窓際ガール×フライトJK
十月の空は遠くまで澄み渡り、空路を邪魔するものが少ない。
飛行機の客室内はたくさんの人が座っていたけれど、ゴオオオオ――という低いエンジン音が響くばかりで話し声はほとんど無かった。
私たちは航空機の右手側、三つ並んだシートに腰掛けている。窓際のシートが私、真ん中にクルミさん、通路側には静寝さんだ。私が空の景色を楽しめるようにと、彼女らがその席に決めてくれた。窓からは広い滑走路と、大きな翼が見えた。
これから私たちは北海道に向けて飛び立つ。
旅の行き先はそこだけじゃなく、全国各地を回る予定だ。といっても一度に全国を旅するのではなくて、休日やまとまった連休を利用しながら何度かの日程に分けて行く。
主な目的は錬成のための素材探しだけど、ついでに観光だってする。
素材探しについてはクルミさんが好みのものを選ぶわけだから、私としては観光を楽しむ以外、積極的にやるべきことがない。
どうするべきか静寝さんに相談したら、『クルミちゃんと楽しんでもらえたら十分だよー。あの子、旅行でのいい思い出ってあんまり無いはずだから。作ってあげて』とのことだった。
クルミさんと遊ぶだけなら確かに簡単なんだけど、本当にそんな楽だけしてていいのかなと不安になる。
それに今、私には別の不安もあった。
「クルミさん、飛行機って思ったより大きいんですね。こんなに重たそうなのに空を飛べるなんて、ちょっと信じられません」
「え、そう? 普通に飛べると思うけどなぁ」
「……飛行機が落ちる確率ってすごく低いんでしたよね? 確か、宝くじ一等当てるより難しいとか」
「その話、聞いたことあるかも――本当のトコなんて知らないけど。でも墜落のニュースなんてまず見たことないし、実際そうなんだろうねぇ」
「ですよね。ちゃんと飛ぶのは当たり前ですし、大丈夫ですよね……」
「大丈夫ってなにが?」
四角い窓から外をみる。
あの白くて大きな翼が、羽ばたくことなく高度を上げる。これだけの人数を安定して運べるほどの力、どこから生まれてくるんだろう? どういう理屈で飛んでいるのか、私にはよく分からない。
「でも、毎日世界中で飛んでますし、なのに落ちてないですし。だから今回も大丈夫なんですよね。心配すること、ないですもんね……」
「美咲。もしかしてヒコーキ怖いの?」
「全然そんなことありません。むしろワクワクしてますよ? 空飛ぶのってどんな感覚だろうって、今から楽しみです。初フライト最高――――うわうわうわ! 動いてます、動いてますよクルミさん⁉」
「いやめちゃくちゃ怖がってるじゃん……まだ移動してるだけだから落ち着いて」
飛行機が滑るように発進する。怯える私の頭を、クルミさんがヨシヨシと撫でた。
出発前は不安なんて感じてなかった。だけどいざ乗ってみると、飛行機というのは車とか電車と比べてずっと怖い。
だって、落ちれば絶対助からないような高さを飛ぶのだ。こんな重そうな機体で。私の知らない力に頼って……なんだか無謀に思えてしょうがない。
『事故なんてまず起きないから大丈夫』とか、『そんな不幸は滅多にない』とか。そう頭の中では分かっているはずなのに、恐怖が纏わりついて離れない。
ちなみに静寝さんはというと、シートに座るや否やスヤスヤと寝息を立てはじめていた。アイマスクもせずに、気持ち良さげな寝顔を晒している。
もとより肝の据わった性格をしているし、寝るのが好きな人なのだ。だからって離陸前にこれだけ安眠できる人も珍しいはずだけど……。
「あぁー美咲すっごい震えちゃってる。なにかして欲しいことある?」
「手、握っててください。落ちても離さないでくださいね」
「そのときは私も一緒に落ちちゃってるはずだけど……でもまぁ分かった。しっかり握っててあげるー」
クルミさんが、子どもの手をニギニギと弄ぶ。
そうこうしている内に離陸のアナウンスが流れて、エンジンが『コォォォッ』という大きな音を立てはじめた。いよいよ飛び立つ時間みたいだ。不安を押しつぶすつもりで、繋がれた手に力を込める。窓の外は、怖くてもう見れなかった。
「美咲、これあげる」
「ぶぁ」
震えを止められずにいると、頭の上になにか布のようなものを被せられた。突然暗くなった視界に戸惑っていると、今度はクルミさんが慣れた手つきでチョーカーを外す。隠れていたネコ耳がピョコンと生えて、敏感な嗅覚が彼女の甘い香りを捉えた。
大きく、ほとんど反射的に吸い込む。それだけでちょっと安心してしまう。
「それ私のカーディガン。匂い好きなんでしょ? 貸したげる」
「に、匂い? なんの話か分かりません。別に好きじゃないですが」
「そろそろ隠すのやめない? 美咲には悪いけど、一月近くもクンクンされたらさすがに気付いちゃうから。いい加減知らんぷりするのも大変だったし」
