14話 冷淡と情愛
「素晴らしかったです……あんな威厳のある方をはじめて見ました」
「そう、良かったわね」
一方で、国王夫妻への拝謁を終えたアンジェは高揚感から頬を火照らせていた。グレンダは初々しいその反応を微笑ましく横で見守っていた。
「さあ、あちらでお喋りしましょう? 喉が渇いたわ」
「ええ、カーライル公爵未亡人」
社交界の女帝と影で言われるグレンダがカウチで飲み物を求めると、取り巻き達がいっせいに集まった。
「そちらのご令嬢は? レモネードをお持ちしますか」
「は、はい……」
アンジェは老若男女問わず慕われるグレンダの人望に驚きながら、彼らと談笑を楽しんだ。この間まで、明日の食事に事欠くほどに困窮していた自分が、着飾って、こんなきらびやかな空間にいる。アンジェは信じられない……と心の中で呟いた。
「ここにいたのか」
「ルーカス……」
アンジェを見つけ、一直線に彼女の元に向かってくるルーカス。艶やかな黒髪に黒い礼服が長身に映えている。その切れ長の目を細めながら、彼は手を差し出した。
「アンジェ……踊らないか?」
「え……」
「まさかもうダンスカードがいっぱいだなんて言わないだろう?」
「も、もちろん……何も……」
グレンダの取り巻きもルーカスを差し置いてダンスを申し込む度胸など無かった。
「……では」
「はい」
アンジェはルーカスの手を取ると、広間の中央に進み出た。ゆったりとした音楽に身を任せ、ステップを踏む。
「上手だね」
「ルーカスのリードが上手いからです」
アンジェはそう褒められても素直に喜べなかった。これは婚約者として踊る姿を見せつければいいのであって……と余計なことを考えてしまうからだ。確かにルーカスのリードが巧みなのは事実なのだが。
「これで、後戻りはできない。婚約者として……よろしく頼む」
踊りながらルーカスはアンジェに囁いた。
「ええ、言われなくてもそのつもりです」
アンジェはルーカスに腰を抱かれながら頷いた。そうして……アンジェの社交界デビューの夜は終わった。
「ふう……」
夜会が終わり、アンジェは一人ベッドの中で寝返りを打った。華やかな舞踏会。アンジェだって憧れていなかった訳では無かったし、デビュッタントとして国王夫妻に拝謁できたのも光栄だった。だけど……。
「あんなダンスを踊りたくなかったわ」
あの後何人かと踊ったけれど、アンジェの心は晴れなかった。
「わからないわ……あの人が。本当にわからない……」
ルーカスのアンジェを見つめる目の色。一瞬、情熱的になったかと思うと、すぐに氷の様に素っ気なく変わる。その度にアンジェの心は揺れてしまう。
「ユーリ……」
この偽りの婚約を、アンジェは誰にも話す気は無かったけれど……ユーリなら相談に乗ってくれるだろうか。アンジェは穏やかで気さくな幼馴染みに会いたいと強く思った。そうでないと、どうにかなりそうだと。
***
数日後の午後、アンジェは顔いっぱいに嫌悪感を浮かべて応接間のソファーに座る叔父ブラッドリーと対峙していた。
「やあ、アンジェ。達者なようでなによりだ」
「……それはどうも」
メイドのハンナには双子達をけっして子供部屋から出さないようにと言い含めてある。
「ここは隙間風も雨漏りもありませんし、食事も毎食食べられますので」
「そんなことになっていたとはすまなかった。言ってくれたら良かったのに」
「……」
アンジェはブラッドリーの面の皮の厚さに呆れた。窮状なら何度も彼には訴えたのだ。その度に鞭を持ってアンジェを打ち据えたことなどとうに忘れたというのか。ただ……これでも後見人なのだ。何か理由をつけてライナスを連れ帰られては敵わない。
「叔父様、どうしたのですか。訪問カードも無しにいらして」
せめて、叔父の不作法を非難しつつアンジェは彼の訪問理由を聞いた。
「なに、ただカッセルに着いたから一度挨拶に来ただけだ」
「そうですの。こちらはエインズワース伯爵のおかげで安泰に暮らしてます」
「そ、そうか……私も彼の紹介で近頃、社交場に出入りしていてね」
「そうですか。ハンティントンの名産品の評判は?」
「上々だ。それで……ちょっと手持ちがいるんだ」
「……は?」
アンジェはブラッドリーが何を言っているのか本当に分からなくて思わず取り繕うことも忘れて聞き返した。
「いや、ちょっとした紳士の嗜みだよ。貿易に明るい名士がだな、カードで勝ったらうちの特産品をたんまり買ってくれると……」
「叔父様……」
「まあ、女のお前には分からないだろうが……」
アンジェは心の底から呆れた。ハンティントンにはそれなりの財産があるはずなのに、なにもかもルーカスの世話になっているアンジェの元に金をせびりにくるなんて。
「――で、いかほどご入り用で?」
その時だ。応接室にズカズカと入ってきたのはルーカスだった。ドアの横で従僕のトビアズが申し訳なさそうな顔をしている。
「はは。少しですよ」
ブラッドリーは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐにへらへらとした顔をして答えた。
「……小切手を切りましょう」
「ルーカス!」
アンジェはそんな要求に応える必要なんてない、と彼に呼びかけた。
「まあ、色々あるのでしょう」
「そうだぞ、アンジェ。伯爵、助かりました。必ずお返ししますので」
目的を達成したブラッドリーはもう用はないとばかりにアンジェの家から去った。
「困るわ、ルーカス。叔父様を調子に乗らせないで」
「なに、少額だ。とっとと目の前から消えて貰いたかったんだ。君だってそうだろう?」
「それは……そうですけど」
あのまま居座られたらアンジェだって困る。結局、ルーカスの用意してくれた宝石のひとつでも渡していたかもしれない。
「社交場のことはわからないけど、叔父様はいつもあんななのかしら」
「……紹介はしたが、それ以上のことは彼次第だな」
「はあ……」
それでも身内、そして後見人なのだ。アンジェはとても恥ずかしかった。なぜあんな人を父は後見人に指名したのだろう。
「……アンジェ、元気を出して。そうだ、ライナスとルシアもつれて公園に行かないかい」
落ち込んでしまったアンジェを慰めるように、ルーカスは散歩に誘った。
「薔薇が綺麗だよ。見に行こう」
「ええ」
ルーカスはライナスとルシアのことは本当に可愛がってくれる。探してくれた家庭教師はよくやってくれているし、双子達もルーカスのことを兄のように慕っている。
「……だけど、私には時々意地悪だわ」
「何か言ったかい?」
「いいえ、なんでも!」
ルーカスとアンジェは仕度を済ませた双子を連れて公園を散歩した。美しい見頃の薔薇はブラッドリーの訪問で曇っていた心を癒してくれた。
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