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個人主義的ハムサンドウィッチ

 僕は誰かの手作りハムサンドウィッチ。思いつくまますべての欲求を満たすうちに、報酬系や頭がぐずぐずになってきていたんだ。はた目からじゃレタスとチーズの区別なんかつきやしない。その発酵はライ麦生地のパンにまで及びつつある。だらしなくピンクの舌を垂らして、食われるか食ってしまうかの時を待ちわびている。個人主義的ハムサンドウィッチだった。ハムサンドウィッチにしては器用な手足がついていた。何の発端も痕跡もなくそこに横たわっていた、真っ白な粉末状の夜明けのベッドの上の、僕が僕であることを知るハムサンドウィッチなのだった。

 近所の医者は言う。

「個人主義へ傾けば、やがて全体は崩れます。とっても自然なことなんですよ。この理屈は分かりますね。」

 ハムサンドウィッチ患者である僕は黙ってうなづくしかない。

「……もし分からないとあれば、そうだな。少々手荒ではありますが、エジプトへ行ってみてはどうです。現地の奏者に頼んで、ピラミッドの前でジャズを習いなさい。それにこの季節の砂漠は夜になるととても涼しいと聞きますし。そうだ、それがいい。」

 すると医者はPCに向かい、手早く処方箋をつくりはじめた。その処方箋を持って薬局へいくと、僕は保険こみで金色のトランペットとエジプト旅行券を買わされていた。ハムサンドイッチ患者に選択権はない。ケースもない裸のトランペットを抱きかかえて、僕はエジプトまでジャズをやりにいった。

 エジプトへ到着するのは夕方になった。さらにピラミッドのある砂漠までやってきたのは深夜。この時間に奏者がいるという第五王子ピラミッドの周りには、いくつかの種類の青色がぼんやりと、夜回り警備にあたっていた。どれも輪郭すらはっきりとしない連中だったが、僕の持つトランペットを目にした途端にその青が色めき立ち、どこに隠し持っていたのかそれぞれ上海セットドラム、先割れテナーサックス、光学式ウッドベースを取り出して僕に目配せをしてきた。そうして僕らが結成したクインテットはこの第五王子ピラミッド前でジャムセッションを開始した。夜が明けるまで全員手をとめることなく演奏していたので、四人の気味の悪さが実質的な警備になっていた。日が昇ると僕らは汗と手足の痺れ、そして僕らのクインテットによって編み出した新派生ジャンル、スーパーミッドナイトジャズを獲得していた。深夜のバカ騒ぎから相まって、四人はこれで各地を回ろうということで合意した。僕から3人へはもちろんのこと、青色3人の中でも言葉は通じていなかった。すべてはスーパーミッドナイトジャズを通じて交わされていた。

 エジプトではいまだに演奏の需要が高かった。金持ちの晩餐会、酒場のステージ、新しく開店した書物店の集客、珍しいところでは田舎の窒息パーティ(無能者や働けなくなった老人を布団の下に寝かせその上で親族たちが行う宴会)にも呼び出された。依頼された場で即興演奏を行ううちに僕らのクインテットは着実に名を上げ、暇な夜にはいつでも砂漠へ向かい、第五王子ピラミッドの前でジャムセッションをした。その練習までも人が覗きにくるくらい人気を得たころ、わざわざこの第五王子ピラミッドまでレコード契約の相談を持ち出す者が現れた。あのブルーノートエジプト支社からのお誘いだった。当然僕らはオッケーすると前金を山分けし、後日用意してもらったスタジオへ演奏を録りに出向いた。

 スタジオへは単独で向かい、着いてみると上海式ドラムの青色だけが遅れていた。上海式ドラムは時間になっても来ず、現場の空気は段々とイラつきだしていた。僕らはこれまでずっとスーパーミッドナイトジャズに浸っていた。そのあまりか電話番号はおろか、住所や名前も教えたことがなかった。みんな演奏に夢中で気にならなかったのだった。しかしこのままでは演奏が開始できない。そこで先割れテナーサックスの青色が貧乏ゆすりをしながら口を開いた。

「もおいい。僕が代わりにドラムを叩く。あいつのドラムくらい僕にだってできるさ。僕のドラムを先に録ったあと、それを流しながら3人で演奏しよう。」

 僕らの意見も待たずに、先割れテナーサックスの青はドラムスティックをスネアに振り下ろした。だがてんでダメだった。彼はおそらくこの3人の中で一番下手だった。叩くリズムが常に不定だ。こんなではどうしたって音楽になりはしない。そのことは先割れテナーサックス本人も承知しているようで、イラつきを増しながら刻むリズムは揺れを増すばかりだった。そんなノイズへ割り込むようにドアが開いた。血まみれの上海ドラムの青だった。すでに時間は押していた。それにみんなウズウズしていた。だからいちいち文句を挟むことなく演奏を開始し、感覚的には数分で録り終えた2時間にも及ぶ1stアルバムは、僕らのクインテット史上最高とも呼べる演奏になっていた。こうしてスーパーミッドナイトジャズはエジプトから飛び出し、世界中で愛される音楽となった。


