6話 鉄の伯爵の労り
「こんばんわ」
「やあ、いい夜だね」
すでに席に着いていたルーカス。広い食堂で二人きりの晩餐がはじまった。
「……おいしい」
「そうか」
滋味溢れるコンソメのスープを口にしたアンジェは思わず声を漏らした。これに比べれば、アンジェがいままで食べていたのは塩味のついたお湯にすぎない。
それから前菜やサラダが供されたが、メインの肉料理の前にアンジェはフォークを止めてしまった。
「……アンジェ?」
「ごめんなさい……せっかく……」
「いいんだよ」
そこでルーカスは、アンジェが粗食を続けた結果、量が食べられなくなっているという事に気が付いた。やたらとコルセットで締め付けたせいだったり、見栄の為に料理が食べられないふりではない。彼女の胃は沢山の食べ物をいっぺんに摂取するのが難しくなっていたのだ。
「子供達は君ほどやせ細ってはいなかった」
「……」
「彼らに譲って君はどれだけ我慢したのか分かったよ」
ルーカスはすっと席を立つとアンジェの手を取って立たせた。
「部屋に戻っておやすみ。食事はしばらく部屋に運ばせよう。消化と滋養のよいものを」
「……不作法をお詫びします」
「気にするな。君は病人と変わらない。まずは体をちゃんと休ませなさい」
アンジェはルーカスの言葉に泣き出しそうだった。
「なぜ……そこまでしてくださるのでしょう」
「……縁談を断るのに肝心の婚約者どのに倒れられては困る」
「そう……そうですね」
ルーカスの返事に、現実を思い出してアンジェの涙はひっこんだ。アンジェはルーカスの偽りの婚約者。その為にルーカスはアンジェに手を貸してくれているだけなのだと。
「おやすみなさい」
「ああ」
アンジェが食堂を去ったあと、ルーカスは小さく舌打ちをした。
「……仕方ない。あまり深入りをする訳にもいかないんだから」
アンジェに冷たい言葉を浴びせた事を後悔しながらも、ルーカスは自分に言い訳をした。辛い境遇を耐えてきた彼女にはついおせっかいをしたくなる。しかし目的の為にそれは不要な感情だった。
「もうライナスとルシアは寝てしまったの?」
「ええ、長いこと馬車にゆられていましたから、もうぐっすりと」
「そう……」
部屋に帰ったアンジェは、まずハンナに双子達の事を聞いた。ふかふかのベッドでふたりとも今はすっかり夢の中らしい。アンジェも早く寝てしまおうと思った。ここ数日であまりにも色々ありすぎた。
「……これからの事は後回し!」
伯爵の言う通り、これまでの無理がたたっていたアンジェはその後、泥のように眠った。柔らかなベッドで、隙間風やどこかが軋む音に悩まされることなく。
「アンジェ様、朝ですよ」
そう翌朝ハンナに声をかけられるまでアンジェはぐっすりと眠っていた。
「朝食です」
そう言って出されたのはミルク粥にフルーツ。アンジェはルーカスの気遣いに感謝しながら今度はそれを全部食べた。食後のお茶は濃いめに、クリームはたっぷりと、お砂糖はふたつ。
「ハンナ、私の好みを覚えていてくれたのね」
「もちろんですとも」
こんなお茶を飲むのも久し振りだ。気力の充実したアンジェは着替えてライナスとルシアの様子を見に行った。すると賑やかな声がドアの向こうから聞こえる。アンジェがドアを開けると、双子達の前にルーカスがしゃがみ込んでいるのが見えた。
「ルーカスさん、動物園にはいつ連れて行ってくれるの」
「羊さんは触れるかしら」
「どうだろう」
「僕はライオンを触るよ」
「それはやめておいた方がいい」
小鳥のように騒がしく話す双子達に生真面目な顔でルーカスが答えているのが可笑しくて、アンジェは思わず声を出して笑ってしまった。
「おはようアンジェ」
「おはよう、ルーカス」
「よく眠れたようだね」
「ええ」
今日は顔色のいいアンジェにルーカスは朝の挨拶をした。その途端にライナスとルシアがアンジェにまとわりついてくる。
「おはよう、ふたりとも」
「おはよう姉様、ねぇ動物園に行ってもいい?」
「ねぇねぇ」
「ちょっと落ち着いてちょうだい」
アンジェが双子達の勢いにのまれていると、ルーカスが軽く頭を下げる。
「すまない、この子達にせがませれるまま話したものだから」
「いいんですよ。ライナス、ルシア……あんまりルーカスを困らせては駄目よ」
アンジェは口ではそう言いながらも、双子達がわがままを言ってくるのが少し嬉しかった。するとしばらくその様子を眺めていたルーカスが口を開いた。
「アンジェ……君さえよければ二人を連れて動物園に行こうと思うのだが」
「えっ」
アンジェが少しその提案に驚いていると、ルーカスはそっとアンジェの耳元で囁いた。
「ここも狭いが庭もある。お姉様はそこでひとりゆっくり読書でもいかがかな」
「ゆっくり……」
そんなこと本当にいつぶりだろう。一人の時間が持てるなんて、とアンジェは思った。
「……決まりだな」
「ふ、ふたりをよろしくお願いします」
アンジェの顔色が変わったのを見て、ルーカスは不敵に笑った。
「いってきまーす」
「いい子でね!」
双子をつれてルーカスは馬車に乗り、動物園に向かった。
「図書室は……ここ」
アンジェはルーカスに許可を貰って図書室で本を探す。
「まあ……大変な蔵書だわ」
難しい神話や哲学書の原書まである。アンジェはへーリアの古典の詩作を見つけてそれを手にとった。そして庭のベンチでパラパラとめくりながらお茶を飲む。静かな、自分だけの時間。その時間をたっぷりと夕方までアンジェは楽しんだ。
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