20話 葉巻とクッキー
ここは紳士達の社交場。選ばれた階級が作る小さくも複雑な社会。政治に経済、文芸芸術に国際情勢に新しい事業……それからただの噂話。さざめきと葉巻の紫煙の間でそれらは語り合われ、そしてやがてこの国を形作るのだ。
「やあ、ウィリアム」
「ルーカスか。久し振りじゃないか。美しい婚約者を持つとここには足が遠のくのかと噂していたよ」
「それは……否定できないな」
ルーカスは一人、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた友人ウィリアムの前に座った。
「で、頼まれてたあの紳士……ブラッドリー・ハンティントンだっけ? 君の婚約者の親戚の」
「ああ、彼はどうだい?」
ルーカスがそう言うと、ウィリアムの顔から人懐っこい笑みが消えた。
「あーりゃ駄目だ。話にならん」
「ははは」
「笑い事じゃないぞ。田舎の作物の加工品もな、売りようはあるんだが……もう勝手にべらべらと……こっちがやる気をなくすよ」
「すまんな。お守りをさせて」
ルーカスは人を呼んで、コーヒーを飲んだ。
「ま、最近はカードのカモにしているけどね」
「それでいい。たまに負けて適当にいい気分にさせといてくれ」
「もちろん。で、聞かせて貰おうか?」
わざわざ座り直してウィリアムはルーカスの顔を覗き混んだ。
「え?」
「そりゃ麗しのアンジェ嬢のことさ! この記事によると……白磁の肌に艶めく金の髪の巻き毛が揺れて、と」
「……勘弁してくれ」
ルーカスがすねた顔で顔を背けると、ウィリアムは心底楽しそうに笑い出した。
***
その頃、アンジェの家では……ルシアとライナスが粉だらけになっていた。
「混ざったよ!」
「そしたらそれを薄く伸ばすのよ」
「はーい」
アンジェは双子達にそう言ってまた本に目を移した。
「アンジェ様……そう言ったことは自分達がやりますので……」
その横でハンナとモリーがおろおろしている。
「だって、折角へーリア風のお菓子のレシピを見つけたのに」
「そうですが……見てられません! 砂糖が入ってません! やりなおしです」
「え……? あ、本当だわ」
「……最後の型抜きはお願いしますからじっとしていてください……」
ハンナにそこまで言われてアンジェはようやく諦めた。アンジェはスープや焼いた卵が作れるならクッキーも作れるだろうと思ったのだけど思ったより複雑だったようだ。
そんな風にわざわざ台所に立ったのは、ユーリがシニイの花の砂糖漬けとレシピ本を差し入れてくれたからだ。アンジェはせっかくならこれが欠かせないへーリア風のクッキーを作ってグレンダをお茶に呼び、食べて貰おうとしたのだ。
「……一応、出来たわね」
アンジェは一部不格好な……ライナスとルシアの型抜したものが混じったクッキーを前に満足そうに微笑んだ。
「あらまあ! なんて久し振りなの……」
「良かった……グレンダに喜んでもらいたくて」
それを見たグレンダは早速ひとつ口にした。
「そう、このほのかな花の香りとほろほろした食感……これよ。これがクッキーよ」
「こっちのは何か固いですものね」
きっと何かの分量が違うのだろうけど、アンジェにはよく分からなかった。
「そうそう。……で、あなたの幼馴染みは気が利くわね」
「料理人を連れてくる訳には行かなかったから、本にしたそうです」
「まあ……その本借りたいわ……あ、でもうちの料理人はへーリア語が読めないわね」
アンジェはなるほど、と思った。ハンナはへーリアにいた時期が長いからある程度へーリア語が読めるのだ。
「良かったら、私……訳しましょうか」
「……いいの?」
「ええ。翻訳はやったことが……その、気晴らしに……」
アンジェは生活の為に翻訳していたと言いそうになって、思わず誤魔化した。グレンダは良家の令嬢が翻訳とはいえ働くことを良しとはしないだろう。
「お世話になっていますから、それくらいお礼をさせてください」
「アンジェ……」
「グレンダはまだお若いのに、こんなこと言っては何ですが……なんだかお母様といるみたいで」
アンジェがそう言うと、グレンダはバッとアンジェの手を取った。
「まあ、ありがとう……いいわねぇ、女の子は。私も一人くらい娘を産むべきだったわ」
「は、はは……」
アンジェがグレンダの勢いに押されて曖昧に笑っていると、応接間のドアが開いてルーカスが現われた。
「遅れてすまない」
「ルーカス、いらっしゃい。ここに座って」
アンジェはルーカスに席を勧めると、グレンダとは別皿のクッキーをルーカスに勧めた。そのクッキーはいびつな所為でちょっと焦げ目が付いている。
「これは……? その……」
ルーカスは一瞬遅刻した罰か、と言いかけたがすんでのところで言葉を飲み込んだ。
「ライナスとルシアが型抜きしたの。ルーカスさんに食べて貰うって」
「そうか……」
ルーカスは双子達が小さな手で一生懸命作っている姿を想像して思わず頬がゆるんだ。
「ではいただくよ」
「……どう?」
「うん、おいしいよ。ありがとうと伝えておいてくれ」
「ええ」
本当はなんだかぼろぼろしてるしちょっと焦げ臭いと思ったが、ルーカスはなんだかとても美味しく感じられた。しかし……。
「……本当にいい婚約者だこと。幸せね、ルーカス」
偽りの婚約だと見抜いているグレンダの言葉に、ルーカスは思わずクッキーを喉に詰まらせそうになった。
「げほっ……」
「あら、飲み物を……」
そんな一幕もありながらも穏やかな午後のお茶会はすぎて行った。
「ではまた来てね」
「ああ」
ルーカスはアンジェの家を去り、馬車に乗って自宅へと向かう。馬車の窓から振り返ると、アンジェはまだ手を振っていた。
「彼女と結婚したら……こんな日が続くのか……」
だが、その日はこない。例の指輪を見つけたらルーカスはアンジェの前から去る。
「その前に……君の憂いは少しでも取り去ってやりたい……」
ルーカスはそう呟いて、顔を覆った。
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