29話 抱擁
それから二週間ほど、アンジェはルーカスに寄り添って過ごした。一緒に本を読んだり、ライナスとルシアと一緒になって、大掛かりな人形劇をルーカスに見せたり……。
「……こういうのは少し照れるな」
ふと、ルーカスはそう呟いた。
「こういうのって?」
「一家団欒っていうのかな。父も母も忙しかったから」
「そう……」
「君たちの絆はとても強い。アンジェはたいしたものだよ」
ルーカスの言葉に、アンジェは少し照れながら答えた。
「……あの子達は母様を知らないで育ったから。私が母親代わりなのよ」
「そうか」
「絵姿でしか母親の姿を知らないのよ。だから母様の最後の肖像画はいつも大事に持っているわ」
「俺も……両親の生きているうちにもっとしてやれることがあったかな……」
二人の間にしんみりとした空気が流れた。失って気付くことは多い。アンジェはそんな雰囲気を振り払うように手を叩いた。
「さ、そろそろお医者様がくるわ」
「ああ」
「驚異的な回復力だって言ってたわ。さすがね」
「丈夫なのが取り柄だからな」
その後やってきた医者はルーカスの状態を見て、短時間の外出ならば大丈夫と太鼓判を押して帰っていった。
「よし、では公園に散歩に行くかな。このままだと足が萎えてしまいそうだ」
「今だって、隙あらば庭を散策しているじゃない」
「もう見飽きたよ。そうだ、買い物をしよう」
「浮かれすぎよ」
「いいじゃないか。夜会でダンスを踊るわけじゃない」
医者の見立てに、ルーカスはもうあちらこちらに出かけるつもりでいるようだ。アンジェは思わず釘を刺さずには居られなかった。これではまるで口うるさい母親のようだと思いながら。
「……君に、香水を買ってないと思って」
「え、香水?」
「ほら植物園で……」
足をくじいたので買えなかった南国の花の香水のことだ、とアンジェは思い出した。
「ああ……素敵な香りだったわね」
「うん、君にあうと思う。な、すぐに帰るからそれだけ買いにいこう」
「もう……しょうがないわね」
そんな前のことを覚えててくれたのがアンジェは嬉しくて、思わず頷いてしまった。
翌日、アンジェとルーカスは馬車に乗って公園に赴いた。ルーカスは久々の外出である。
「うん、やっぱり外はいい。……これがエインズワースの領地ならもっと言うことないのだが」
「ここは都会だものね」
「ああ。我ながらいい領地だと思うよ。それに素晴らしい馬がいる。ウィングと言うんだ。黒いツヤのある美しい馬で、とても賢い」
「乗馬が好きなの?」
「乗馬に剣術にボクシング、体を動かすのは好きだよ」
軍人でもないのにルーカスがたくましい体つきなのはそういう訳なのか、とアンジェは思った。早足で歩きそうになるルーカスをわざと引き寄せて、アンジェはゆっくりと公園を歩いた。
「そろそろ買い物にいきましょうよ」
「そうだな」
アンジェ達は再び馬車に乗り込み、カッセルで一番大きな香水店に向かった。
「……これだ」
「いい香り。大事にするわ」
宝石も、ドレスの大半もアンジェは置いてルーカスの前から姿を消す。だからこれがルーカスの思い出の品になってしまうだろう、とアンジェは思った。
『やあ』
『……ユーリ?』
「どうも、ユーリ。久し振りだね」
「お見舞いが遅くなりました。エインズワース伯爵」
アンジェ達が買い物から帰ると、応接間にユーリが来ていた。
「あの折りは申し訳ない。我々が美術館に誘わなければ……」
「いや、事故のようなものだ」
「具合は?」
「もういいよ。今も散歩と買い物に行ってきたところだ」
ユーリの謝罪にルーカスはただ首を振った。ユーリの内心はどうだかわからないな、などと思いながら。
