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3話 婚約者

「……ちっとも眠れなかったわ」


 あれから、なんとか廃屋の自分の部屋に戻ったアンジェは寝間着に着替えることもなく、ベッドに半身を横たえて悶々と考え込んでいた。


「朝食の用意をしないと……」


 アンジェは鏡台で己の顔を映した。頬がこけ、くまがひどい。アンジェはせめて、と櫛でほつれた髪をなおした。もうすぐライナスとルシアが起きてくる。縁談の話はいずれ知る事とは言え、こんな顔で告げることはできない。


「……笑顔よ。アンジェ。泣いちゃだめ」


 アンジェは自分にそう言い聞かせて、階下に降りていった。すると、途切れ途切れにライナスとルシアの泣き声が聞こえる。


「どうしたの」

「お姉様、またなの」

「え……また?」


 アンジェが階段を降りきると、大して物も置いていない居間のカーテンが引き裂かれ、ソファーがひっくり返っていた。


「こんな時まで嫌がらせ? ……二人とも、こんなのすぐに片付けるから早く朝食にしましょう」


 アンジェはブラッドリーに憤慨しながら、荒らされた部屋を直した。こんな事は度々あったが、あんな横暴を働いた翌朝にこんなことをするなんて、と。

 怒りと悲しみを胸にパンとスープだけの簡素な朝食を用意する。食欲の湧かないアンジェがパンを少しかじっただけで黙り込んでいるのを見て、ルシアが心配そうに覗き混んできた。


「お姉様、お腹いたいの?」

「そうみたい……もったいないからライナスとルシアで半分こしてちょうだい」

「うん……」


 アンジェはパンを双子に渡して、ムカムカする胃を抑えながらなんとかスープを飲み干した。


「……う」


 すると本当に差し込むような痛みがしてアンジェは呻いた。


「大変! ライナス、お姉様が!」

「お姉様。ソファに座ったほうがいいよ」

「ええ……」


 ライナスに手を引かれて、アンジェは元々傷んでいた上に荒らされた居間のボロボロのソファに体を横たえた。


「大丈夫、姉様……お薬いるかな?」

「少し、休めば大丈夫。……静かにしていたいから、お外で遊んでらっしゃい。でも母屋に行ってはだめよ」

「うん……」

「わかった」


 ライナスとルシアは心配そうにアンジェを振り返りながら、外に出て行った。気丈な姉が弱った姿をあまり見せたがらないのを、彼らは小さいながらも理解していたのだ。


「う……ん……」


 それからどれくらいがたったろう。アンジェは少しうつらうつらとしていたようだ。気が付けば胃の痛みも軽くなっていた。その時である。


「お姉様! お客様だよ!」


 外からライナスの大声が聞こえた。お客様……この廃屋に客など来るはずもない。アンジェは怪訝な顔で起き上がった。すると扉が開いて、うさぎのように飛び跳ねながらルシアが飛び込んで来た。


「大変よ! お姉様の婚約者ですって」

「……婚約者!?」


 アンジェは血の気が引いた。婚約者とはモンクリーフ子爵だろうか。なんてことだろう、こんなに早くに来るなんて、アンジェを逃がさない為だろうか。


「こちらへどうぞ!」


 だが、アンジェが止める間もなくライナスは来客を通してしまったようだ。扉の前に人陰が現われて、アンジェは思わずぎゅっと目をつむった。


「……アンジェ・ハンティントンだな」


 老人とは思えない張りのある若い声に、アンジェは違和感を感じた。うっすらと目を開けると、そこには黒髪の長身の二十代半ば過ぎの男性が立っていた。どう見てもモンクリーフ子爵では無い。


「あ……の……」


 面識のない顔だった。と、言うよりもこんな――完璧な造形の顔立ちの男性に会っていたらアンジェでなくても忘れられないだろう。

 切れ長の目は怜悧で冷たい印象があるものの、その色は柔らかなすみれ色で、厚い胸板はシャツとベストを押し上げて、服の上からもたくましい体つきがわかった。アンジェは思わず彼に見とれながら問いかけた。


「どなたでしょうか……?」

「私はルーカス・エインズワース伯爵」


 アンジェの疑問にルーカス・エインズワース伯爵と名乗った男性は短くハッキリと答えた。そしてその名を耳にしたアンジェの目が驚きで見開かれる。その名は……アンジェの聞き間違いでなければここのところ何度も聞いた名だったからだ。


