橋の下の影の中
夢というものは、それと気づけば、その中で遊べるものを。
気付かなければ、翻弄される。
悪夢の場所が自分の生活圏内だったとすると、
それなりに不安が残るものだ。
もう何年も前になる。
ちょうど、今くらいの季節であったか。
浅草橋付近の住宅街を、背丈は人の倍はある赤黒い、筋肉質な、
角のない鬼のようなものに、追いかけられていた。
周辺に人の姿はない。
数キロも走り続け、もう走ることはできないと、隠れる場所をひたすら探していた。
寺に行けばいいのか、神社に行けばいいのか、いや、近くにはない。
何より、そこまで走れない。
息が上がる。もう走ることはできない。
そこで私は、柳橋を渡らず、橋の横から下に降りた。
夜の橋の下は真っ暗闇である。
しかし、水辺から少しだけ陸地があり、しゃがみ込む場所があった。
そこで、息をひそめた。
ドスドスと、重いが早い足音がする。
近づいてきている。
ギィッ
コンクリートのはずの橋がきしんだ。
早く通り過ぎてくれれば良いものを、化け物は真上あたりをウロウロしている。
月明かりに、化け物の影が水面に映り、行きつ戻りつしている大きな姿が確認できる。
生きた心地もしない。
化け物が橋の欄干に手をかけ、こちらを覗き込もうとしていた。
見えないはずだ。
見えない場所だ。
見えない暗さだ。
化け物が声を発した。
「そちらに、おりますかな?」
話せたのかよ!コイツっ!!!
内心の驚愕をため、静かに息を吐いた。
真っ暗な、我のすぐ隣から声が応えた。
「こちらに、おりますぞよ」
ちくりやがったーーーー!
でも、何も見えねぇーーーー!
「いたみいりまする。それではまいります」
すんごい丁寧な言葉遣いに、違和感を感じながら、この期に及んで、
「美しい言葉遣いは良いものだ」
と心のどこかで感心している自分と、化け物につかまる恐怖。
ついでに、橋の下の闇の中、すぐ隣に、自分以外の何者かが居たという事実。
それらに翻弄されて、
目が覚めた。
夢だった。
この内容は、場所は西とされるが、江戸時代には伝わっている話である。
短い話で、やはり、主人公は理由が明かされぬまま、何者かに追いかけられ、
逃げ込んだ橋の下に隠れている時、追っている者が所在を問い、
自分の隣から、何者かが、居ると答える。
ただ、それだけの短い話ではあったが、まさか夢にまで見るほど印象に残っているとは、
自分でも思わなかった。
ああ、悪い夢を見た。
どんよりと起き、仕事に向かう。
その翌日、土曜日で休みだった。
何とはなしに、浅草に行き、人形焼きを買った。
一袋に10個(人?)くらい入っている。
座れる場所で、ペットボトルのお茶と共に食していた。
焼きたては、やはり美味しい。
しかし、一人で食べれる量でもない。
家に持ち帰って、彼氏にあげよう。
牛乳と一緒なら喜ぶだろう。
そんな事を考えながら、歩いていた。
河童橋を通り過ぎ、てくてくと歩いた。
柳橋に来た。
夢を思い出していた。
柳橋は日本橋の芸者の置屋があった場所で、今は、置屋が素泊まりのホテルになり、
川沿いの柳の木と、日本舞踊の教室の看板だけが、昔の面影を残していた。
明るい日の光の下でも、取り立てて開発もされず、
かといって意図を持って残されてもない。
そんな裏寂しい場所であった。
小さな川にかかる柳橋に着いた。
少し考える。
人形焼きは、まだ6か7個入っている。
紙袋の口をくしゃくしゃと丸めて閉じて
欄干から身を乗り出し、薄暗い、橋の下の端に届くように下に向かって投げた。
水音はしない。
人形焼きは、上手く土の上に落ちたようだった。
だからといって、何も起こらない。
何をやっているのだか、と自分で苦笑しながらも一声かけた。
「その時になったら、匿ってくれよな」
応えるものは何もない。
当たり前だ。
ただ、
歩き出した背後で、紙袋の口の開かれるような、
クシャクシャとした音が、橋の下から聞こえた。
「約束だぞ」
重ねて言ったが、応えるものはなく、
ただ、春前の風が通り過ぎただけだった。