「我々もバタバタしていて……もうすぐ帰国することになったので」
「……そうか」
「王宮で晩餐会を開いてくれるそうです。そのうちに案内状がくるかと」
「是非、出席しよう」
そうルーカスは答えた。ユーリは去り際にアンジェにそっと目配せをした。そう、その帰国の日がルーカスとの別れの日だ。アンジェは黙ってユーリに視線を返した。
「ふう……」
一日が終わり、寝間着姿のアンジェは髪をとかしながら物思いにふけっていた。わかってはいた。ユーリに付いて行くことを選んだのは自分だ。だけど、やはりその日が迫ってくると思うと、アンジェはため息が出てしまう。
「……ルーカス」
アンジェは彼の名前を呟きながら、今日買って貰った香水を手に取った。そしてそれを手首に振る。南国の甘い花の香りはどこか官能的だ。
「なにか飲み物でも……」
落ち着かない気分になったアンジェは階下に降り、こっそりと台所に向かった。たまにはお酒もいいだろうか。アンジェがそう考えて居ると、背後に人の気配がした。
「……アンジェ?」
それはルーカスだった。ルーカスは、髪を下ろし、寝間着にショールをかけただけの姿に驚いて固まった。
「こんな時間にどうしたんだ」
「そっちこそ……私は……ワインでも飲みたくなって」
「……俺もだ」
「あなたお酒はまだ……」
「ブランデーは止すよ。ワインを少し飲みたくなったんだ。……良かったら一緒に飲まないか」
「……そうね」
彼と一緒にいるのもあと少し。そう思ったアンジェはルーカスの言葉に頷いた。ルーカスはワインを手にしてアンジェの手を引いた。
「……俺の部屋で構わないか?」
「ええ、いいわ」
ルーカスはアンジェを寝室のソファーに座らせると、ワインをすすめた。
「どうぞ」
「ありがとう……」
「どうしたんだい、眠れないのか?」
「ええ、ちょっとね」
アンジェはそう言ったきり、黙ってワインを飲んでいた。
「ルーカス……ありがとう……」
「どうしたいきなり」
「お礼を言いたくなったの」
ランプだけの薄暗い部屋の中で、アンジェが微笑む。その目元は少し赤い。
「酔ったのかも」
「そうか……では部屋に」
そうルーカスが立ち上がろうとした時だった。アンジェはルーカスの胸の中に飛び込んだ。
「ルーカス」
「ア、アンジェ……?」
「……帰りたくない」
アンジェから、今日買ったばかりの香水の香りが立ち上る。その香りにルーカスはクラクラした。
「……アンジェ、酔ってこういうことは……良くない」
「酔っ払って言っているんじゃないの……ルーカス、あなたが欲しい」
このエレトリアでの思い出に、愛しいルーカスの全てを知りたい。勝手な願いだけれど、自分の大切なものを彼に捧げたい。アンジェはそう思い、ルーカスを抱きしめる手に力をこめた。
「……アンジェ、俺はそう辛抱強くはない」
「辛抱なんて……しないで」
そう言って、アンジェはルーカスに口づけた。
――翌朝、アンジェは自分のベッドで目を覚ました。
「……ん、なんで……」
と、一瞬考えた後……アンジェの顔は火の付いたように赤くなった。はっきりと自分が何をしたのか覚えている。最高の……思い出を貰ったのだ。
「アンジェ様、おはようございます……あら、お顔が……熱ですかね」
「そ、そうね。ハンナ……もう少し眠るわ……」
アンジェは起こしに来たハンナにそう言って誤魔化して、上掛けを頭からひっかぶった。
その頃、ルーカスは有頂天だった。昨夜のアンジェは……素晴らしかった。こうなってはもう、任務の為だとかなんとかは関係ない。男として責任を取らねば。
「……結婚がこうも楽しいとは思わなかった」
あとはしかるべき時に求婚をするだけだ。ルーカスはそう思うと思わず鼻歌が出てしまうのだった。