「エインズワース伯爵……『鉄の伯爵』様……」

「やれやれ、こんな所でもその名で呼ばれるのか」

「王太子が暴漢に襲われた時にその身で庇って、銃撃を受けたと……」

「まあ、その通りだ」


 ルーカスは頷きながら、アンジェを見つめた。昨日、町で見た時よりも随分とぐったりと生気の無いように見える。あの姿は見間違えだったのだろうか。しかしどっちにしろルーカスにとってするべき事は変わらない。


「その伯爵様が……何の御用でしょうか」

「……挨拶に来た」

「挨拶?」


 アンジェが思わずおうむ返しに聞き返すと、ルーカスは胸元から一枚の紙を取り出した。


「私は君のお父上の遺言により決められた婚約者だ。アンジェ」

「こ、婚約……」


 アンジェは何を言われているのかわからなかった。昨晩は老貴族との縁談を決めたと叔父に知らされ、今日は見ず知らずの婚約者と名乗る男性が目の前にいる。しかも……このところ新聞で大変勇敢な英雄だともてはやされていた有名人。


「姉様、婚約するの? していたの?」


 そこでライナスの声がして、アンジェはハッとなった。


「ライナス、ルシア……私はこの方とちょっとお話があるから外に出ていてちょうだい」

「はーい」


 子供達を居間から追いやって、アンジェは少し胸を撫で降ろした。そんなアンジェにルーカスは遺言状を手渡した。


「よく見るといい。お父上の筆跡だ」

「……確かに」


 アンジェは早くに亡くなった母の代わりに父の仕事を手伝っていた。書類仕事を一緒にした事もある。それは見覚えのある筆跡だった。


 そこには「自分に何かあった際は長女アンジェと婚約して欲しい」と書いてあった。


「で、でも……だとしても何故私なのですか。遺言と言ってもこれは……父の希望にすぎません」

「ふむ……」


 ルーカスは戸惑いながらも的確に状況を掴み、質問を返してくるアンジェに内心感心していた。彼はアンジェはこの暮らしから脱せるなら、簡単に食いついてくるものと思っていたのだ。


「ご存じの通り、私……俺は王太子を庇った。おかげで意図せず有名人になってしまった訳だ」

「……はい」

「すると周りが大層うるさい。うちの娘と是非、と毎日毎日。だがな、俺はまだ結婚なんぞ考えてはいない……そこで」


 ルーカスは微笑みながらアンジェの父の遺言状を掲げた。


「これを思い出したのだ。婚約者がいれば身の回りも静かになるだろうと。申し訳ないが君の日頃の困窮ぶりも見させてもらった」

「……ええ」

「どうだい。俺は少なくとも婚約者をこんなあばら屋に住まわせたりしないし、ほつれたドレスを着せたりはしない」


 ルーカスはこちらを怪訝に伺っているアンジェを見て、言葉を切り一歩近づいた。


「……どうだ?」

「それは私にお飾りの婚約者でいろ、と……?」

「ああ、婚約はいずれ破棄しよう。その際は慰謝料をもちろん払う。当分生活に困らない程度にね」

「……」


 アンジェはルーカスを真っ正面からじっと見た。彼が嘘を言ったり、身分を偽っているようには見えなかった。堂々とした出で立ち、仕立ての良い服、そして優雅な立ち振る舞い。それらは詐欺師が一朝一夕に身につけられるようなものではない。と、いうより今のアンジェに詐欺をしてまで奪い取るものなどなにもない。


「伯爵様、ひとつ宜しいですか?」

「なんだい」

「もし、その話を受けたら……私の弟妹……ライナスとルシアの養育をきちんとさせていただけますか」

「ああ、お安い御用だ」


 ルーカスはなんでもないような顔で頷いた。


 これでアンジェの心は決まった。このままだと老貴族に嫁がされて家族バラバラになってしまう。それを避けるには──今この手を取るしかない。


 アンジェはドレスの裾をつまみ、ルーカスに頭を下げた。


「ルーカス・エインズワース伯爵……この話お受けさせていただきます」

「……ああ」


 ルーカスはアンジェのかさついた細い手を取ると、その甲に口づけをした。


「俺のことはどうか……ルーカス、と」

「ルーカス……」


 彼の名を呼んだアンジェを、ルーカスは見つめた。その瞳は、町で見た時と同じ、キラキラと活発に輝く青色だった。


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