9話 戸惑い
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『ルーカス、君を見込んで頼みたい事がある』
かつての上役にあたるエレトリア王国外交官・ファーナビー卿の言葉をルーカスは自室で一人噛みしめていた。
『へーリア帝国に駐在していたハンティントン男爵をお前も知っているだろう』
『ええ』
『彼が急死したことは知っているか』
『……え?』
ルーカスは驚いてファーナビーの顔を見つめた。ルーカスの知る限り、ハンティントン卿は壮健な人物だった。仕事ぶりも高潔で優秀だったと記憶している。そんな彼が急死とは。
『……君はその、外交官を辞めた後は家督を継いで今や社交界のスターだ』
『あなたまでそんな事を』
『そこでだ……そんな君に、ハンティントン家のお嬢さんの所に行ってもらいたいのだ』
『……お使いですか? この私に?』
元上司の不可解な依頼に、ルーカスは片眉を上げた。
『華々しい貴公子の君だからできるのさ』
ルーカスの問いに、ファーナビーは皮肉げな笑みを浮かべてそう答えたのだった。
***
「……なに、密書を持って三カ国を巡った時に比べれば簡単な使いだ」
ルーカスはその時の苦労を思い出しながら、今度のファーナビーの依頼は大した事ではないと己を諭した。ただ、ルーカスにとって誤算だったのはアンジェ自身だった。彼女は若くて美しく、落ちぶれた生活に身をやつしても失わないあの青い瞳の輝きの奥には、気高さと……危うさが同居していた。
「とにかく早く新居に彼女達を移すことだ」
ルーカスはそうすれば、多少はこの胸のざわめきを抑えられるだろう……そう思った。
「大分、顔色が良くなったようだアンジェ」
それから一週間ほど。エインズワースの屋敷で食事と休養をたっぷりととったアンジェは元の健康をほとんど取り戻していた。頬はふっくらとして薔薇色に血色が戻ってきている。
「そうですか?」
アンジェはルーカスにそう言われると嬉しそうに微笑んだ。アンジェも貧相になってしまった自分の姿が少し恥ずかしかったのだ。だが、すぐにハッとしてルーカスに問いかけた。
「……それで用事はなにかしら」
「ああ、君たちの新居の用意が出来た」
「まあ」
「仮暮らしは気疲れもあったろう。これからは三人で新しい屋敷で暮らすといい」
「ありがとうございます」
ルーカスの言う事は確かだった。始めは雨漏りのないことに喜んでいたけれど、やはり居候というのはどこか落ち着かないものだ。
「……お世話になりました。ルーカス」
「まだこれからだ。君の生活が落ち着いたら、私の婚約者としてあちこち練り歩くのだから」
「ええ……ええ、分かっています」
アンジェは頷いた。これは仕事。彼の親切はすべて契約の為。アンジェはその心を隠してルーカスの言葉に頷いた。
「あっ、お借りしたドレスとネックレスをお返しします」
「あれは……持って行ってくれ」
「でも……」
ルーカスの妹の古着のドレスはともかく、サファイヤのネックレスはとても立派なものだった。
「……夜会に行くのにドレスも宝石も必要だろう。新しいものも作らせるつもりだ」
「それは……!」
ルーカスは少しうんざりした。アンジェはいつもこうだ。何かを与えようとするとすぐに抵抗を示す。
「もし返すならすべて終わった後に。俺はみすぼらしい貧相な婚約者はいらん」
「そ、そうですね」
そう強めにアンジェに言ったあと、ルーカスはすぐに後悔した。どうして自分はこう突き放すような言い方をしてしまうのか。
「……すまない」
「いえ、おっしゃるとおりです」
ルーカスの謝罪にアンジェは仮面のような無表情で答えた。これだ、自分を悩ませるのはこのアンジェの頑な態度だ。それから翌日、三人が新居に移るまで、アンジェはその態度を崩さなかった。
「わぁっ!」
ライナスとルシアは新居のドアが開かれると、一斉に二階に駆け上がっていった。
「あーっ、転びますよ!」
ハンナがはしゃぐ双子達に声をかけながら双子の後を追っていく。アンジェはすっかり整えられた屋敷に入った。こぢんまりとしているが良い家である。エインズワースの屋敷からもそう遠くない。玄関ホールの黄色いストライプの壁紙も明るくてアンジェの好みだった。
「お姉様! 見て……!」
それらを眺めながらアンジェが二階に昇ると、子供部屋からルシアが飛び出してきた。
「ドールハウスよ……。それからとっても可愛いお人形も」
人形を抱えたルシアはキラキラと目を輝かせている。
「こっちには汽車の模型だ! それからおもちゃの銃!」
ライナスも精巧に作られたそれを見て声をあげた。彼らの部屋は様々な玩具があり、本棚には絵本、それから小型のピアノ、天蓋付きのベッドとまるで彼らにとっては夢の国のようになっていた。
「あらあら……」
ルーカスは思いつくかぎり二人が喜びそうなものを部屋に詰め込んだらしい。
「ふたりとも。遊ぶのはいいけど、勉強もきちんとするのよ。先生の言う事をちゃんと聞いて」
「はーい」
ライナスとルシアは元気に答えた。アンジェは本当かしら、と思いつつこれまで沢山我慢をさせた分、二人の笑顔が嬉しくもあった。
「じゃあ、二人で遊んでいて。私は手紙を書いているわ」
アンジェはそう言って自分の部屋に入った。
「あら……素敵……」
アンジェはその部屋を見て思わず言葉を漏らした。控えめな花柄の壁紙に白い家具。寝室に置くには大ぶりな本棚には、アンジェがエインズワースの屋敷でよく読んでいたへーリアの詩の本もあった。
「……こんなものまで」
そして文机にはハンティントンの家名の透かしの入った便せんがあった。
「もう……」
アンジェは思わずその場にうずくまった。ルーカスはなぜ、口では冷たいことばかり言うのにこんな気遣いをしてくれるのか。
「手紙を……書かなきゃ」
アンジェはルーカスに翻弄されている自覚をしながら、顔を振って机に座った。
親愛なるユーリへ
この間の手紙から大分経ってしまいました。しばらく婚約者の家で生活していました。改めて新居に移りましたことを報告します。ちょっと狭いけれど、私とライナスとルシアとメイドのハンナで生活する分には十分過ぎます。もしもカッセルに来ることがあったら是非訪ねてください。
こちらも婚約者がいる身だけど、ユーリは幼馴染みですもの。歓迎するわ。
そうそう、婚約者のこと、心配してくれてありがとう。そうね、彼がどんな人かというとユーリとは真逆な感じの男性ね。無骨な所はあるけど親切な人です。きっといい人だと思います。それでは。
愛をこめて アンジェ
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