8話 付き添い人
グレンダ未亡人がやってきたのはその次の日の午後である。
「お久しぶりねルーカス。あなたったらまるで逃げるようにこのカッセルを離れて」
「……用事があったのですよ」
「あなたの顔をひとめ見ようっていう方々が沢山いらっしゃったのよ」
「う……」
「そんなあからさまに嫌な顔をしないの。そういうところ、小さな頃から変わらないわね」
グレンダ未亡人はそうルーカスをたしなめた。彼女とルーカスは昔なじみなのか、グレンダ未亡人はずけずけとした物言いでルーカスに詰め寄った。彼女は四十を超えたくらいだと聞いていたが、喪服が不自然なほど艶やかな黒髪が若々しくエネルギッシュな印象だ。
「……あなたね、そのルーカスの婚約者というのは」
「はい……」
そのグレンダの視線がアンジェに向いた。アンジェは思わずゴクリとつばを飲んだ。
「ふーん。随分痩せているけれども……見た目は合格ね」
「彼女はちょっと患っていて、今は療養中なんだ」
「で? どこで出会ったの? そんな伏せっていて」
グレンダは矢継ぎ早に疑問を口にした。少しの粗も許しはしないといった感じだ。アンジェはそれになんとか答える。
「あの、お見舞いに来てくださって……」
「へえ?」
グレンダは目を細めた。それに口を挟んだのはルーカスだ。
「彼女の父とはへーリア帝国で世話になって……ふと訪ねたら彼はすでに亡くなっていて、彼女はこの通りだったんだ」
「まあ、へーリア帝国?」
胡散臭い物をみるようなグレンダの目が、急に見開かれた。
「彼女は生まれはこちらだけど、十年間へーリア帝国で育ったんだ」
「まあ……そうなの……」
「あ……の……?」
「私、へーリアの出なのよ。もう……二十年以上も昔の話だけれども」
アンジェはそれを聞いて、急にグレンダに親しみを覚えた。こちらに比べれば、広大だが寒く殺風景な大地が大半の厳しい土地。
「そうですか……へーリアは今は遅めの春が来ようとしているところですね」
「ええ……雪が溶けて一瞬の夏が来て……」
「シニイの花が一斉に咲くのですよね、丘を埋め尽くして」
「そう……そうよ……まるで夢の中みたいに……」
アンジェはユーリ達と花摘みに出かけたあの丘を思い出して胸が締め付けられそうになった。そしてそれは、グレンダも同じだったようだ。
「懐かしいわ……それではへーリア語ができるのかしら」
「ええ、できます」
「ではお願い。私としばらくへーリアの言葉でおしゃべりしてもらえないかしら」
「……よろこんで」
アンジェはまるで少女のように手をあわせてそう頼んでくるグレンダの姿に微笑みながら、彼女の願いを快諾した。
「俺もそこそこヘーリアの言葉は分かっているつもりだったんだがな。二人が話しているのはまったく分からなかった。早口で」
「少し北方の訛りが強かったからかもしれませんね」
グレンダの帰ったあと、黙って二人の通じない話を聞いていたルーカスはほうっと息を吐いてぼやいた。
「それにしても驚いた。あのグレンダ未亡人とあそこまで打ち解けるとは」
「……たまたまです」
「だとしても、今日の事できっと君は社交界で成功するだろう。彼女が後ろ盾になったからには……」
「成功だなんて……」
「どうせなら歩きやすい道の方がよいだろう。彼女に意見する人間はそういない」
社交界での成功など望んでいないと思っていたアンジェはルーカスの言葉にそれもそうだと思い直した。アンジェはこの国での社交界の経験がないだけだ。へーリアでは父の付き添いとして社交界には出ていた。その面倒くささは知っている。
「ライナスとルシアの家庭教師も今探している」
「本当ですか!」
「ああ。優しく聡明な女家庭教師と……あとライナスには数学と歴史を別に教えてくれる家庭教師が要るかと」
「数学と歴史……まだ早いんじゃ」
「少し話したら彼は興味あるみたいだったが」
「そうですか……それなら……」
ライナスが負担に思わなければかまわない。あの子は賢い子だ。ハンティントン家の当主としてふさわしく成長してもらいたい。
「……そして、これが契約書だ。内容を一読して問題無ければ署名を」
「けい……契約書?」
「ああ、俺と君との秘密の契約書だ。これまですべて口約束だった。これがあればなにかあった時に君も安心できるだろう」
ルーカスがスッと出して来た書類、そこには二人の婚約が便宜上のものであること、契約期間中はアンジェとその弟妹の生活を保障すること、そしてそれが解消された際、慰謝料として支払われる十分な金額が書き込まれていた。その一枚の紙は、アンジェとルーカスの関係が事務的なものであるとまざまざと主張していた。
「……確かに拝見しました」
「ではここにサインを」
アンジェは言われるがままにそこにサインをした。冷え切った指先で。
「それではこれは弁護士に預けておこう」
「……はい」
そう、なんとか笑顔で答えてアンジェは自室へと戻った。
「便宜上の……そう……そうなのよ」
彼の労りや気遣いは全て便宜上のもの。婚約者のふりをするアンジェにたいしての対価。なのに。
「勘違いをしそうになるわ……」
そう、アンジェは呟きながら椅子の上のクッションを抱きしめた。あの一見冷たそうな切れ長の瞳の奥は優しくて、双子達に問いかける声は穏やかで……。
「駄目よ、アンジェ。彼には別に愛する人がいるのよ」
そうアンジェは自分に言い聞かせるしかなかった。
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