナリアが視線を落とすと、アレクシスが言葉を続ける。
「俺はリナリアを尊敬してる。今、貴女に向ける気持ちは同情なんかじゃない。信じられないかもしれないけど……」
その言葉に、思わず顔を上げる。
濁りのない瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。
「……信じます」
正真正銘、リナリアの本音の言葉だった。
アレクシスは手を伸ばしてリナリアの涙を指で拭い、語り始めた。
それは、宮廷中で『暗黙の了解』となって誰もが話さなかったことだった。
彼にはかつて四人の兄と二人の弟がいたそうだ。
だが、父である前王が長男と次男を殺し合いに追い込み、王位を争わせたことで二人は命を落としたという。
残った兄弟たちも、前王が嘘の情報を流して仲を裂くことで次々と消えていった。
結果として、最後に残ったのが彼だったそうだ。
「俺に姉や妹がいないのも、父のやり方だ。女子が生まれると、父は即座に始末させていた。……俺たち兄弟も、生き残る為に互いを疑い、憎むことしかできなかった」
アレクシスの声はどこか苦しげだった。彼はそう語りながら、視線を遠くへ向ける。
リナリアは、その視線の先を追いかける。
「……悲しい、ですね」
そう呟くと、彼は少し眉を寄せ、首を振った。
「俺だけじゃない。国中がそうだったんだ。父が作ったのは、疑心と憎しみに満ちた世界だったから。……だから、簡単なことじゃないけど俺はこの国を作り直したいって思っている」
「……」
何かを言おうとしたが、上手く言葉にならなかった。
「……リナリア。俺は国と民の為に生きると決めた。だから、いつでも貴女を最優先にできるとは限らない。でも、それでも、俺の中で特別なのは貴女だ。大切に思っている。心から、誰よりも。リナリアが隣にいてくれたら、俺はきっと負けない。……だから、これからも、どうか側にいてほしい」
アレクシスはそう言うと、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
リナリアの口から、思わず「あ……」と声が漏れる。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがふわりと弾けた。同時に、彼の『同情した』という言葉に涙がこぼれた理由も、ようやく分かった。
凍りついていた心の奥が、ほんのりと解けていく。
──この人は、私の『春』だ。
「います! わたしたち、ずーっと一緒です!」
気付けば、彼に飛び込んでいた。
この日、リナリアはようやく彼の『本当』の妻になれた。
──が。
『初夜』を終え、それが持つ意味に気づいてしまったリナリアは、それ以降、アレクシスの顔を見るたび真っ赤になって逃げ出すようになる。
城の回廊、階段の陰、書庫の裏手。
見つかれば恥ずかしさで溶けてしまいそうで、出会い頭に踵を返す日々……。
頭を抱える羽目になったアレクシスとのその騒動も、また二人らしい『始まり』であった。
◇◇◇◇◇◇
三年後。
乾いたルガルスの大地を割って伸びた葉の間から、太った『コルマ』の頭が顔を覗かせていた。
焼いても蒸しても甘く、長く保存もできるこの穀根は、リナリアが「植えてみたいです」と言った作物だった。
ほんの思いつきのように話した一言がきっかけだったのに、今では畑一面がコルマに覆われている。
そして今や、コルマは戦で荒れた土地の再生を象徴する作物として知られ、周辺諸国との交易にも姿を見せるようになった。
かつて荒廃していたルガルスは、今では確かな歩みを刻みはじめている。
しかし、この広間に立つ人々の表情に、祝宴のような華やぎはない。
……それも、無理はない。
なぜなら、今日ここで行われるのは、過去を清算する為の儀式なのだから。
厳かな空気の中、リナリアはアレクシスの隣に立っていた。
パーティーの為に招かれた客人たち──ルガルスの貴族たち、隣国の要人、そしてスヤナーグからの使者たちが席に着いている。