「ちがっ、違ああァァァっ!」
ずっと秘密にしてきたことを、クルミさんにあっさりと見抜かれた。
思わず変な声が漏れる。なんとか言い訳を思い浮かべようとして、けれど事実なんだから釈明しようもない。カーディガンを目深に被って顔を隠した。視界がもっと暗くなる。
こんな時にも、しっかり香りを味わってしまう自分が呪わしい。現場を見られた悪人の気分になる。寝る前とかによく彼女の匂いを嗅いでいたりしてたんだけど……まさかバレていたなんて。
おかしなクセだという自覚はあったから気をつけてたのに。
「うぅ、ゴメンナサイ……」
「謝らせたかったわけじゃないんだけどさ。美咲がしたいなら好きなだけ嗅いでもいいし」
「いいんですか⁉ じゃなくて、良くないですよ……」
「それよりもう離陸するみたいだから、目ぇ瞑ってるといいよ。怖いのはすぐ終わるから」
クルミさんが言い終わると同時、見えない力が私を後方へと引っ張った。暗くとも、飛行機がゆるやかに前進をはじめたことが分かる。
飛びたつ恐怖とか、悪事がバレた気不味さとか、それを許すようなクルミさんの言葉とか。それらが混ざって頭の中がゴチャゴチャするけど、そんな私の気持ちさえ置いてゆくように、機体は速度を上げていった。
ふと、お尻が頼りなく浮ついて、今度は逆に重力が増す。頭の中身が下へと落ちていくような感覚がある。機体が飛んだのだ。
クルミさんの手をギュッと握りしめると、彼女も答えるように握り返してくれる。
地面にも負けないくらい頼れるものを手に入れて、カーディガンの下から窓の外を確かめた。
「ふわぁぁぁ……」
「おー――」
私だけじゃなく、クルミさんも一緒に声をあげていた。
陸地はみるみる内に遠ざかり、窓の四角いキャンバスはほとんど空の色を映しはじめていた。
雲の少ない晴天は、単一な青だけに収まらない。低いところは霞むように青白く、高いところほど宇宙の色に近づいてるのがよく分かる。
緩やかに機体が傾けば、飛翼の先が天を指す。
飛行機はさらに上昇を続けたけれど、空の天辺まではとても届きそうにないようだ。
果てなき高さに比べたら、今の高さなんて大したことも無い気がする。不安も同時に小さくなった。
怖さよりも好奇心のほうが勝ってきたので、窓へと顔を近づける。
遠ざかりすぎてミニチュアみたいになった街。絵の具でも描ききれない空のグラデーションの細やかさ。漂う雲たちの平たい底面。
まだ目的地は遠いのに、この瞬間から旅は面白いものに満ちていた。
目的地についたらきっと、もっとたくさん面白いことが待っている。
口元が自然と綻んで、胸の中が踊りだした。
さっきまで身を震わせていた不安が、すべて期待に変わる。
そう感じはじめていたその瞬間……。
飛行機の翼になにかが衝突し、ブワリと白い羽が弾けるように舞い散った。
***
「鳥だねー。すごい速さで飛んでるから事故みたいにぶつかっちゃう、いわゆるバードストライクってやつ。全国的にみれば毎日のようにあるんだってー。珍しいことじゃないから気にしなくていいよー」
目を覚ました静寝さんは、そう言ってくれた。
私も彼女にならって平静に振る舞おうと内心決める。
「そうなんだぁ。いや急にさぁ、羽がパーッて散ったからビックリした。そういうことあるんだぁ」
「そうですね。けどアナウンスじゃ『このまま運航』って言ってましたし、問題ないってことで。一安心です」
自然な喋りを意識しながら、できるだけ前向きな言葉を選ぶ。
ぶつかってしまった鳥には申し訳ないけど、せっかくの旅を暗い気持ちでスタートさせたくはなかった。
特に、あの事故を動物を引き寄せるというクルミさんの性質のせいには絶対したくない。
「それより、離陸の瞬間ってすごいんですね。地上と空とでこんなに景色変わっちゃうなんて知りませんでした」
「私もー。ていうか美咲さぁ、離陸前あんだけ怖がってたくせに、いざ飛んだら全力で感動してるじゃん。さっきまでの私の心配返せ。ついでに上着も返して」
「まだネコ耳でてるからダメです――ちょっと、ダメですってばぁ!」
クルミさんが悪戯っぽく笑いながらカーディガンを剥ぎにかかる。チョーカーを着けなおしてもらってないので、未だネコ耳むき出しだ。このまま取られたら周りに見られる。
冗談半分にしてもちょっと困るけど、雰囲気が和らいでくれた事にホッとする。
お互い気を使ってさえいなければ、このじゃれ合いも普段みたいに楽しめたはずなのに。
ちらりと窓の外を見やる。
翼にこびりついてしまった血痕は僅かだったけれど、私の心をざわつかせるのに十分な不吉さを孕んでいる。
静寝さんは『クルミさんと旅を楽しんでくれたらそれでいい』と言っていたけれど。
実はそれって、けっこう難しい事なのかもしれない。