 そのころ僕は3人の青に別れを告げ、とっくに帰国して自分のベッドから立ち上がり、朝を迎えていた。鏡をみると、ハムサンドウィッチから年季の入ったベロが出ていた。

「まったくね、けしからんですよ。こんなことはね、歴史上類をみないことがらであってですな……。」

 今朝はそんなテレビだった。チャンネルをつけたこと自体間違えだったとさえ思ってしまう、浮浪者の見た目をした大学教授がピーナッツサイズの唾を飛ばして喋りまくっている。番組は撮影カメラが飛来した唾によって水没し終了した。臨時対応として、オランダのチューリップ畑と客船ホワイト号が高速で切り替わりながらチャンネルに流れ続けた。画面右下には白文字で30Hzと表示されていた。値はときどき30Hzを下回ることもあった。

 使っていたトランペットはやはりケースには入れず、裸のままソファの上に立てかけてあった。表面には砂漠の砂のあとがまだ残っていた。そこに触れると3人の青色との思い出がよみがえり、あのときの熱が今や夢のように思えた。自分たちのアルバムは持っているのに、どこか信じられなかった。

 近所の医者は言う。

「個人主義へ傾けば、やがて全体は崩れます。とっても自然なことなんですよ。この理屈は分かりますね。」

 医者は挨拶の話題にそれしか持ち合わせがないようだった。だがハムサンドウィッチ患者の僕には何も言えない。知識がなかった。だが医学知識のある患者など可愛くないだろう。こちらの献身的な態度は、ある意味相手をも献身的にさせる。それを知ったうえで、僕は従順に首を振るだけのハムサンドウィッチだった。治る見込みはあるのか。質問は控えた。

「君はだね、ヴェネツィアに行くがいいよ。トウシューズを履いて少女たちに混じってバレエをしてくるがいい。きっと美しくも薄汚い世界をみることになるだろうが、良薬は口に苦し、故事にあるじゃないか。ああ問題はない。一応、世間的にはヴェネツィアはすでに水没してしまったといことになっているがね、まだ一部には経済圏が残っていて、なにしろ住民のあいだでは昔ながらの手漕ぎ船から自国製の水上飛行装置に乗り換えが始まっているらしい。今ならその過渡期を目にできるかもしれない。よし、今回はこれで処方箋をつくっておこう。」

 薬局ではヴェネツィア旅行券と白いレオタードを出された。今回の処方については、さすがのハムサンドウィッチな僕でも躊躇が生まれてくる。僕は、何か騙されているのだろうか。かつてこの病院で一度でも薬を出してもらったことがあっただろうか。趣味でもない旅行を、保険適用内とはいえ無理矢理買わされている。振り返ればひび割れたコンクリートで廃屋とも間違えそうなクリニックと隣接する薬局がやけに薄暗く映った。ほとんど水に沈んだヴェネツィアでバレエをする。子供に混じって? でも言われるがまま、もう買ってしまった。本当に行くのか。僕と替わるように薬局へ入っていった親子を、必要以上に眺めてしまう。とりあえず家に帰った。なんとなくチケットの期限を気にしながら、でも無視しようと過ごしていた。でも僕は損するのが嫌いなハムサンドウィッチだった。期限ギリギリになると、結局また空港へ向かってしまった。旅行が好きでもない僕は現地につくとアタフタしてしまい、助けを乞うようにキッズバレエ教室に入り、入会の相談をした。耳を疑った。オッケーだって。ぐったりしながら教室の扉をくぐる。目の前に流れる川をブラウンカスタム仕様の水上飛行装置が駆け抜けていった。船からヤンチャそうな若者がひとり、身を乗り出して僕に言った。

「Grandma’s gondola! Hey! Grandma’s gondola!」

 旅行者である僕のためにあえて母国語を使っていない、訛りのある英語だった。宿につくと部屋に備え付けのラジオから、エジプトの音楽を紹介という体で、僕らの演奏したスーパーミッドナイトジャズが流れていた。僕はベッドの上、持参した白いレオタードを抱きしめ、なんとか眠りにつこうと力むほどに目を閉じた。明日の醜態に怯えながら、無情にも朝日は昇ってしまった。

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