視線の一部が自分に注がれているのを感じながらも前を向く。
……父たちにとって、これは『和平記念パーティー』だ。
けれど、他の者たちにとっては違う。
真の決着を告げる場であり、新たな未来を示す宣言の場だ。
この広間に立つのも、もう何度目だろう。
ここでアレクシスの隣に立つことすら不安だったリナリアが、今では王妃としてこの場にいる。
彼がゆっくりと立ち上がった。
その表情は、いつもの柔らかさを帯びたものではなく、威厳に満ちている。
「本日をもって……いや、《本日をもって、スヤナーグ王国とルガルス王国は、一つの統一王国となることを、ここに宣言する》」
アレクシスはスヤナーグ語で語ることを選んだ。
その言葉が放たれた瞬間、会場の空気が凍りつく。
荒れ果てた村々を立て直し、戦争の傷跡を癒す為、アレクシスは奔走し続けた。
新たな法を整える過程で、彼は反発する貴族たちと幾度となく対話を重ね、時に譲り、時に断固として臨んだ。
リナリアもまた、各地を巡り、学んだ知識を駆使して農村の改革を支え続けた。
それでも、その道のりは決して平坦ではなかった。
だからこそ、今この場で放たれた彼の言葉は、誰よりも重い。
この決断に至るまで、彼は何度も悩み続けた。妻の母国を統一するという選択に、彼の優しさが深い迷いをもたらしていた。
リナリアは、そんな彼の背を押した。
もともと、彼が自分を娶ったのは、民にこれ以上血が流れることを望まなかったからだ。
だが和平のあとも、スヤナーグ王家は変わらず民を搾取し、隷属を強いていた。
「《なっ……!》」
まず声を上げたのは、父だった。
立ち上がりかけた父は、足元をふらつかせながら椅子に沈み込む。
その顔は見る間に蒼白になり、震える唇からは何も出てこない。
「《……それでは、我がスヤナーグは──》」
か細い声で何かを言いかけた父だったが、周囲の冷たい視線に気付いて口を閉ざす。
あれほど冷酷で傲慢だった父が、怯えたように視線を彷徨わせている。
その姿を見て、胸に浮かんだのは、かつてのリナリアなら決して抱けなかった感情──『哀れみ』だった。
かつて自分は、この人の言葉一つで震え上がっていた。
……でも今、その力は全く通じない。
広間全体が父の狼狽ぶりに注目する中、アレクシスが再び口を開く。
「《これまでスヤナーグを支配していた王族に代わり、我々ルガルスが民の声を聞く義務を果たす。トロイ・ブラックシアー・スヤナーグには、『名誉領主』の地位を与える。だが、これは過去のような権力や贅沢を享受できるものではないと心得よ》」
その声は広間に堂々と響き渡った。
「《名誉領主……?》」
父──トロイ・ブラックシアー・スヤナーグが震える声で呟く。その肩を隣の王妃が掴む。彼女の顔には恐怖が浮かび、その化粧の下から青ざめた肌が透けて見えるようだった。
「《そんなの形だけの地位じゃないの! 私たちの財産はどうなるの!? 我々の城や家臣たちは……!》」
その問いかけに答えはない。
しかし、周囲に立つルガルスの貴族たちの冷ややかな視線が、それを物語っている。
スヤナーグの元王族たちが隠し持っていた私財はすべて没収され、彼らには粗末な住居と最低限の生活費しか与えられないと決定されているのだ。
つまり、ここを出た彼らを待っているのは、『貧しい村人と同じような生活環境』ということである。
「《お言葉ですが、我々には命を守る為の資金が必要です!》」
異母兄が叫んだ。
その顔には、自分の生活が脅かされることへの焦りと恐怖しか浮かんでいない。
その必死な姿に、ルガルスの貴族の一人が低い声で呟く。
「命を守る為……? 笑わせる。まるで民を守ろうとした者の口ぶりだな。あれだけ税を搾り取っておいて、よく言えたものだ」
リナリアがルガルスへ嫁いでから、父と異母兄は欲をかき、無慈悲な税収で農村地帯を荒廃させて多くの人々を飢餓に追い込んだ。それを知らぬ者は、ここにはいない。
