28話 偽りの安寧
「ルーカス、起きて大丈夫?」
「ん? ああ、少し痛むが……」
アンジェはその日から食事の時も包帯を替えるのもずっとルーカスの側にいた。ある日アンジェが薬を持って部屋に入ると、ルーカスはベッドから立ち上がっていた。
「無理しないで」
「大丈夫だ。本を読むのも飽きたし……外の空気でも吸おうかと」
「駄目よ」
「庭を散策するくらいならいいだろう?」
「……それなら」
アンジェはしぶしぶとルーカスに手を伸ばした。
「捕まって」
「おい、これくらいいけるさ」
「駄目、転んだりしたら悪くなるわ」
「……過保護だな」
ルーカスは少し苦笑しながら、アンジェの手を取った。庭は今、夏の初めの緑が覆っている。
「ふう……」
「疲れた?」
「いや、清々しい。じっとしてるのはもともと性に合わない」
ルーカスはそう言いながら近くの木に寄りかかって空を見上げた。ゆっくりと雲が流れ、鳥が飛んでいく。
「仕事で何カ国も回った。兄が死んでしまうまで、それが天職だと思っていたさ。まさか伯爵位を継ぐと思っていなかったから」
「ルーカス……」
「家督を継いでからは、俺は生意気で頑固だったと思う。皆が良かれと思って口を出すことのわざと反発をしたりして」
「……私みたいね」
アンジェは思わずそう答えていた。ルーカスの援助に、アンジェはなんども反発していた。
「だから君の気持ちはだれよりわかっているはずなのに……」
「いいの。今ならわかるわ。ルーカスが私の為にしてくれていたことが。……だからお父様のことももう聞かないわ」
「アンジェ……」
「だから、もう危ない事はしないで」
「……ああ」
ルーカスはそう頷いたけれども、アンジェはきっとまたアンジェ達が危なくなればきっと彼は体を張って守ってくれようとするのだろう、と思った。
「それにしても困ったわね、怪我してるのにこのままだとルーカスは家から脱走しそうだわ」
「う……?」
「退屈しないようにしないと……そうだ、演奏会でもしましょうか」
「演奏会……?」
「ルシアは歌が上手いのよ。私がピアノを弾くわ。それで……」
アンジェはルーカスの退屈しのぎをずっと考えて居る横で、ルーカスは苦笑しながらくるくる変わるアンジェの表情を眺めていた。アンジェがこんな風に横にいてくれるのなら、怪我をするのも悪くなかった、などと考えながら。
「アンジェ、俺が仕事と称してあちこち回っていたのはきっと何かを探していたからだと思うよ」
「……何か?」
「さあ……なんだろう」
次男という立場で、気楽な一方ルーカスはいつもどこか空虚だった。自分だけの居場所、そんなものを探していた気がする。伯爵位を継いでもその気持ちは満たされなかった。断ろうと思えばできた外務省の依頼もだから受けた、そんな気がする。
「……今はそんなことないけどね」
「そう」
「だから、俺の脱走の心配なんてしなくていい」
「だってやりかねないでしょう?」
「信用ないんだな」
ルーカスはぽんぽん言い返してくるアンジェが可笑しくて笑った。途端、腹部の傷に痛みが走る。
「……痛っ……」
「ルーカス!」
そしてよろけたルーカスをアンジェは思わず支えた。アンジェの肩に手を回し、俯いたルーカスが顔を上げると、目の前にはアンジェの顔があった。吸い込まれそうな青い瞳、けぶるような金のまつげまでくっきりと見える程、近くに。
「……アンジェ」
「ルーカス」
二人の顔が自然に近づいて行った。衝動からではなく、互いの温かい感情が唇を近づけていく。吸い寄せられるようにルーカスとアンジェはキスを交わしていた。
「……すまない」
「どうして謝るの。キスしたくなかったの?」
「アンジェ……」
「私はルーカスとキスをしたかったわ。駄目?」
唇を離して、衝動に負けた言い訳をルーカスが口にする前に、アンジェははっきりとルーカスに答えた。
「……駄目じゃない」
ルーカスは手を伸ばすと、アンジェの頬を掴んだ。そして今度は欲望の火をチラチラと燃やしながらアンジェを見つめる。アンジェはルーカスのその視線を受けて、目を瞑った。ルーカスは今度は触れるようなキスではなく、もっと深く彼女に口づけた。
「……っ」
「アンジェ……」
「風が……出てきたわ……もどらないと……」
頬を赤らめながら、アンジェはうわごとのように言った。ルーカスはそんなアンジェを抱きしめてその首すじに顔を埋めて答えた。
「……ああ」
***
「さておあつまりの……ルーカスさんしかいないけど」
「ははは」
しまりのない挨拶をライナスがして、彼はぺこりと挨拶をした。そしてバイオリンを構え、メロディーを奏ではじめる。それに合わせ、アンジェはピアノの伴奏をはじめた。前奏が終わると、ルシアが歌い始める。
その歌声は、幼いながらよく響く声で、ルーカスは驚いた。
「おーわーり!」
歌い終わったルシアがそう宣言してぺこりと頭を下げると、ルーカスは彼女に惜しみない拍手を送った。
「いや、驚いたルシア。きれいな歌声だね」
「ありがとう……」
ルシアの普段おっとりとした姿からは考えられない歌声だった。
「アンジェ、数年後が楽しみだな。本当に演奏会を開いたら、ルシアは社交界の花になるぞ」
「ルーカス……気が早いわ」
アンジェはそう言いながらピアノの蓋を閉めた。本当にこのまま、エレトリア王国でルシアが大きくなって年頃になったら……そういうこともあるかもしれない。けれど、それはもう見られない未来だ。
「そうなったら、ライナス! 兄上としてろくでもない羽虫は払わなきゃいかんぞ」
「うん、まかせておいてよ。ルーカスさん」
ルーカスとライナスの軽快なやりとりを横で聞きながら、アンジェは本当に小さくため息をついた。