広間全体が冷たい沈黙に包まれる中、王妃が突然「《いやあああ!》」と悲鳴を上げた。
崩れ落ちる王妃に誰も駆け寄らず、彼女はその場にへなへなと座り込む。
王妃の瞳には、これまで築いてきた栄華が音を立てて崩れる幻が映っているようだった。
かつて尊大だったその顔が歪み、震える唇からは、もう誰にも届かない呟きが零れていた──が、何を言っているのかは分からない。
「《こんなの……許せない……っ》」
今度は、異母姉の震える声が聞こえた。
それを皮切りに、異母姉妹たちが次々に立ち上がり、声を張り上げる。
「《不公平です!》」
「《父上がリナリアなんかに王妃の座を譲るからこうなるのよ!》」
一人が涙を流しながら床を拳で叩く。その横では、もう一人が髪を振り乱しながら「《どうしてあんな女が……!》」と叫んでいる。
最年少の異母妹は、座っていられず床に崩れ落ちたまま嗚咽を漏らしていた。靴が脱げた足先が丸見えだということにも気付いていない。
あれほど優雅さを誇っていた彼女たちが、今は広間中の視線を浴びながら醜態を晒している。
投げつけられた冷笑や嘲りを思い出せば、彼女たちのこの姿は滑稽だ。
飽きもせず泣き叫ぶ異母姉妹たちの声が広間に響き渡り、その中の一人が突然こちらを指差す。
「《あんたなんか、王妃の器じゃないわ!》」
その言葉に、リナリアは初めて彼女たちの方を向いた。
そして、何も言わないまま彼女たちをじっと見つめる。
その一瞥で、異母姉妹たちは怯え、言葉を飲み込んだ。
自分たちの振る舞いが、今や広間中の冷笑を集めていることにようやく気付いたのだろう。
会場の空気が完全に変わった。
スヤナーグの従者たちも、父に従っていた者たちも、彼女たちを冷めた目で見つめている。
「《静かに》」
アレクシスの低い声が響き渡る。
その一言だけで広間は静寂に包まれた。
「《スヤナーグとルガルスが一つになることは、今後の平和にとって必要不可欠だ。この決定は、我が国だけでなく、他国からも支持を得ている》」
堂々と語る彼の姿を、生涯忘れることはないだろう。
異母姉妹たちの姿が視界の隅に映る。
彼女たちに踏みにじられ、誰にも守られなかった過去……でも、今は違う。
自分は今ここにいる。
アレクシスの隣に立ち、胸を張っている。
あの頃、誰かの傍らで笑う未来など想像もできなかった。
だけど、今は、隣にいる彼がリナリアを守り、リナリア自身の力を信じさせてくれている。
過去を振り返っても、もう何も怖くはなかった。家族の言葉も、冷たい視線も、もはや支配することはできない。
ゆっくりと立ち上がる。
視線が自然と集まり、緊張で心臓が高鳴った。
それでも、ここで言葉を紡がなければならない。
「私は、スヤナーグ王国にいた頃、自分が何の為に生きているのか分かりませんでした」
リナリアは、ルガルス語で語ることを選んだ。
震える声が広間に響く。この言葉を口にするのは、少しだけ苦しい。
「誰からも必要とされず、自分には何の価値もないと思っていました」
視線が刺さるのを感じる。
強い怒り、煮えたぎる嫉妬──
けれど、もう怯えたりはしない。
「今、私はここで、新しい家族と新しい居場所を見つけました」
過去の家族には届かなくてもいい。
もう、彼らが自分をどう見ようと怖くはない。
声はもう震えていない。
「私たちは変わることができます。憎しみを乗り越え、助け合うことで、新しい未来を築くことができると、私は信じています。この選択が正しかったと証明する為に、私も全力を尽くします」
言い終えると、会場は静まり返ったまま、数秒の間が空いた。
誰かが拍手を始めた。
次第に波紋が広がるように、広間全体が拍手の音で満ちていく。
リナリアはその温かな音の中、アレクシスと視線を交わした。
彼の目は穏やかで、どこか誇らしげだった。
◇
パーティーが終わり、静まり返った部屋の中で、リナリアは窓の外を眺めていた。
銀の月が庭を照らし、風に揺れる草花が、まるで夢の中の声のようにそよいでいる。
「……統一の報告も、終わったな」
アレクシスが肩の力を抜きながら隣に座る。
その顔にはわずかな疲れが滲んでいたが、達成感を帯びたゆったりとした笑みが浮かんでいた。
「……これから、どうなるのでしょうか」
「どうなるか、俺にも分からない。だけど、良い方向に変わると思う。そうしていこうと思ってる」
彼の言葉を聞きながら、胸の中で小さな予感が芽生えた。
冷え切っていた大地に、春のような温かさが訪れるのを想像できる。
それはきっと、命が芽吹き、希望が溢れる未来になるだろう。
「……アレクシスさま」
「ん?」
月光に照らされた横顔を見つめながら、一瞬だけ迷い、それから意を決して口を開いた。
「もし……私たちに子供が生まれたら、どんな国を見せたいですか?」
問いを受けて、アレクシスの瞳が微かに揺れた。
けれど、すぐに穏やかな光を帯びて、ふわりと笑みが浮かぶ。
「そうだな……。争いのない国で、思うままに生きられる未来を見せたい」
その声は、どこか遠くを見ているような響きを持っていた。
目を閉じると、春の陽だまりの中、子供たちの笑い声が遠くから響いてくるような気がした。
「……楽しみですね」
小さく呟くと、アレクシスが「そうだな」と頷いた。
春は、すぐそこ。
未来の花が咲く景色は、きっと笑顔と優しさで満ちている。
【完】
-----------------------------
【おまけ:はじめましての後、アレクシスは──……!? なお話】(側近視点)
-----------------------------
王は執務室に戻るなり、椅子に身を沈めた。
政務を補佐する側近として、長年王のそばに仕えているドレルは、無言のまま控えの位置につく。
目に映る主の姿は、どこか落ち着きがなかった。
加えて、妻となる姫に会いにいく時の面倒くさそうな気配は綺麗さっぱり消えている。
ドレルが、どうしたものかと思っていたところで、王はぽつりと言葉を漏らした。
「──カタコト、可愛すぎる……」
「……は?」
耳を疑ったドレルが問い返すが、王は真顔のまま続ける。
「いや、お前も一度聞けば分かる。とにかく可愛い。マジでヤバいぞ……」
政務に関するどの指示よりも、よほど熱のこもった声音だった。
「……陛下?」
声をかけると、王はようやく自分の発言に気づいたらしい。
「い、いや、違う! そういう意味じゃない……っ!」
「では、どういう意味で?」
問い詰めたわけではない。だが王は、すでに語るに落ちていた。
「だから、その、あれだ……不慣れな異国の言葉を懸命に話そうとする姿勢が……こう、グッと…………すまん、忘れてくれ……」
額に手をやり、しどろもどろに言葉を濁す。
動揺を隠せないのは明らかである。
「私は記憶力が良いので、忘れるのは難しいですが……努力はしてみましょう」
ドレルの言葉に王は黙り込み、目を伏せたまま沈黙する──『やっちまった感』がすごい。
「何はともあれ、和平の証として迎えた方が陛下の好みであることは、大変喜ばしいことですね」
皮肉ではなく、真に事実である。
なにせ、この王ときたら、幼い頃から兄弟間で骨肉の争いに巻き込まれ、常に剣呑な空気の中で育った過去をもつのだ。そんな王が、年相応の男子らしい動揺を見せたのだから、ドレルにとっては、ある意味で安堵すべき出来事である。
もっとも、ドレルという男は表情がほとんど動かず、滅多に見せぬ笑顔は『かえって胡散臭い』と評判である。
ゆえに、この安堵もまた、誰の目にも分かりやすい形では表れなかった。なんでだろう、こんなにもほっこりしているというのに……。
和平の証──本来は、それだけの存在だったはずの姫。
……しかし、王の様子はそれを超えてきた。ほんの短い対面だったはずなのに。
ドレルは、ここまで心を動かされた王の姿は、かつて見たことがなかった。
──それから十数年の時を経て、この側近の男は、彼らの子らに語る。
「あれが始まりでした」と。